近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

なぜ魅惑的なサッカーが琵琶湖から生まれるのか 〜選手権大会・近江の考察〜

先日、何気なく高校サッカーをテレビで観た。今年はどこが勝ち上がってきているのかと思ってつけた試合が、たまたま神村学園vs近江だった。

 

なんの予備知識もなく観はじめたこの試合で僕の目を釘付けにさせたのは、最後尾3バックの左に位置しながら、試合をコントロールしている近江の金山耀太という選手だった。

web.gekisaka.jp

 

近江の布陣は3-6-1で、かつての3-5-2という中盤に厚みを持たせることでポゼッション重視の際に多用されたシステムから派生したものなのだが、攻撃と守備という2局面の流動性が激しくトランジションが重視されるモダンフットボールにおいては、できるだけピッチ全体で均等に選手を配した4-2-3-1や4-3-3などが一般的になっており、あまり見なくなったフォーメーションだ。

 

そんな今となっては比較的めずらしい部類のフォーメーションにあって、まさに守備の要ともいえるポジションに位置する選手が、ピッチ全体を支配するかのようにゲームメイクしているなんて…。しかも金山のボールタッチやパスセンスは、他の選手と比較しても群を抜いている。まさにリアル『アオアシ』だ。衝撃だった。

 

 

そしてそんな僕の目に狂いがなかったかのように、試合も3-3と競った乱打戦から最後は4-3で近江が競り勝ち、1/6(土)には堀越をも下し決勝進出を決めた。

 

とくに堀越との準決勝では意図的にゴール前でカオスな状態を作り出し、金山だけでなくMF山門やMF浅井に加え、右ウイングのMF鵜戸、FW小山らが変幻自在なポジショニングで躍動しファンタスティックな試合運びで終始圧倒していた。

www.nikkansports.com

 

高校生が、なんてサッカーするんだ…

 

思い返してみると滋賀県といえば2005年に後の日本代表として活躍することになる乾貴士を擁して「セクシーフットボール」の異名を取り、まさに一世を風靡した野洲高校もまたサッカー戦術の概念を覆し、衝撃を受けたのをよく憶えている。

 

高校サッカーといえば静岡、山梨などの中部・東海地方や長崎、鹿児島といった九州が伝統的に強豪校を輩出してきた。それなのに何故にこうも(県民の方には大変失礼だが)滋賀や近年の青森といった辺境の地から、かくも魅力的なサッカーが生まれるのだろうか。

 

今、高校サッカーに何が起きているのか考えてみた。

 

人的資本 ~どのようにして「サッカー王国」がうまれるのか~

かつて日本の「サッカー王国」として一時代を席巻したのは、我らアラフォーやアラフィフ世代ではなんといっても静岡だった。発足当初のJリーグでも人気選手を圧倒的に多く輩出していたのは静岡だった。そんな静岡も2019年の静岡学園の優勝があるものの、直近20年ほどは1~3回戦で沈むことが殆どだ。

 

この静岡の凋落ぶりを下記のブログが分析しており強豪校の分散や他県のレベルアップなどを理由に挙げているのだが、なかでも興味深い内容が「ユースへの流出」だ。たしかにJ1チームだけでも2チームあり、なるほどプロを目指すなら高校サッカーを経由するよりもユースに行ったほうがよっぽど堅実だ。

sloryman-yobiko.com

 

では何故に静岡がサッカー王国たり得たのかという逆の視点から考えてみると、静岡は世界に冠たるヤマハやカワイなどの楽器メーカーやホンダ、スズキなどの自動車産業が盛んな工業都市で、人手不足に悩むメーカーの労働力として外国人労働者の流入が多い。

 

なかでも人口割合が大きいのがブラジル出身者で、入国管理法上、就労において日系ブラジル人は比較的優遇されるために浜松などの地方都市に定着することとなった。そんな日系ブラジル人たちが母国から持ち込んだものの一つがサッカー技術だった。

 

当然のように移民2世や3世たちと切磋琢磨することにより、地元の子どもたちもサッカー先進国の技術を吸収することになる。そうして確かな技術をはぐくむ土壌が、彼らのホームタウンたる郊外の地方都市に醸成されることになったのだと思われる。

 

では滋賀県はというと、静岡と同様に湖南の工業団地やダイハツ及び関連企業の労働力として外国人人口は年々増加しており、なかでも25.7%を占め最も多いのがブラジル人だという。そのような視点で過去の野洲や近江を見ると、斬新な戦術を成り立たせる確かな個人技が存在している。いや、むしろ個々の個人技の高さを前提にした戦術が敷かれているのだ。

 

とくに近江は「なるべく金山をフリーにさせろ」という前田監督の唯一のお約束ごとの上にチームが存在する。それはあたかもメッシ擁するアルゼンチンの戦術がメッシ自身であるように、現代の精緻にシステム化された欧州型サッカーとは異なる、ある種の奔放でありながら秩序だったカオスを生み出す南米気質が否応なく垣間見えるのだ。

 

モダンフットボール vs セクシーフットボール

驚くべきことに近江の前田監督はサッカーにおいて無名に近かった同校を自身の足で選手をスカウトし、たった8年で選手権大会出場を成し遂げて(本記事執筆時点では)決勝まで駒を進めてしまったという。

 

極度に過疎化が進む現代の日本で資本の移動にともなって人口も首都圏など都心部になるほど大きくなり、高校サッカーにおいても強豪校が分散して寡占化が進む。

 

当然、資本力をもった強豪同士で優れた選手や監督を奪い合うある種の「マーケット(市場)」が成立してしまうので、力はより拮抗することになる。そうすると、戦術的には「どのようにして勝つか」よりも「いかに負けないサッカーをするか」を志向するようになる。

 

であるからこそ、強豪ひしめく都心部で監督は下手な「挑戦」はできなくなり、最新サッカー理論を踏襲した理詰めのパッケージ化された戦術しか志向できなくなる。

 

そこへいくと地方であればあるほどに競合の数が相対的に減り、優れた指導者にとってはより自由な発想で自身の理念を体現したサッカーを追求しやすい環境となる。そうした理想に燃える指導者は選手にとっても魅力的に映るのは当たり前で、必然的に地方の優秀な監督のスカウティング能力が高まる結果となる。

 

そのような環境にあって前田監督の自由な発想のもとに生み出されたのが、近江の可変システムによるトランジションの速さを前提にした無秩序(カオス)を作り出すサッカーだったのだろう。

 

ある意味で近江の戦術はうまく野洲の個人技を主体とした「セクシーフットボール」を継承しながらも、クロップによる「ゲーゲンプレス」と通奏低音するところもあり、他に類を見ない「新しさ」がある。

 

かつての「近江国」は、東海道や中山道、北陸道など主要な街道が交わり、琵琶湖の水運もあって歴史上たびたび重要な役割を果たしており、「近江を制するものは天下を制す」といわれた。そのため資金力こそが天下を掌中にする最大の武器であることを見抜き、地位や名誉よりも商業都市を欲した織田信長は、古来より畿内と北国間の交易港として京都への物流の要だった大津と、東海道と東山道(中山道)が合流し東国への要衝であった草津の物流ルートの支配にこだわり、近江を後年の本拠地とした。

 

こうした地政学的な所以からみても今、異色の近江が高校サッカーにもたらした変革の波はおもしろい。しばらく近江高校のサッカーから目が離せそうにない。

『キングダム』で学ぶ戦略的チームビルディング

僕は企業や個人における戦略支援を職業領域としており、戦略立案にあたって重要なファクターになってくるのが、いかに“時代の空気を読むか”ということに尽きる。

 

今日の目次

 

時流と世界観

「トレンド」という云い方もできるが、僕がいうところの“時代の空気”については経営コンサルタントとして著名な故・船井幸雄もよく「時流適応」という言葉を使って、ビジネスの極意を「経営の原理原則を守り、時流適応していかなければならない」と語っている。

 

船井氏がいう「時流適応」とは、時代によって変化する「やり方」に適応させる必要があるということだが、もう少しマクロな視点に照らしてみれば、ある時間軸の中で「どうあるべきか」、「どんなスタンスでいるべきか」という「あり方」の問題に帰結する。

