近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

「喪われたもの」の社会学

これから、とりとめのない話をしようと思う。理由は単純で、社会学者・岸政彦の『断片的なものの社会学』という本に触発されたからだ。この本はある意味で衝撃的な内容であるわけだが、どういう本なのかを客観的に説明するのは難しい。本文にそのまま物語らせることが適切だと思うので、冒頭の一節をそのまま引用してみる。

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

以下、『断片的なものの社会学』イントロダクションより。

私は、ネットをさまよって、一般の人びとが書いた厖大なブログやTwitterを眺めるのが好きだ。五年も更新されていない、浜辺で朽ち果てた流木のようなブログには、ある種の美しさがある。工場やホテルなどの「廃墟」を好む人びとはたくさんいるが、いかにもドラマチックでそれはあまり好きではない。それよりもたとえばどこかの学生によって書かれた「昼飯なう」のようなつぶやきにこそ、ほんとうの美しさがある。それに比べれば犬の死はかなり強い印象を残すエピソードだが、私はどうしてもあのできごとを、なにかの「ストーリー」にまとめることができないでいる。小石も、ブログも、犬の死も、すぐに私の解釈や理解をすり抜けてしまう。それらはただそこにある。

 

すべてが上記の文章の中に表現されている。端的に云って「ただそこにある」というだけの話が、とりとめなく語られている本なのだ。著者本人も書いていることだが、要は「何が書いてあるのかはっきりとわからないが、妙に記憶にだけ残る」、まるでJ・D・サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』みたいな、断片的な話の集積なのだ。

 

通常、他者に読んでもらうことを前提にした文章というのは、ある秘密に向かってすべてが収束していく構造になっている。だからこそ文章としてひとつのまとまりがあり、終りがある。ところがこの『断片的なものの社会学』は、そうしたある種のお約束ごとを前提としていない文章体系なのだ。そのパラドキシカルな視点と思考が、この本のなんといえない魅力となっているのかもしれない。

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「喪われてしまったあとに見出されたもの」というのはえも言われぬノスタルジーを誘い、ドラマチックなものだ。しかし、この本の中で語られていることは「喪われてしまったあとに見出されなかったもの」だ。たまたま著者の目に触れたがために文章化されたものの、社会的にはいまだ見出され得ないものたち。当たり前のことではあるが、そういった死屍累々の膨大な「見出されなかったもの」のうえに俺らは立脚しているのだ。今あんたが読んでいるこのブログだって、誰も読まなけりゃただの「見出されなかったもの」の集積にすぎないしな。

 

以前の記事でも紹介した、いわた書店の一万円選書で店主・岩田徹さんの人生を変えた1冊として名高い『逝きし日の世の面影』という本もまた、「喪われてしまったあとに見出されなかったもの」について書かれた名著だ。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

 

 

江戸時代の末期から明治時代の初期にかけて日本を訪れた欧米人の手記や書簡を手がかりに、世界でも類を見ないかつての日本の豊かな精神文明の姿を解き明かしている。ここでもまた、著者の素晴らしい序文で全体像が見事に物語られているので引用しておこう。

文化は生き残るが、文明は死ぬ。かつて存在していた羽根つきは今も正月に見られる羽根つきではなく、かつて江戸の空に舞っていた凧は今も東京の空を舞うことのある凧とおなじではない。それらの事物に意味を生じさせる関連、つまりは寄せ木細工の表す図柄が新しく変化しているのだ。新たな図柄の一部として組み替えられた古い断片の残存を伝統と呼ぶのは、なんとむなしい錯覚であろう。

 

本文中でも日本研究家チェンバレンが「日本には貧乏人はいるけれど、貧困は存在しない」ように見えたという話が収録されているのだが、決して経済的に裕福とはいえない未開社会であった当時の日本にあって、独特の「情緒」を宿した精神性が花開いていたというのがこの本の大きな骨子となっている。なかでも当時、下田を訪れた要人たちの談話が印象的だ。

十九世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国の国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。ときには辛辣に日本を批判したオールコック〔英国初代駐日公使〕でさえ、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。ペリーは第二回遠征の際に下田に立ち寄り「人びとは幸福で満足そう」だと感じた。ペリーの四年後に下田を訪れたオズボーンには、街を壊滅させた大津波のあとにもかかわらず、再建された下田の住民の「誰もがいかなる人びとがそうでありうるよりも、幸せで煩いから解放されているように見えた」