 

これこそがまさに僕がいうところの「世界観」であり、「どうあるべきか」を具現化したものがいわゆるビジョン(Vision)に相当するものだ。この記事でかなりミソになる伏線なので、どうか留意して読み進めてみてほしい。

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『キングダム』から学ぶ最強の組織戦略

さて、そうした時流=世相を映し出す「鏡」として機能するものに、映画やアニメ、ゲームといった娯楽作品が挙げられる。なぜかというと、娯楽作品というのは“共感”を媒介にしてエンタメ世界に没入してもらわないと商品として消費されないからだ。

 

そういう観点から娯楽作品を俯瞰して眺めることで、ある程度の“時代の空気”を読むことができるし、次の時代につながるキーワードが朧げに見えてくる。

 

で、ここからが本題。今一番、世相を映し出す鏡となっているものに、僕は漫画(&アニメ、映画)『キングダム』を挙げたいと思う。『キングダム』については6年前にも本ブログで取り上げたことがあるが、今回はこの『キングダム』を「組織戦略」という観点から取り扱ってみたい。

 

『キングダム』の黄金比的に美しい組織形態

老若男女を問わない社会現象を巻き起こしている『キングダム』。その人気の背景には百花繚乱のごとく現れる魅力的で、個性豊かなキャラクターの多さにあるのは云うまでもないことだと思う。僕自身も作中の桓騎という残虐非道な元・野盗でありながら、始皇帝直属の大将軍として秦の国難を幾度も救うことになるキャラクターが、お気に入りなのだ。その詳細については前述の記事にゆずる。

 

しかしこの漫画の特筆すべきところは、こうした魅力的なキャラクターそれぞれの、濃ゆいばかりに際立った特性を削がずして、遺憾なく発揮できるように設計された秦国の政治体制にあることを最近になって気づかされた。それは戦略学的にも、経営学的にも実に理に適った、美しいまでの組織形態となっているのだ。

 

「戦略の階層」からみた『キングダム』

地政学者の奥山真司氏が提唱する「戦略の階層*1というフレームがある。もともとは国家における意思決定プロセスを、アメリカの著名な戦略家エドワード・ルトワックが整理した分類に、レーガン政権で戦略顧問としても活躍した国際政治学者コリン・グレイが唱えるコンセプトを奥山氏が独自に統合したものだ。

 

この「戦略の階層」に当てはめて『キングダム』の作中の人物たちを整理してみると、僕が云わんとしていることが理解できると思う。

 

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つまりはこうだ。国の方針やあるべき姿、ビジョンなどの“世界観”を指し示す役割を担うのが、後の始皇帝である嬴政だ。そして為政者である嬴政のビジョンを具現化するために“政策”に落とし込むのが左丞相である昌文君。そして国家の資源を戦争という手段によって最大限に活用すべく、超長期的視点から“大戦略”を立案し運用している昌平君。

 

大戦略的な視点も持ち合わせながら、長期的な視野でいくつもの作戦を束ねる“戦略”家の王翦。稀代の戦術家でありながら戦略家の片鱗も見せはじめた桓騎。同じく戦略家としての資質を開花させながら、いくつもの戦術を縦横無尽に使いこなす“作戦”家の蒙恬。戦争においてもっとも重要な資源である技術を使いこなす、“戦術”家の王賁。そして優秀な兵士であったり兵器によって戦争を支える、“技術”者としての主人公・信や究極の職業軍人である蒙武らが位置するワケだ。

 

『キングダム』と『ワンピース』の“時代の空気”の違い

こういった多彩な才能によって作中の秦国が支えられているわけだが、『キングダム』が他の冒険譚や群像劇とは違う異彩を放っているのは、まったく異なる価値観や世界観、ビジョンをもった強烈なキャラクターたちを、国家運営における合理性によってのみ合目的的にチームとして編成し、利用していることだ。

 

これがどういうことかというと…

 

近年の大ヒット・コンテンツというと代表的なものに『ワンピース』が挙げられるが、「夢はでっかく」「浪漫」「仲間が大事」といったキーワードが示すように、「海賊王になる」という御旗のもとに、それに共感し、同じ価値観を持つ者同士の共鳴を求めて主人公が仲間を探し、コレクトしていくという物語構造になっている。

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これを現代の経営組織として捉えてみると、まさに社会的ミッションやビジョンを指し示し、それに共感し、同じ目的意識をもった社員一丸でともに成長していこう、という前時代的な“理念型経営”に相当するものだ。

 

それに対して『キングダム』では、まったくの異質な存在である辺境の民族・山の民の楊端和や、一国の大将軍という枠を超え自らの国家をつくろうと画策している王翦さえも、うまく自国のリソースとして活用している。現に趙国侵攻の際、数万人規模の戦争捕虜を独断で虐殺してしまった桓騎に対して、大王・嬴政は軍律違反を咎めるも「今はまだ、あの男の力が必要だ」として不問に付すのである。

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これはつまり多様性を受け入れて、異なる価値観、目的や文化を尊重したうえで情報を共有し、最小限のコミュニケーションで必要な職能やリソースを必要な分だけ提供しあう、創発的な自律分散型の“ダイバーシティ経営”に対応しており、まさに現代的な組織形態ということがいえる。

 

まとめ

こうした風潮のなかで僕自身、大事にしている考えがある。某所で目にしたものなのだがとてもいい視点なので、ここでシェアしたいと思う。

 

・人の数だけ「視点」がある

・人の数だけ「正義」がある

・人の数だけ「誇り」がある

・人それぞれ「知見」がある

・人それぞれ「環境」が違う

・人それぞれ「気力」が違う

 

今いわゆる中年にさしかかり、前時代的な価値観にどっぷりだった僕らのような世代には、どうしてもZ世代のような人たちの理解に窮することがある。そうした前世代の人間にとって価値観の変容は如何ともし難く、もはやどうしようもない問題でもあるのだが、そもそも理解なんてものは概ね願望にもとづくものだ。

 

そうした思考の差異自体が、ここでいうところの“時代の空気”を生み出しているとも考えられる。その流れに乗らずともただ耳を澄まし、時代の声なき声に耳を傾ける姿勢は忘れたくない。鴨長明も『方丈記』で次のように記している。

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とな。

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NewsPicksは情報コンテンツの「ブロックチェーン」だ!

久々の記事更新。

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人間ってのは特定の問題に対峙したりとか満たされた生活を過ごしていると、不特定の他者に向けた言葉を失くしてしまうものらしい。なにかを渇望したりとか、希求しているときにこそ他者を見つめる眼差しが生成され、言葉として表出するものなんだと思う。

 

以前に…とはいっても、もう5年前になるのか。『日常の<入力>と<出力>』と題してアウトプットするには一定のインプットが必要で、それには一定の時間軸がいるよねって記事を書いたんだけど。前回書いた記事からちょうど1年という月日が経過し、その間に集積された新たな視点と経験がそれなりにストックされたので。

 

前口上はこのへんにして1週間に1本程度、またツラツラと書いていきます。

 

今日の目次

 

何を信じて、どこから情報を得るべきか

インターネット普及による情報アクセスのパラダイム・シフトで、僕たちはとんでもない情報量にさらされるようになった。それこそありとあらゆる玉石混交の情報の中から、何が現実で何が虚構かを見きわめられるだけの「情報リテラシー」を今、僕たちは自己責任のもとで要請されているのだ。

 

そうした情報社会で生存に必要な、または知的営為に必要な情報ソースをどこから得るのかが大きな問題になってくる。人間を取り巻く環境が高度に発達したがために、情報の授受に関わる「時差」が解消し、即時的な情報伝達が一般化した*1。もはや、旧態依然とした既存のマスメディアは力を失ってしまっているのだ。

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僕自身もいわゆる情報産業に携わる身なので、日常的な情報収集は欠かせない。できるだけ速く、できるだけ確かで、できるだけ精度の高い情報を慢性的に必要としているのだが、マスメディアの制度化された流通では到達までに時間がかかるし、特定の個人が発する情報では主義主張や信条によって偏向した情報がもたらされてしまう。要はちょうどいい塩梅の、情報コンテナが長く見当たらなったのだ。