  

「この土地は貧困で、住民はいずれも豊かでなく、ただ生活するだけで精一杯で、装飾的なものに目をむける余裕がないからだ」と考えていた。ところがこの記述のあとに、彼は瞠目に値する数行をつけ加えずにはおれなかったのである。「それでも人々は楽しく暮らしており、食べたいだけは食べ、着物にも困ってはいない。それに家屋は清潔で、日当たりもよくて気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会で下田におけるよりもよい生活を送っているところはあるまい」

  

喪われてしまった日本人の精神性を指摘した著作といえば、数年前にも1冊読んでいたのを思い出した。日本ならではの侘び寂びの思想が体現された枯山水の庭園として有名な京都・龍安寺石庭の真の妙味は、謎を秘めたあの15個の石の配置でも演出でもなく、幾多の歳月を世俗から隔絶し続けてきた油土塀にあると喝破した森神逍遥『侘び然び幽玄のこころ』だ。

侘び然び幽玄のこころ─西洋哲学を超える上位意識

侘び然び幽玄のこころ─西洋哲学を超える上位意識

 

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この本の中で森神は日本人なら誰もが宿していた心象風景としての侘び寂び(然び)は、わかりやすくデフォルメされた枯山水や茶の湯の世界などにあるのではなく、実はなんでもない簡素な農村の日常の中にあったものだと云う。それは孤独に根ざした死生観にもとづくもので、必ず土の臭いのするものだった。しかし近代産業の到来により、日本は農村社会とともにその精神性や情緒を捨て去ってしまったのだと指摘する。

 

ふたたび『逝きし日の世の面影』から異邦人の談話を引用してみよう。上述のように農村で培われた精神性が、かつての陽気で気さくで、そして謙虚な日本人の心を醸成していたのだろう。まさに「逝きし日」のことであり、今はもう見ることのできない光景である。

エドウィン・アーノルドも「俥屋にお茶を一杯ご飯を一杯ふるまって、彼のお礼の言葉を耳にすると、これがテムズ川の岸で、まぜもののビールをがぶ飲みしたり、ランプステーキに喰らいついたりしている人種とおなじ人種なのかと、感嘆の念が湧いてくる」と言っている。彼は明治二十二(1889)年の仲通りと銀座の群衆について次のように記す。「これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす。夜なら『おやすみなさい』という挨拶が。この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる」。田舎でも様子は変らない。弟妹を背負った子どもが頭を下げて「おはよう」と陽気で心のこもった挨拶をすると、背中の赤児も「小っぽけなアーモンドのような目をまばたいて、小さな頭をがくがくさせ、『はよ、はよ』と通りすぎる旅人に片言をいう」。茶屋に寄ると、帰りぎわに娘たちが菊を一束とか、赤や白の椿をくれる。礼をいうと、「どういたしまして」というきれいな答が返ってくる。

 

こうした日本人が「喪われてしまったあとに見出されなかったもの」は、最近観たDVDの中でも出会うことになった。インドネシア・バリ島を舞台に事業に失敗し自殺を考えていた主人公が突如、地元の日本人大富豪・アニキと出会い成長していく姿を描いたコメディ映画『神様はバリにいる』だ。

神様はバリにいる DVD通常版

神様はバリにいる DVD通常版

 

 

この映画の中で堤真一扮するアニキがバリ島を拠点にする理由を、今の日本では感じることができない「なんにでも感謝する心」を持った素朴な島民たちによって、感謝の環が連鎖するからだと答えるシーンがあるのだが、まさに『逝きし日の世の面影』の中で語られているかつての日本人の姿と重なり、とても象徴的だった。

 

結局のところ、俺らは資本主義の経済システムの中で情緒的な冗長性をいとも簡単に、そして合理的に捨て去ることができるわけだが、この捨て去った側の方が自然淘汰的に残されたものよりも文明的には実は重要なものであったのではないか。最近、そう思うようになった。捨て去ったが最後、後戻りのできない選択であるほど容易に捨て去ってしまえるという都合のいい性質を人間は備えているものなのだ。

 

喪われたものはリファレンスとして文化財や文化遺産の名のもとに保管され、いつでも参照できるという見方もできるかもしれないが、存外に重要な文化というのは記録としてよりも口伝などの伝承でしか伝わってないのではないかとも思う。考えてみてほしい。本や文書というのは不特定多数を想定して伝えられることが前提なので、抽象的で普遍的な内容になりやすい。しかし特定個人に向けられたアドバイスや口承は、前提や条件を共有したうえでより真相を突いた深い叡智であることが多い。

 

伝承でしかアクセスできない偉大な叡智として有名なのが、ネイティブ・アメリカン(所謂、インディアン)の教えだ。それらはどちらかといえば「喪われてしまったあとに見出されたもの」ともいえるが、そもそも未発見で「そこに最初から存在し、そして失われることもなく、だが誰の目にも触れないもの」として、いまだ閉ざされたままの叡智である可能性のものもあるはずだ。

 

これも以前の記事でも紹介した、中沢新一の翻訳で伝説のインディアンの口承を集めたジョセフ・ブルチャックの著作『それでもあなたの道を行け』から、「喪われつつある」偉大な叡智を例によってここでも引用しておこう。ちなみに、下記の2つの引用で出てくる「ワカン・タンカ」とはスー族の伝承に伝わる絶対的な真理であり、宇宙の創造主のことだ。

それでもあなたの道を行け―インディアンが語るナチュラル・ウィズダム

それでもあなたの道を行け―インディアンが語るナチュラル・ウィズダム

  • 作者: ジョセフ・ブルチャック,中沢新一,石川雄午
  • 出版社/メーカー: めるくまーる
  • 発売日: 1998/08/01
  • メディア: 単行本
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私の大好きな話に「第七番目の方角」というのがある。私はこれを、現代ラコタ族のすぐれた伝承の語り手である、ケヴィン・ロックから教えてもらった。それはこういう話だ。

「グレート・スピリツトであるワカンタンカは、六つの方角を決めた。すなわち、東、南、西、北、上、下である。しかし、まだひとつだけ、決められていない方角が残されていた。この七番目の方角は、すべてのなかでもっとも力にあふれ、もっとも偉大な知恵と強さを秘めている方角だったので、グレート・スピリットであるワカンタンカは、それをどこか簡単には見つからない場所に置こうと考えた。そしてとうとうそれは、人間がものを探すときにいちばん最後になって気がつく場所に隠されることになった。それがどこであったかというと、ひとりひとりの心のなかだったという話だ。」

 

インディアンは崇拝するのが好きだった。誕生から死にいたるまで、インディアンはまわりにあるものすべてに敬意を抱いていたのだ。彼は自分が豊かな母なる大地のひざに抱かれて生まれたと考えていたから、彼にとっては、この大地のどこにも、軽んじていい場所など存在しなかった。インディアンと偉大な<聖なるもの>とを分かつものなど、なにもなかった。誰でも、すぐに<聖なるもの>に触れることができたし、ワカンタンカの祝福は、まるで空から雨が降り注ぐように、インディアンの上に注がれていたのだ。ワカンタンカは、人間からはるか遠いところにいるものではなかったし、たえず邪悪な力を抑えようとしているわけでもなかった。ワカンタンカはけっして動物や鳥を罰することはなく、人間をも罰することはなかった。ワカンタンカは罰する神ではなかったのだ。なぜなら、<善なる力>を上まわり凌駕する、邪悪な力の支配などという発想自体が、なかったからだ。ただひとつの支配する力だけがあた。つまり、<善なる力>だけが、この世界を支配していたのだ。

ルーサー・スタンディング・ベアー首長(フコタ族)一九三三年

 

とりとめなく始めてしまった話だから、最後もとりとめないままに終わろう。喪われてしまったものにまつわる話、また何処かでお目にかけられれば本懐に候。

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※本記事中の写真は筆者がRolleiflex MiniDigi AF5.0にて撮影。写真の所有権はすべて筆者に帰属する。許可なく無断で転載・使用することを禁ず。

嗚呼、素晴らしき哉"美食"を堪能するスゴ本5冊

『料理』は哲学的な営為だ。何故にその食材を選び、違う食材を組み合わせ、煮るなり焼くなりの調理を施すのか。そこに多元的に加えられたハーブやスパイス、ソースは作り手のどのような“戦略”を内包して、食べ手にとってどんなドラマツルギーを創出するものなのだろうか。いや、そもそもが。眼の前に差し出された一皿は、「私」にとって何を意味するのだろうか。