 

そうしたなかで僕が目をつけたのが、NewsPicks(ニューズピックス)というニュースサイトだった。このNewsPicksを課金ユーザーとして使っているうちに、NewsPicksの「プラットフォーム」としての秘められた大きな可能性に気づいてしまった。そこで、この記事ではNewsPicksという配信プラットフォームの特異性と、進化の可能性について考察してみた。

 

キュレーション・メディアとしてのNewsPicks

そもそも、なぜ数あるニュースメディアの中でNewsPicksだったのかというと。実はNewsPicksの海外の良記事を厳選だとか、独自コンテンツであるとかにはあまり興味がなかった。

 

それでもなお1,700円のサブスクに課金しているのは、1ヵ月あたり3,189円もするウォール・ストリート・ジャーナルの有料記事がすべて読めるからだ。公式のほぼ半額料金でWSJの質の高い有益な情報が享受できて、さらに国内のビジネストレンドも一望できる。まさに一挙両得だと思った。

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そもそもNewsPicksは、どんなメディアなのだろうか。NewsPicks自身は下記のように定義している。*2

ソーシャル経済メディア

国内外の経済ニュースを厳選。専門家のコメントや世論のチェック、 コメントのシェアまで、これ一つでワンストップに完結できる、 ビジネスパーソンのためのソーシャル経済メディアです。

 

さらにネット検索を漂っていると、しばしば「NewsPicksはキュレーションメディアだ」という言説に行き当たる。では、この「キュレーション」というのはどういう行為を指すのだろうか。

 

「キュレーション」なる言葉を一般に普及させたのが、ジャーナリストの佐々木俊尚が2011年に出版した『キュレーションの時代』という書籍だ。この書籍から引用しながら、そもそものキュレーションという知的営為について振り返ってみよう。

 

前提として「私たちは情報そのものの真贋をみきわめることはほとんど不可能だけれども、その情報を流している人の信頼度はある程度はおしはかることができるようになってきている」としたうえで、

 

キュレーターというのは、日本では博物館や美術館の「学芸員」の意味で使われています。世界中にあるさまざまな芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展としてなり立たせる仕事。

 

「『作品を選び、それらを何らかの方法で他者に見せる場を生み出す行為』を通じて、アートをめぐる新たな意味や解釈、『物語』を作り出す語り手であると言えるでしょう」(美術手帖より)

 

これは情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、クチコミのようにしてソーシャルメディア上で流通させるような行いと、非常に通底している。(→P.210)

情報のノイズの海の中から、特定のコンテキストを付与することによって新たな情報を生み出すという存在。それがキュレーター。(P.241)

 

 

とキュレーターを定義し、「情報爆発が進み、膨大な情報が私たちのまわりをアンビエントに取り囲むようになってきている中で、情報そのものと同じぐらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まってきている(→P.242)」としている。

 

NewsPicksの独自性を際立たせる「Pick」とは

とあるサイト*3ではNewsPicksのキュレーション機能による独自性を、以下のように紹介している。

NewsPicksは、ただニュースを見るだけのアプリではなく、ユーザー自身が自ら参加して発信する事ができます。 

 

気になるニュースがあれば「+Pick(ピック)」ボタンをタップすると、対象ニュースのコメント欄に自分の意見を投稿する事ができます。さらには、コメントにSNSのような「イイネ」をつけることも出来るので、鋭い意見は他のユーザーから注目されるようになっています。  

 

この「見るだけではなく参加も出来る」というポイントが、NewsPicksの最大の特徴です。

 

もっとも僕の場合は気になった記事を精読している時間がないので、とりあえず「あとで読む」的に記事を保存するためコメントを入れずにピックしている。おそらく、そういう使い方している人が大多数なのではないだろうか。

 

さらにNewsPicksは2015年にこのキュレーション機能を強化すべく、“プロピッカー”制度を導入。プロピッカーの選定基準は、編集部が設定した領域でエッジの効いたコメントをしたり、企画を作ったりできる人。プロピッカーは記事にコメントをしたり、独自の連載企画に協力したりするという。敷衍すると、プロピッカーとはNewsPicks公認のご意見番ということになる。

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ここで、あるアイディアが僕の脳裏をよぎった。

この仕組みって「ブロックチェーン」じゃないか、と…。

 

ブロックチェーンとは

ブロックチェーンとは、ビットコインに代表される暗号資産(仮想通貨)の基幹技術のことで、電子的な情報を記録する注目の技術だ。その仕組みをビットコインに限定して説明すると、取引記録をネットワーク参加者全員で公開されたデジタル台帳に記入し管理するというもの。

 

10分間に世界中で起きた取引データを「ブロック」という1つのまとまりに書き込む。AさんからBさんに送金、CさんからDさんに送金、EさんからFさんに…という取引が記録としてすべて残るのだ。

 

「社会の幸福の極大化を見込むには、社会を構成するメンバーの幸福の総量を計算し、その総量が最大になるような仕組みが必要」と考えた哲学者・ジェレミ・ベンサムが構想した全展望監視システムで、後にフーコー*4が権力一般を説明するモデルとして援用した「パノプティコン」という概念があるが、まさにブロックチェーンの発想はこれに通底する。

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ビットコインが革新的だったのは、取引記録によって「信用のベースを容易に創造できる」点にある。かつて通貨の世界で信用のベースを生み出し、世の中に革命を起こしたのは15世紀後半から広まった複式簿記だ。複式簿記によって特定の人や組織が本当に利益の源泉をもっているかが判別できるようになり、その残高にもとづいて「信用」が生まれたのだ。ただしこの制度をうまく運用するために、国もしくは会計士による監査が必要だった。

 

それに対してビットコインは制度上の管理者は存在せず、自主的に集まったコンピュータが運営しているにも関わらず信頼でき、そして記録が改ざんできない。この技術の根底には「仕組みそのものでコミュニティの秩序を維持しよう」 という考え方があり、「ブロックチェーンはもう終わった」といった声もちらほら聞こえるが、一方では「まだ始まってすらいない」 という意見もある。

 

しかし、それはビットコインという文脈の中での話であって、この技術を応用することによっていたるところで新たな変革が起きる可能性がある。その最たるものが知的財産で、いま話題の「NFT(Non-Fungible Token)」はそれを解決するためにブロックチェーンが応用された技術だ。

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あらゆるデジタル・データは容易に複製ができてしまうため、連携や共有をするうちにそのデータの出所・原本性・正確性・履歴などが曖昧になっていくという問題を孕んでいる。これを取引記録という観点から信用を担保しようというのがNFTの基本思想になっている。ベンヤミン*5も、真っ青!

 

NewsPicksとブロックチェーンの共通性

で、このブロックチェーンとNewsPicksが、どのように関連しているかということになってくる。ネット上で飛び交うニュースもまた、その真贋がみきわめづらい。フェイクニュースに飛びついた結果、「炎上」ということもままある。

 

しかしNewsPicksというプラットフォームだと、そもそもプロピッカーがピック(コメント)した記事がアルゴリズムによって目につきやすくなる。プロピッカーがピックすると多くの人が目にすることになり、不特定多数のさらなるピックを生み出す。すると、また別のプロピッカーがそれをピックし、波及効果が乗数的に加速する。

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要は誰がピックしたのか、そしてどれくらいピックされているのかと同時に、情報の連鎖によってその情報の質と「信用」が担保されているわけだ。

 

NewsPicksの問題点

もちろん、NewsPicksにも問題はある。そもそもプロピッカーは運営サイドが恣意的に選定しているので中央集権的だし、その選定基準が倫理的に正しいかは疑わしい。課金ユーザーの解釈によっては、「プロピッカーではない、ただのピッカーである<私>はいったい何なのだ」という不平不満や妬み嫉みを生まない保証はどこにもない。

 

しかし、そうしたブロックチェーンにも通ずる情報の設計思想ゆえに、「信頼できない者同士が集まって共同作業を行い、それでも裏切り者に陥れられないためにはどうしたらいいか?」という「ビザンチン将軍問題」と呼ばれる、かつてのコンピュータ・サイエンス上の難題もNewsPicksは見事な解を出している。ある種の不正行為や迷惑行為に挑戦するよりも、情報の連鎖に協力してプラットフォーム上での「信用」を得るほうがどう考えても得だからだ。

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まとめ

以上のことから個人的な見解として、NewsPicksには新たな情報アーキテクチャの萌芽がみてとれる。そうした社会学的、生態学的観点からプラットフォームとしての進化を促すのであれば、運営サイド(つまり、編集部のことだが)が自らの「コントロール」を手放し、より「民主的」な情報発信の仕組みを制度化していくことになるだろう。

 

NewsPicksの、さらなる進化を期待したい。

 

 

 

※後日、この記事を見た人にTwitterのRTと何が違うのかと質問を受けたので追記。そもそもの設計思想がまったく違う。Twitterは結びつける対象が「アカウント(=人)」であって情報ではない。対してNewsPicksはマッチングの対象が「情報コンテンツ」そのものであって、人はあくまで二次的要素に過ぎない。さらにTwitterが情報の連鎖によって担保してるものは「話題」であって、「信用」ではない。

*1:拙記事『象形文字化する現代の言語コミュニケーション』参照のこと

*2:https://newspicks.com/about/

*3:テルル「これを見れば社会の今が分かる「NewsPicks」のススメ」

*4:ミシェル・フーコー・・・(1926年10月15日 - 1984年6月25日)は、フランスの哲学者、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家。『監獄の誕生』を書いた

*5:ヴァルター・ベンヤミン・・・(1892年7月15日 - 1940年9月26日)は、ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。『複製技術時代の芸術』を書いた

写真集『20』/川田喜久治

現実とも幻想とも判断のつかない虚構の世界。大疫病時代の静寂と呻吟、増殖/積層する都市文脈、歪形するイメージ…。日本を代表する造本家・町口覚が写真集を出版・流通させることに挑戦するために立ち上げた「bookshop M」の写真集レーベル「M」から、2021年初に突如リリースされたのは、個人的にも敬愛してやまない写真家・川田喜久治による1冊だった。

 

齢87を数え大御所ともいえる立場にいながらにして、川田は現役写真家としてInstagramという最新テクノロジーを使いこなし、今なお写真を発表し続けている。彼のインスタ・アカウントについては、以前の記事でも紹介させてもらった。

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川田喜久治は東松照明、奈良原一高、細江英公らも在籍した伝説の写真家集団VIVOの創設メンバーであり、60年以上のキャリアを誇る写真家だ。敗戦という歴史の記憶を記号化し、メタファーに満ちた作品「地図」や、天体気象現象と地上の出来事を混成した黙示録的な「ラスト・コスモロジー」、都市に現れる現象をテーマにした「Last Things」など、意欲的な作品を発表し続け、日本のみならず世界でも高い評価を受けている。

 

その作風は形而上的ともいえるほどに観念的で、観る者に解釈を委ねる難解な写真が多い。彼の作品の数々は、感情を排して撮られた無機質なイメージに、多重露光などを駆使し、色や質感を重ねて撮ることで不均衡な意味づけが為され、なんだか不思議な違和感を感じずにはいられない。一見すると脈絡がなく決して心地のいい読了感は与えられないのだが、そこにはどこか深遠で静謐な「祈り」にも似た、現代日本のアイデンティティを揺さぶる神話的なナラトロジーが紡がれているのだ。

 

そう、川田喜久治はまさに日本のアイデンティティを描写しているのだ!だからこそ川田の写真は僕のような、アイデンティティを喪失した者、しかけた者、欠落した者の心象風景に深く突き刺さる。写真の文学性を否定した故・中平卓馬のような鋭利さを持っていながら、あくまで詩情溢れるリリシズムに貫かれた独特な世界認識が、どぎついまでの色彩によって形作られている。

 

あくまで「M」シリーズの定型化されたフォーマットながら、こってり墨が乗り、鮮やかなコントラストに彩られた上質な印刷は、アバンギャルドな写真表現を追求し続ける御大・川田のイメージが跳躍し、唯一無二なものになっている。意外なことに今回のブックデザインを手掛けたのは町口覚ではなく、実弟である町口景である。その町口景を交えて編集過程を振り返った動画が、ありがたいことにYouTubeに投稿されている。

 

youtu.be

 

とはいえ、話題性に事欠かないこの写真集の性格を作家本人の言葉が一番よく表しており、巻末に掲載された次のようなコメントによって、大きくパラダイムが変わったこの混迷の時代の、「見えない物語」のラストは飾られている。

 

30のカットで編まれたものには、始まりの感覚もなければ終わりの嗅覚もない。リズムの強弱もなければ、色や形の韻も踏まず、イメージは混交しながら粘菌のように増殖してゆく。突然の異時同図、影のスクロール、さまざまな幻影が気ままに地を這い宙に浮いたままだ。そこに見えない都市の蜃気楼が揺れる。

 

20年から続くプレイグタイムのなか、イメージの進行はグロテスクな寓話に近づいたりする時もあるが、新しいストーリーを生むにはほど遠い。さまざまなノイズとともに、いつ失速するかも知 れない想像の淵をさまよっているのだ。

(中略)

これからも続けたい。まだ空が明るく、目のまえの影が消えないうちに......。

 

 

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この写真集は限定700部ながら、以下のサイトなどで購入することができる。

www.pgi.ac

俺のブログ論! 〜ブログの未来は「信用創造」にある〜

ブログの時代は終わった…

 

ネットの至るところで、こう囁かれている。たしかにネットに対する人々の態度は変わってきている。コミュニケーションのあり方も変化している。わかりやすいところで云うと、検索行動もGoogleからYouTubeへと移っているし、若い世代どころか中高年でさえ「長い文章」を嫌うようになった。しかし、本当にブログというメディアの意義は終わりつつあるのだろうか。

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そもそも「ブログ」というメディアの生誕から考えてみると、もともとはネット上に誰でも公開できる「日記」として爆発的な普及を遂げた。独創的なコンテンツを発信することによって、書籍の出版にまで漕ぎ着ける「アルファブロガー」という人たちをも生んだ。そこから集客手段としてのブログが隆盛をきわめ、アフィリエイトなる手法でアクセスを稼ぎに変える人たちが出てきた。

 

ありとあらゆる目的と目論見をもった人が大挙して参入したことによって、死屍累々の無価値なコンテンツがネット上に散逸することになる。そうした玉石混交のコンテンツの利便性を高めるため、GoogleはExpertise(専門性があること)、Authoritativeness (権威があること)、TrustWorthiness (信頼できること)の3軸によって、価値あるコンテンツを拾い上げるシステムに転換した。ここから俄に、検索が面白くなくなったというような風評を聞くようになる。

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そして今年、5G回線の普及によってコンテンツ閲覧の制約が解き放たれることになる。静的なコンテンツの時代からリッチコンテンツの時代へと移行しようとしている。言語コミュニケーションはテキストから動画へと大きく舵を切ろうとしている。しかし、本当に従来の静的なテキストコンテンツは価値を失うのだろうか。僕はそうは思わない。

 

この時代の転換点にあって、情報発信の場として大きくクローズアップされるのが「オンラインサロン」だ。どのような形態で運営されているのかはサロンの方針によるものの、ここで交わされるコンテンツは主としてテキスト情報であるはずだ。実際に高い評価を受けるサロンは、高頻度にアップされる運営者による投稿なのだ。とするならば、テキスト情報が価値を失ったのではなしに、「ブロガー」という誰ともわからない情報発信者の信頼性、社会的地位が地に墜ちたのだ。

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つまり、読まれなくなったのは「長文だから」とか「ブログだから」といった理由ではない。要はその著者への「信用」が問われているのだ。そういう意味では最近、よく聞くようになった「信頼残高」や「貯信時代」といったキーワードが符合してくる。マーケティングの世界では3つのNOT、「読まない」、「信じない」、「行動しない」ということが囁かれる。この中でも現代はとくに「信じない」ということが、大きな壁として立ちはだかっていることを示している。

 