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なんの疑いもなく出されたものをただ食す、そーゆーことに俺らは慣れてしまっているけれど、供された料理の意味についてひとたび考えてみると、まるで迷宮に迷い込んだ不思議の国のアリスみたく料理人の術中にはまっていることに気づく。考えれば考えるほどに、形而上学的な世界がそこに拡がっているのだ。

 

唐突に『料理』を語りだしたのは久々に俺の感性を刺激しまくるスゴ本と出会い、大いにインスパイアされたからだ。以前にも作り手のスタンスについて考察した記事を書いたことがあったが、料理に対する向き合い方、捉え方がその人の人生観そのものだと言っていいくらい、人生の本質が料理には内包されていると思う。もちろん、それは作り手のみならず如何に味わい、どう表現するかというところでは食べ手にも共通する普遍性が内在しているのだ。

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今回はそんな料理・美食をキーワードにして、独自の世界観を提示した名著を紹介してみよう。ここに挙げる5冊いずれを読んでも、あんたの料理観が一変することを保証するよ。それはなにより単なる食通、料理マニアによるグルメ本ということを差し引いて、人生をより良く生きるためのヒント、示唆が多く散りばめられている。ぜひ、そんな美食の世界を堪能されたし。

 

①料理人という生き方 道野正

冒頭で大いに刺激されたスゴ本と評したのが、この本。大阪・福島に店をかまえる知る人ぞ知るフレンチの名店、『ミチノ・ル・トゥールビヨン』のオーナーシェフ道野正による珠玉のエッセイ集であり、魅惑の料理37皿を撮り下ろした写真集でもあり、ならではの図版から作り手自ら料理を解題したレシピ集でもある。特筆すべきは道野氏の特異な経歴。人生の意味を模索し同志社大神学部に進むも熟慮の末に突如、料理人の道に入ることを決心する。その思考の軌跡も文章に綴られている。

 

この本の何が凄いかというと、『ミチノ・ル・トゥールビヨン』を代表する各々の料理を生み出すに至った過程が克明に記されていることだろう。たとえば、この図版を見てほしい。これが何を意味するものなのかお解りになるだろうか。

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実はこれ、道野氏直筆のレシピなのだ。なんともモダンで創造性に溢れた氏の料理の、味の構造を示した設計図が包み隠すことなく掲載されている。ちなみにこの料理は、映画化もされている山本兼一の時代小説『利休にたずねよ』から着想を得たという一皿らしい。そして、この設計図にしたがって作られた実際の料理がこちら。盛り付けも味も、したたかに計算され尽くしていることがよく理解できる。

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その類まれな感性から生み出される至高の料理が、いかに完成するに至ったか。どのような発想によって創作が為されているのか。道野氏の脳内の思考の変遷が公開されたという点でも貴重な内容であることは、ここまでお読みいただいたからにはお解りだろう。そして、もともとはブログで書いたものを下敷きにしたという道野氏による言葉もいちいちカッコいいし、実に示唆に富んだ内容になっている。

 

「思い起こせば、この歳になるまで多くの人にお世話になりました。だからこれを機に、もう一度、真摯に自分の料理と向き合おうと考えました。変化というものは外からくるものではない、自分の内からしか湧いてこない、そのことにも気が付きました。そうして石を積むように慎重に、一つずつ一つずつ積み重ねてきました。やがて表れてきた料理は、独創でもなく伝統でもない道野の料理でした。」(P.27)

 

「見た目はあまりに地味です。まるで流れに逆らっています。でも、理論的には隙がありません。そして実際、ここには豊穣といえる味わいがあります。これがぼくの料理です。そして、これまでの集大成でありスタート地点です。」(P.212)

 

「この飾り気のまったくない料理は、ぼくのささやかな誇り、です。」(P.24)

 

収録された写真もまた、タイポロジー的によく練られた編集がなされており、実にクリエイティブだ。このようなハイクオリティな書籍が大手出版社からではなく、インディペンデントなレーベルから出版されていることも意義深い。「道野正」という生き方に何を見出すか、どう共鳴するかは読者によって違ってくるだろう。それくらい多面的な読み方ができる素晴らしい本だと思う。

料理人という生き方

料理人という生き方

 

 

②美味しい料理の哲学 廣瀬純

いま、もっともラディカルな批評家といっていいかもしれない廣瀬純が美食による連帯、コミュニズムを誘発するために書き上げた思想書だ。フランス革命以降の哲学あるいは思想において、生物学的機能から開放された「性」がその主要テーマのひとつになっていたのに対して、生物学的機能から開放された「食」が語られることはまったくといっていいほどなかったという。