しかし考えてみてほしい。ブログに書いてきたこと、ブログをとおして考えてきたことそのものが、あなたの「信用」なのだ。つまり、ブログというメディアの位置づけが変わっただけの話であって、これからのブログの役割は、あなたの信用を担保する「データベース」としての存在にある。ブログの何が終わったかというと、それは「集客装置」「換金装置」としての役割が終わったということに過ぎない。

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実際に僕もこのブログを、自分が考えてきたことを保存しておくための「外部記憶装置」としてしか活用していない。そんな僕の思考の断片に、何かしら感じるものがある読者だけがメルマガなどに登録してくれれば、このメディアの機能は果たされているわけだ。

 

そして僕という実在の人物に興味をもってくれた現実の人たちが、僕の思考や趣向性をいつでも参照できるデバイスとして活用してくれれば、それでいいのだ。逆にいうと、ちょっとやそっとの興味本位では困ってしまう。そのようなカタチで繋がった人というのは、結局は希薄な付き合いのままで終わることが殆どだし、そういう人たちと一々やり取りをしているほど暇を持て余しているわけでもない。

 

だからこそ、より強烈に僕という人間に興味を持ってくれる人としか、僕は付き合いたくないのだ。なので、このブログを読むにあたって一定の覚悟をもってしか読めないように、時代のトレンドに逆行したような書き方をしている。つまり、そこらへんの余白だらけで中身もスカスカのコンテンツと同一視しないように、緻密な長文で綴っているのだ。

 

読みにくいって?当たり前です。巷で云うところのWebライティングで書いてませんから。このメディアに向き合ってもらうには、いわゆるブログとの向き合い方ではなく、あえて書籍や書物との向き合い方を強いているのだ。本と対峙するような態度で、ここに綴られたものをお読みいただくと、おそらくお値段以上の気づきが得られるようにコンテンツを綴っている。

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さらに自分という人間をより理解してもらうために、特定のジャンルに特化するつもりもないのだ。人間的魅力というのはつまるところ、いかに多くの引き出しを持っているかに集約される。特定のジャンルに無類の専門性を発揮する人もまた一つの魅力ではあるが、しかしその人を説明できるものが、たった一つの分野であるというのは寂しい話でもある。だって、いつもおんなじこと蕩々と語る人って、リアルにつまんないでしょ?

 

人を惹きつける文章・考え方というのは、特定のジャンルに拘らない雑多な事象を一繋ぎにできる「編集力」であると思うのだ。そういう意味ではGoogle検索が掲げる「Expertise(専門性があること)」に逆行することになるが、今やブログの存在意義は「集客」が目的ではないのだ。

 

つまり、従来の「ネット(ブログ)→リアル」という流れから「リアル→ネット(ブログ)」や「SNS(YouTube含む)→ブログ」という風に役割が変わりつつある。つまり、ネット上にあなたの実存を示すアイデンティティ・ツールになるということだ。ここをきちんと理解しておかないと、これからのネットビジネスであったり言語コミュニケーションの流れについていけなくなる。結論を述べると…

 

これからのブログは、

「信用創造」装置である!!

『東京ラブストーリー』から考える、東京の都市論

Amazonプライムビデオで、かつての『東京ラブストーリー』を観た。1991年にフジテレビ系列の「月9」枠で放送されていた名作のほまれ高いテレビドラマなのだが、僕は当時リアルタイムでは観ていなかった。聞くところによるとオリンピックイヤーである今年、この名作ドラマがリメイクされるようなのだ。

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1991年当時。時代は折しもまだバブル景気の熱が冷めやらぬなか、「東京」には夢と希望が溢れていた。それを示すように劇中には建設途中のレインボーブリッジだったりとか、開発前夜の台場の原風景などがそこかしこに映し出されている。急激に開発が進み、誰もが東京郊外の新興住宅地でのおしゃれな暮らしを夢見るような、まだ東京に大きな神話があった時代だ。

 

ところで、およそ30年という時を経て、初めてこのドラマを観てみると、このドラマが一体何を描こうとしているのかよく解らなかった。物語には必ず作者の何かしらのメッセージが込められているものだが、僕にはこのドラマが何を訴えようとしているのかが読み取れなかったのだ。

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内容としては、新たな生活を夢見て上京した青年が、郷里での原体験と淡い恋心に揺れながら、都会での出会いと別れ、そして再会を繰り返す。天真爛漫に生きる小悪魔的で無邪気な女性と、いつまでも過去の幻影を引きずり、現実に対して煮えきらない男性。映し出されているものは、ただそれだけなのだ。ただ妙に心に刺さるものがあり、都会で生きるとはそういうものだと納得させられるものがある。

 

当時のいわゆるトレンディードラマ自体が確たるメッセージもなく、ライフスタイルとしての都市生活とそこに住まう人たちの葛藤や心の動きを描き出している。そう云ってしまえばそれまでなのだが、これはまだ「東京」という都会に大きな魔力が宿っていた時代だからこそ、成立する物語なのだと考えさせられてしまった。

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そのような視点で見てみると、主人公である永尾完治の郷里である愛媛県・松山が、ドラマの中ではあくまで東京のコロニアル(植民地)であるかのような描かれ方をしている。かつて心ときめく青春時代を過ごした地でありながら、登場人物たちは必要以上に郷里を美化することをしない。それどころか、まったくといっていいほどに地元への愛着がないのだ。

 

ところが東京という都市の魅力をドラマが押し出しているかというと、どうもそういうわけでもない。ロケ地になっているのは都心の中の、なんでもない公園だったり、繁華街、交差点、ひっそりとした路地だったりする。「東京ラブストーリー」といいながらも、物語の設定として「東京」である必要がない内容なのだ。

 

対照的に東京ラブストーリー以降のドラマや映画は、都市を舞台として捉え、その演出を志向する都市のドラマトゥルギーによって、金太郎飴なみに紋切り型の、観光地的なコンテンツが大量生産されることになる。つまり「東京」あっての物語が、資本によって売り出されるライフスタイルとセットになって消費されていくのだ。

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そしてこれ以降の東京は、資本の戦略によって都市計画が整備され、東京の景観は均質化し、三浦展風に云うと急速に「ファスト風土」化していく。グループ企業の不動産会社で郊外を開発し、ひとびとに住宅を買わせ、グループ企業の私鉄で通勤させ、グループ企業のデパートで買い物をさせる。そんなライフスタイルのトータルデザインによって、ターミナルは広告都市化し、東京自体がパッケージ化されていくのだ。

 

しかし「東京ラブストーリー」が描く東京は、あくまで舞台装置でしかなく、東京である必然性がまったくない。さらには「東京」という虚構の神話や共同幻想が崩れた今、東京は魔力を失い、逆にかつてのコロニアルであった地方都市や衛星都市で生活し続ける、居続けることのほうがよっぽどリアルであるからだ。無理に背伸びして、都会に住むことのメリットが急速に希薄化し、むしろ東京で生活していた人たちが地方都市へと流出しているのが実態といえるのだ。

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その証左といえるのが在京テレビ局の弱体化、YouTubeの台頭にあるのではないだろうか。今や人気ユーチューバーといえる人たちも、東京に居ることの必然性がなくなっており、地方都市から発信し続けるユーチューバーが目立つようになった。むしろ最近は、東京に居続けることがリスクであるようにさえ思える事態が多く見受けられる。それよりもフレキシブルに居場所を変え、時間や場所を問わない生活が現代的になってきている。

 

そんな脱中心化している今の日本にあって、「東京」という場所にどのようなコンテクストが意味付けされていくだろうか。つまり、東京ラブストーリーが「東京」ラブストーリーである意味が、かぎりなく薄れているということだ。いまや文化の集積地としての文脈は、ほとんど意味をなさない。それでもなお都会の喧騒のなかで生きることの必然性や意味付けを、東京自身が志向していかなくてはならない。東京であることの必要性を、自らに問い直さなくてはならないのだ。

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僕はなにも、この文章によって東京を糾弾しようとかディスろうとしているわけではない。僕自身も社会人経験のいくらかを東京で費やし、若かりし頃の思い出を育んだ地でもある。気の置けない仲間たちも今なお居る。だからこそ、東京には東京の「意味」というものを生成してもらいたいと思っているのだ。可能であれば、ふたたび人々を東京へと誘うだけの引力、求心力を宿してほしいとさえ思っている。

 

それには、そこに住まう人たちによる自助努力が求められる。魅力を創造するだけの、イマジネーションが求められる。そのような自助努力の円環によって、日本という国の復権、国際社会における優位性というものが再び生まれてくるのではないだろうか。

 

参考文献:

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

  • 作者:東 浩紀,北田 暁大
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2007/01/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

 
ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

  • 作者:三浦 展
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2004/09
  • メディア: 新書
 

愛と欲望のマーケティング

「そこで、あんたはなにを見つけたんだ」

「虐殺には、文法があるということだ」

 

ぼくにはその意味がわからなかった。

ジョン・ポ ールもそれを察して説明を続け、

「どの国の、どんな政治状況の、どんな構造の言語であれ、虐殺には共通する深層文法があるということが、そのデ ータから浮かび上がってきたんだよ。虐殺が起こる少し前から、新聞の記事に、ラジオやテレビの放送に、出版される小説に、そのパタ ーンはちらつきはじめる。言語の違いによらない深層の文法だから、そのことばを享受するきみたち自身にはそれが見えない。言語学者でないかぎりは」

 伊藤計劃『虐殺器官〔新版〕』より

 

 これは伊藤計劃のSF大作『虐殺器官』の作中で、後進諸国で虐殺を扇動していると見られるアメリカ人の暗殺を政府から命じられた主人公クラヴィスと対面した、件(くだん)のアメリカ人・言語学者ジョン・ポールとのやり取りの一部だ。

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“虐殺の文法”とは「人間には虐殺を司る生得的な器官が存在し、その器官を活性化させる文法が存在する」という、この作品全体をつらぬく鮮やかなギミックのひとつなのだが、言葉ひとつで人を「暗示」にかけることが可能であれば、たくみに心理状態をコントロールすることで「洗脳」すらも可能にしてしてしまう心理学の知見から考えても、あながちその存在を否定することはできないだろう。

 

実は俺自身の昨今の関心もまた、「言葉」に大きく比重が傾いている。人は言葉ひとつで大きく印象を変えることもあれば、言葉ひとつで心揺さぶられることもある。また絶望もする。人はどのような言葉を、人生の中で生み出していけばいいのだろうか。

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言葉ということに着目してみるとビジネスにおいても、「言葉」には市場をつくる力がある。たとえば「終活」や「美魔女」、「サードウェーブコーヒー」や「ファストファッション」といった言葉によって、新たな市場が創造されているのだ。

 

だとするならば、ビジネスにおいても消費者心理を掻き立てるような、「マーケティングの文法」なるものが存在してもおかしくはないと考えるのは早計だろうか。俺には社会に流通する言葉に、かならず人々の欲望の裏付けが隠されているように思えるのだ。そこで思い出されるのが小説『羊たちの沈黙』で主人公クラリスと収監された囚人、ハンニバル・レクターとのあいだで交わされる次の一節だ。

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「われわれの欲求はどのようにして生まれるんだい、クラリス?われわれは欲求の対象になるものを意識的に探し求めるのかね?よく考えてから答えたまえ」

「ちがいますね。わたしたちはただ――」

「まさしくちがう。そのとおりだ。われわれは日頃目にするものを欲求する。それがはじまりなのさ」

 

そう…我々は日頃、目にするものを欲求する。つまり、人は自分の欲望を言語化することなく無自覚に生きているのだ。それが突如、言語化しえない感覚を満たすものが目の前に現れたとき、欲望が発動する。あたかも特定の「言葉」を因子とするかのように。つまり、人々の隠された欲望(インサイト)にダイブし、先回りすることができれば、「マーケティングの文法」を発動させることができるのではないか。

 

人々の購買行動が「言葉」と五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を媒介にして繰り広げられていることを鑑みると、五感を発動させる「体験」のなかにヒントがあるのではないか。そう考えると「消費」という人間の経済活動の構造自体は、小説や演劇、映画などともそう違いはないのではないだろうか。それを示すように、1,500円の書籍の購入を渋る人でも、映画館でわずか数ページの他愛もない内容のパンフレットを2,000円で購入することに躊躇しないことが多いだろう。

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ここで思い出されるのが、かつて映画監督の押井守が語っていた「映画の構造」についての発言だ。曰く、映画を構成する要素は「世界観・ストーリー・キャラクター」の3つだけなのだ、と。なるほど、この言説をもとに俺自身のビジネスを整理してみると、たしかにこの3つの要素にもとづいて事業を構成していることがわかる。

 

たとえば、情報発信を例にとると、

世界観・・・YouTube

ストーリー・・・メールマガジン

キャラクター・・・SNS

という3軸によって役割を分けて、イメージ(ブランド)が形づくられていることがわかる。ここに、消費者の欲望を表象した「言葉」を代入することができれば、より強固な基盤が形づくられることになる。

 

だからといって、これらの「文法」だけでビジネスが完結するワケではない。21世紀のビジネスにはもっと決定的な因子が必要とされているように思う。それは何かと問われれば、俺は「愛」だと考えている。旧来型の20世紀のマーケティングは顧客を「マス」でとらえ、不特定多数に網をかけていたのだ。だからこそ、SNSなどの媒体でも情報を拡散することに主眼が置かれていた。

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これからのマーケティング手法について重要な示唆を、次世代型のビジネスリーダーとして注目を集めている西野亮廣が、自著『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』で次のように語っている。「1万人に向けて網をかけるよりも、1対1を1万回したほうが効率がいい」、と。要は手間を惜しむことなく、1人ひとりを「ノード(結び目、結節点)」として捉え、個人個人を起点にしてビジネスを組み立てるということだ。

 

もはや大量生産、大量消費の時代は終わった。大切なことは、いかに「個」客の欲望を感じ取り、愛をもって向き合うかがビジネスにも求められてくる。

 

十把一絡げに括ろうとするマーケティング発想をやめて、

今すぐ愛と欲望のマーケティングをしようじゃないか。

 

<参考文献> 

欲望のマーケティング (ディスカヴァー携書)

欲望のマーケティング (ディスカヴァー携書)

  • 作者:山本 由樹
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/13
  • メディア: 新書
 
欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング (集英社新書)

欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング (集英社新書)

 
新・魔法のコンパス (角川文庫)

新・魔法のコンパス (角川文庫)

  • 作者:西野 亮廣
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/05/24
  • メディア: 文庫
 

2020年、「メタデータ」と「編集」の時代

2020年が幕を開けた。職業柄、経年を振り返ることで今年の行く末やシナリオを“読む”ということを必ず年始に行っていて、そのときの大きなヒントになるのが、日経MJが発表している「ヒット商品番付」だ。どのような商品・サービスが売れ、どのようなトピックに人々は消費をしたのかを見ることで、社会が抱える欲望や病理というものが見えてくるのだ。

 

ちなみに2019年末に発表されたものが以下の画像になる。

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ここから云えることは、「ラグビーW杯」「令和」「タピオカ」「天気の子」など社会現象となった消費動向がダイレクトに、そのまま反映されているということ。つまり、いわゆる「自分らしさ」であったりとか「アイデンティティ」が映し出された商品・サービスではなく、消費もポピュリズムに世の中が傾倒している。

 

また、それらの事象に輪をかけて「キャッシュレス」だったり「ウーバーイーツ」といった、お手軽サービスが浸透したことによって、自らの狭い生活圏のなかで完結するようなライフスタイルが浸透していることが窺える。その証左として、「ニンテンドースイッチライト」や「ドラクエウォーク」といったゲーム関連コンテンツのランクインからも理解ができる。試しに10年前である2010年の番付と比較してみると、昨今の特異性が見えてくる。