 

そんな「食」について、従来とは違う角度から物事を考え、新たな言葉を紡ぐことを目的に著されただけあって、焼き鳥の串焼きの中にキリストの磔刑を見出した「<骨付き肉>とは何か」など、刺激的かつ挑発的な思考が展開されている闘争の書といえる圧巻の内容。料理について新たな視座を提供してくれる。

美味しい料理の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

美味しい料理の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

 

 

③美食術 ジェフリー・スタインガーテン

数年前に高級料理を食べるためだけに世界中の星付きレストランを訪れる「フーディーズ」と呼ばれるブロガーたちの姿に迫った映画『99分,世界美味めぐり』が日本でも上映されたが、そんなフーディーズの元祖ともいえるのが著者のスタインガーテンだ。

 

まさに博覧強記とはこの人のためにある言葉で、ハーバードのロースクール出身の元弁護士であり、MIT(マサチューセッツ工科大)でも学んでいた経歴を持つ凄腕フードライターなのだ。昨今のフーディーズたちと一線を画すのは自分が食すあらゆる料理にまつわる文化や歴史に精通し、なおかつ自分で料理もするという世界一ストイックな食通といっていい。そんな彼が全精力をつぎ込み、ときには法律知識をも駆使して書き上げた至高の料理批評集である。

美食術

美食術

  • 作者: ジェフリースタインガーテン,Jeffrey Steingarten,柴田京子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/10
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 ④すきやばし次郎 旬を握る 里見真三

世界中の美食家をうならせてきた伝説の鮨職人、小野次郎が自らの「すきばやし次郎」で供するすべてのメニューを公開した究極の秘伝的「江戸前握り鮨」技術教本。なんといっても圧巻なのは次郎さんの素材や産地への飽くなき理解である。

 

よけいな仕事は一切せず、妥協なき最高の食材を最高のタイミングで供するために全技術を投入する次郎さんの揺るぎない信念、料理哲学が溢れんばかりに詰め込まれた、まさに虎の巻だ。収録されている写真もまた素晴らしく、すきばやし次郎の世界観がそのまま本の中に再現されている。日本人ならば一読しておきたい見事な1冊。

すきやばし次郎 旬を握る (文春文庫)

すきやばし次郎 旬を握る (文春文庫)

 

 

⑤愛しの街場中華 『東京B級グルメ放浪記』2 鈴木隆祐

美食といって、なにも高価で高尚なオートキュイジーヌだけがその範疇ではない。否、むしろ街場にある、なんてことない大衆料理屋に独自の"美"を見出すこともまた美食ではないか。翻って言うと、それなりの金額を出して、それなりのものを味わうことは誰にでもできる。だが、安価な金額で期待値以上の味と出会ったとき、人は高級店での味わいをも凌駕する感動に遭遇するものなのではないだろうか。

 

最後に紹介するのは、なんの変哲もない街場に佇む昔ながらの中華屋に愛着を持ち、そこに繰り広げられる魅惑のメニューと人間ドラマを鮮やかに描き出した渾身のルポルタージュである。街場中華にこだわるからこその深い洞察と愛に溢れた、なんとも味わい深い1冊。

愛しの街場中華 『東京B級グルメ放浪記』2 (光文社知恵の森文庫)

愛しの街場中華 『東京B級グルメ放浪記』2 (光文社知恵の森文庫)

 

  

まとめ

以上、作り手・食べ手関わらず、料理をとおして違う角度から世界を眺めることができる名著を紹介した。つまるところ、料理を作るだけでなく食すこともまた芸術的な営みといえる。

 

「食」がもっとも身近な生存活動であるとするならば、その食し方次第で自らの感性に磨きをかけることもできるはずだ。今一度、供される料理について、あんたなりの解釈を加えて食してみてはどうだろうか。

 

作り手の感受性から食べ手の感受性へと連鎖し、より人生に実りをもたらしてくれるはずだから。

「批評眼」を養う読書7冊

人が自分自身を語るとき、おのずと付いてまわるのが経歴や肩書きという副次情報だ。どのようなお仕事されているんですか?ご専門は何なのですか?もはやこのメタデータ抜きにして、初対面の人間とコミュニケーションを交わすことなどできやしない。ところが自分自身を語ることが難しい人種ってのが存在する。一体お前は何者なんだ?どういったことに長けた人間なんだ?と問われても、明確な答えを持っていない。今現在の職業を答えたところで、俺自身を言い表すのに的確な情報とはいえないのだ。