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これらはゼロ年代に重視されていた、いわゆる「ゆとり教育」であったり「オンリーワン教育」の反動として、またはグローバリズムの果ての多極型システム、反知性主義的なポピュリズムに陥っている結果としての消費動向のように思えるのだ。1980年代のバブル景気を背景にアイデンティティを喪失した世代を社会学上では「ロスジェネ世代」と呼んでいるが、今はまさに新たな「ロスジェネ」の再来、といえなくもない契機にさしかかっているのではないだろうか。

 

それではこの先、どのような時代が待っているというのだろうか。今一度、歴史を振り返って見たいと思う。近代経済の黎明は、1760年代にイギリスで起こった蒸気機関の発明に端を発する「産業革命」だといわれている。これによって人類は飛躍的に移動距離を広げ、より早く、より遠くへと地理的な移動を可能にするようになった。

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その後、19世紀後半にアメリカで重工業が発達したことによって大量生産が可能になった。これが第二次産業革命だ。より安く、より大量に製品が作られることにより、今度は物質的な制約を解き放った。そして、そのまま20世紀半ばにはインターネットによって、人類は仮想上の空間に新たな領土を獲得したのだ。そして今、21世紀はまさに「第四次産業革命」の時代だといわれている。

 

この第四次産業革命は、ロボット工学、人工知能 (AI) 、ブロックチェーン、ナノテクノロジー、量子コンピュータ、生物工学、IoTによるスマートライフ 、自動運転車などの多岐に渡る分野においての新興の技術革新が期待されている。そして特に「自己フィードバックで改良、高度化した技術や知能」、つまりAIが「人類に代わって文明の進歩の主役」になる時点のことをシンギュラリティと呼び、それが2045年前後になることが予測されている。

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つまりは人類の経済的、生産的な営みの大部分をAIが代替してしまう社会の到来が予見されている。そうすると、いわゆる「資本家」ではない大多数の人々が経済活動に参加するためには、AIや機械に代替することができない分野で、独自の地歩を固めておかないといけないのだ。そうしないと、「エンジニア」や「クリエイター」という職種以外が存在しない世の中が来てしまうことになる。そんな契機にさしかかっている今、「ロスジェネ」世代のように自分探しをすることで打ちひしがれ、黄昏れている暇はないのだ。

 

それではAIや機械では代替できない分野とはなにかというと、それは新たな「知識」を生み出すということだ。今現在の社会は人類が営々と積み重ねてきた知識の集積である。次第に人類を凌駕するであろうAIやロボットも、そうした人類の知識が生み出したものだ。そうすると既知の事象や枠組みの中から、新たな方向を指し示す未知の知識をつくり出すこと。これこそが人類にしかできない貴重な営為ではないか。

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だからこそ21世紀は技術革新とともに「学び」の時代であるということが云えるのだと思う。とくに20世紀までのアカデミズムというのは閉じられた世界だった。いわゆるリベラルアーツといわれる分野や、人類の教養や娯楽のために生み出された様々な知識には鉱脈が眠っている。ビジネスや投資といった実利的な経済活動がすべて機械に取って代わられても、新たな知識を生み出し、人間の知的好奇心を満たしてくれるコンテンツをつくり出すことは機械にはできない。

 

だからこそ、既存の「知」と「知」を結び合わせ、新たな「知」を生み出すことが求められてくる。つまり、この記事で云いたいことの核心は、「編集」する能力がこれから先、ますます求められてくるということだ。人間として、経済人として生活している我々は知ってか知らずか、日々、知識を編集しながら生きている。これだけ知識さえも成熟した現代において、「クリエイト」することは難しくても「編集」して新たなコンテンツをつくり出すことはできる。

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大切なことは、結び付けられた知識と知識の「メタデータ」を丹念に読み解き、そして正しく紐付けるということだ。なぜ、その情報なのか。なぜ、その情報に紐付けられるのか。そういったストーリーはすべてメタデータのなかに隠されている。つまりは「編集する能力」とともに「メタデータを読み取る力」がこれから先の困難な時代に必要とされるということだ。

 

大事なことなので最後に云っておく。

2020年代は「メタデータ」の時代だ。

俺らは「編集」することで生きていく。

『文学的、あまりに文学的』な人生論 ~「言葉」が人生をつくる~

「文学は現実を模倣する。だったらその逆だって…」

 

攻殻機動隊のTVシリーズ、『Stand Alone Complex』の劇中で語られる言葉だ。J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を伏線にして次々に起こる事件、その真相に迫ろうとするトグサが吐いた言葉。そう、現実は文学だって模倣しうるのだ。なにせ人間心理をキーにして、世界の謎を解き明かそうとする文学という営みこそが、人生そのものなのだから。

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ここ最近、小説(文学)を書くという行為は、人生そのものだと感じるようになった。ある特定のルールに従うなかで、そのルールの枠内で出来ること、ルールがあるからこそ為せる業を追求し、磨き上げ、そして自らの存在意義や価値観を表現する。そして、できることなら次の世代へ伝えるべき“なにか”を残そうとする。これって、まさに生きるっていうことそのものではないか。では、つまりは小説を書く技術のなかに、人生を有意義に生きる術(すべ)があるのではないか。そう考えるようにもなった。

 

あたかも小説を書くように人生を生きる。もし、これが可能なのだとしたら、文学や芸術における創作論のなかに、生きるヒントというべきものがあるかもしれない。最近の俺の関心ごとはずばり、ここに集中しているといっても過言ではない。だからこそ、描くべき“世界観”や物語としての“文脈”、そして表現すべき“言語”に対して、試行錯誤を繰り返しているのが俺の人生であり、このブログであるということが云えるかもしれない。

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それを示すように、作家の保坂和志は著書『書きあぐねている人のための小説入門』のなかで、本来、小説とは新しい面白さをつくりだすことで、そのためには「面白い小説とは何か?」ということをつねに自分に問いかけながら書かれるべきものだとしながら、次のように書いている。

「小説とは人間に対する圧倒的な肯定である」

「ふつうの言葉では伝わらないものを伝えるのが小説」

「本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かを持っている。」

 

如何だろう、見事に人生のことを言い当ててはいないだろうか。これらの言葉における「小説」という語句を「人生」に置き換えて読んでみてほしい。人生とは人間に対する圧倒的な肯定である。ふむ。ふつうの言葉では伝わらないものを伝えるのが人生。ふむふむ。本当の人生とは、その人生を生きることでしか得られない何かを持っている。ふむふむふむ。まさに文学=人生ではないか。

 

そのうえで保坂は、このように言い放つ。ここでも「芸術(小説)」という箇所を「人生」にして読み換えてみてほしい。まさに秀逸な人生論として読むことができるのだ!

日常の言葉で説明できてしまえるような芸術(小説)は、もはや芸術(小説)ではない。日常の言葉で説明できないからこそ、芸術(小説)はその形をとっているのだ。 ~(中略)~ 日常と芸術の関係を端的に言えば、日常が芸術(小説)を説明するのではなく、芸術(小説)が日常を照らす。

 

人生は小説を書くという行為に近しいということを、うまく言語化した人はいないのかと思っていたら、『存在の耐えられない軽さ』や『不滅』などの名作で知られる、チェコ出身のフランスの亡命作家ミラン・クンデラがこんなことを云っていた。

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人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ

 

この言葉からは、<言葉>の偉大な力を感じさせる。つまりはその人が口にする<言葉>こそが、その人の人生を表している。その言葉が流麗で冗長であればあるほど、その人の人生には「文学性」が内在している、ということが云えるのではないだろうか。おなじく作家であり、評論家の高橋源一郎も『一億三千万人のための小説教室』の中で、クンデラのこの言葉を引き、小説というものがいちばん深いところで「未来」に属しているとして次のように語っている。

「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうがわにいる人間を描くでしょう。」

 

そして、俺が考える「人生=文学」論を裏付けるように、このようにも云っている。

「小説は書くものじゃない、つかまえるものだ」

「それは、あなたが最後にたどり着くはずの、あなたひとりだけの道、その道の向こうにあるものです。」

 

それでは高橋が云うように「小説(人生)をつかまえる」ために、作家はどのような作業をとおして小説をつかまえているのであろうか。ここでもまたテキストから先行者の言葉を引こうと思うのだが、思想家の内田樹は、著書『街場の文体論』で村上春樹のインタビューを参照して、作家の創作における身体性を次のように語る。

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作家の仕事はこの「地下室の下の地下室」に入り込み、また戻ってくることです。少なくとも村上さんはそう書いている。この「地下室の下の地下室」に入るためには、それなりの技術が要る。それは「地面に穴を掘る」というタイプの肉体労働に近いものだと村上さんは書いています。 

 

「鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」

 

これは村上さんが自分の創作のスタイルについて、かなり率直に書いた部分だと思います。そのとき、「地面に穴を掘る」「水脈に達する」という比喩を使う。ほとんどつねにこの比喩を使うんです。 ~(中略)~ でも、村上春樹は小説を書くというときには「地面に穴を掘って水脈に突き当たる」という比喩しか使わない。これは非常にたいせつなポイントだと思います。それが作家の実感なんでしょう。穴を掘ると運がよければ水脈にぶつかる。そこから「何か」が湧出してくる。それをすくい上げる。それが書くことだ、という作家の実感を僕はそのままに受け取りたいと思います。

 

如何だろう、ここでも見事に人生の本質について言い当ててはいないだろうか。人生という受難の道を歩むとき、いくつもの困難に遭遇する。そのたびに人生における旅人は「地面に穴を掘」り、わずかな「水脈を探り当て」ようと試行錯誤を繰り返す。これこそが人生、これこそが表現するということの真因ではないか。そして、このように表現するためには言語が、「言葉」が必要だ。もし俺らが、人生という小説に記すべき「言葉」を見つけることができたとき、言葉を作ることによって、新たな現実をつくることも可能になってくるのではないか。

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おそらく、ここらへんのキー概念になってくるのが、折口信夫や井筒俊彦、鈴木大拙あたりのテキストになるのだろうなと考えているのだが、俺の「言葉」「言語」への探求はまだまだ続きそうだ。

 

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

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  • 作者:保坂 和志
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2008/11/01
  • メディア: 文庫
 
一億三千万人のための 小説教室 (岩波新書)

一億三千万人のための 小説教室 (岩波新書)

  • 作者:高橋 源一郎
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2014/12/18
  • メディア: Kindle版
 
街場の文体論 (文春文庫)

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  • 作者:内田 樹
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2016/03/10
  • メディア: 文庫
 

焼き鳥巡礼 ~個人的に「日本一」だと思う店:横浜編~

圧巻だった。あっさりと自分のなかの「日本一」が塗り替えられた。すべてが好みどおりの仕上がりと緻密な組み合わせの妙、そして奇をてらうことのない確かな味わいがそこにはあった。空間演出、サービス、品質どれをとってもパーフェクトで、文句のつけようがなかった…

 

なんの話かというと、焼き鳥である。有名店という有名店を食べ歩き、至高の焼き鳥を追求する無類の“焼き鳥”マニアである俺にとっての、「マイベスト・焼き鳥」が見事に更新されてしまった。すべてが完璧で、探し求めてきた理想の“焼き鳥”と、運命的な出会いを果たすことができたのだった。

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その店は、横浜は関内にあった。以前も横浜を訪れた際に、名店と誉れ高い『里葉亭(りばてい)』で食したレビューを記事にしたが、その『里葉亭』以上に行ってみたかったのが今回のお店、『地葉(ちば)だった。どうやら俺好みの店らしいと情報だけはなんとなく入ってきてはいたのだが、このお店の主人である地葉さんのバックグラウンドでもある『里葉亭』に先に行ってから、『地葉』に訪れてみたかった。このほど、念願叶って本命のお店に寄ることができたのだ。 

www.sandinista.xyz

 

店の内観からして、あきらかに熟練の左官職人の粋が凝らされたモダンな塗り壁を背景にして、高級鮨店のような白木を基調にした落ち着いた佇まい。まるで焼台を舞台にした小劇場というような趣きが凝らされた、カウンターメインの大人の空間になっている。カウンター席だけで15席ほどあるのに加え、個室が3つ。これだけのキャパがありながら、焼き手は一人。“味”と“焼き”に対する徹底した自信が感じられる店のつくりになっていた。

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(『dressing』より掲載)

 

注文はお客がストップと言うまで次々と自動的に出てくる「おまかせ」方式。店主の地葉さんから代替わりしたであろう若い焼き手がすべてをコントロールし、切り盛りしているのだが、あきらかに客の会話やドリンク、味わい方までを見て、一人ひとりにあった流れを即興で組み立てて品を出している。若いながらに焼き手を任されるだけあり、流石はという凄みを見せつけられた。

 

実際に食してみると、どれも食感が計算されたサイズ、繊維の切り方になっており、口溶けにまでこだわった火入れが一品一品に施されている。これまで紹介してきた店が比較的、野趣に溢れた豪快な仕込みだったのに対して、繊細な機微を感じさせられる、とことんまで上品でいて丁寧で、洗練された仕事になっている。

 

たとえば、定番の「もも肉」は口の中でホロホロと解けるような感覚になるようにミルフィーユ状にカットされているし、「皮」にしても余韻ある食感を残すよう、かなり厚めにカットし串打ちされているのだ。終始、満席だったために細かに調理法を聞くことができなかったが、仕込みの段階でおそらく、“熟成”が施されているであろう部位も見受けられた。品数を経るにつれ、ここぞとばかりに「ぼんじり」や「ソリレス」などの希少部位も供された。

 

そしてお店の名物として挙げたいのが、「生わさび割」というドリンク。麦焼酎のソーダ割りにすりおろした高級わさびが入ったものなのだが、これがとてもクリアで清涼な味わいで焼き鳥との相性バツグンなのだ。脂っこい部位の後味の悪さもきれいに洗い流してくれる。ドリンクと焼き鳥とのマリアージュもまた絶妙で、まるで「ヨーロッパ全土の総音楽監督」とまでいわれ、神経の行き届いた完全無欠の美に彩られた音を紡ぎ続けたヘルベルト・フォン・カラヤンのように、美学が貫き通された丁寧な仕事となっている。

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個人的なオススメは、「ささみ」や「レバー」など口の中で溶けてしまう内臓系、そして見事な食感が極限の黄金比的なサイズの中に凝縮された「軟骨」、そしてどこの店でもここまでの味わいに出会うことのなかった、旨みの凝縮したコリコリ食感の「ぼんじり」。そして焼き物ではないながらに、鶏の醍醐味が味わえる「手羽元の煮込み」など、隙きのない味の組み立てにただただ脱帽させられた。

 

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如何だろう、まるで洗練された工芸品を思わせる美しい焼き物ではなかろうか。職人芸ともいえるバランスのいい串打ちの妙技、見ているだけで食欲をそそる焼き目のつき方、アクセントになっている薬味。どれもが「これぞ焼き鳥」といえる、至極の仕上がりになっている。こうして写真を再見しただけで、それぞれの味わいの記憶がまざまざと蘇る。

 

残念ながら座った位置からは焼き手の細かな作業を目にすることはできなかったが、適宜、炭を割りながら丁寧に火力調整を行うことで、まさに絶妙な火入れを行っており、おそらく店主にも劣らない腕前を身に付けていることはハッキリ分かった。ひとつだけ欲をいえば、とても新鮮で丁寧に処理された「レバー」を、できれば白焼きでも食してみたかった、といえば贅沢になるだろうか。

 

コストパフォーマンスという点でも優れており、大阪や東京都内で食べれば軽く1万円は超えるであろう内容を、良心的な価格で食すことができた。いずれにしても、ここ数年来、集中的に食べ続けてきた“焼き鳥”において、これほどの店はほかにない。自信をもって皆さんにオススメできる日本一のお店である。

 

tabelog.com

 

やきとり大全

やきとり大全

  • 作者: 阿部友彦,池川義輝,一氏佳樹,岩上政弘,小澤俊正,川渕克己,児玉昌彦,坂江和雄,酒巻祐史,笹谷政文,建守護,村山茂,薮内孝志,和田浜英之
  • 出版社/メーカー: ナツメ社
  • 発売日: 2016/04/11
  • メディア: 単行本
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やきとりと日本人?屋台から星付きまで? (光文社新書)

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