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過去にはマーケティングに従事して、IT関連での起業経験もあり、数年前までは写真家をやってまして、今は金融業に関わっていて、その他にもベンチャーキャピタルみたいなことも…とかなんとか説明を試みると、途端に質問者の頭に疑問符が点灯しはじめる。「いやぁ~、色々とご経験されてますね」とか「いろんな才能をお持ちでいらっしゃるんですね」なんてお茶を濁されるのは、まだご愛嬌。「フラフラと無責任に、好き勝手生きやがって(怒)」なんて心の声まで聴こえてきたかと思うと、場の空気感は一気に急降下するなんてことも、しばしば。

 

お前はいったい何者なんだ?ふたたび心の声が聴こえはじめる。俺自身が教えてほしいわ…俺はいったい何者なんだ?なんとか俺という人間を知ってもらおうと、ブログに書いてるようなことを喋って話に食い下がろうとする。ありとあらゆる話材にも、それとなく専門用語なんかも織り交ぜながら自分の視点を述べていく。それがインサイダー的なことだったり、深い洞察だったり、わりと真を突いたことを言ってしまっているらしい。すると、聴衆の脳裏にふたたび疑問符が点灯しだす。こいつは何者なんだ?

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他人から言われて初めて自覚したことなのだが、どうやら俺の興味や関心の射程は他人のそれよりも広いらしい。広範な話題に言及できるというのは、ある種の才能みたいなもんのようなのだ。でも俺から言わせると、多様な職業や経験を経ているからこその賜物ともいえる。リアルな日常の中で新たに見知った関心ごとは、書籍や文献などを集めて徹底的に調べる癖みたいなものがたしかにある。でも、それはあくまで知識的なことであって誰にも出来ることだ。

 

では自分自身の洞察や批評としてアウトプットするには、どのような能力が必要なのだろうか。俺は個人的に「批評眼」は以下の要素に集約されると考えている。

批評眼=専門知識+語彙力(ボキャブラリー)+視点

 

先述したとおり、知識は誰もが等しくインプットすることができる。興味関心に応じて、関連する物事をつぶさに調べる。これは誰にでも出来ること。次の語彙力に関しても、読書の総量に比例する能力だと思う。様々なジャンルの、様々な文脈や語り口、比喩表現などに触れることで後天的に習得することができる。これらの要素の中でもっともセンスが問われるのが「視点」である。逆説的にいえば視点の転換次第で、批評は誰にでも可能なのである。

 

視点の転換とは何か。それは単純にいってしまえば、ある物の見方を違う尺度のフィルターに置き換えて眺めることだ。ただ見たままの事象や光景を、そのまま表現することは誰にでもできるし、読む側からすると気付きやサプライズ要素がないので面白みがない。そこで対象物を従来とは違った視点や基準、尺度で読み直すという視点の転換を導入することで評者ならではのアウトプットになるのだ。これも読書体験によって訓練することは可能だと考えている。

 

今回は個人的に「批評眼」を形成するのに役立った書籍を紹介してみたいと思う。ネット社会に溢れる作者のパーソナリティもわからんような、安易なハウツー系のブックリスト系コンテンツにはいつも辟易させられるけど、多様かつ特異な経験を経た執筆者の個人的体験から導き出されたリファレンスの体系というのは貴重なもんだ。俺にそれだけの信頼性があるかはわからんけど、このブックリストがどこかの誰かに役立つものだったら幸いだ。

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ただ、ここで紹介するのはあくまで多様な価値観や物事の見方に触れることを主眼にしている。そういう意味では映画・文学・詩・音楽・演劇・アートなど、あらゆるジャンルに通ずる普遍的なものだけれども、実践するには批評対象への深い研究が必要になることに留意されたし。

 

批評という行為を考える

「批評」とは何か? : 批評家養成ギブス (BRAINZ叢書) 佐々木敦

音楽批評などで知られる著者が主宰する「批評家養成教室」の講義録。批評とは何か、どういった行為なのかという根源的な問いからスタートし、音楽・映画・文芸など各分野ごとに過去の批評家の文章を具体的に例示しながら、新たな批評の形式を模索することを読者に強いる。古今、様々な批評家が独自の批評論を展開しているのだけれど、これほどまでに中立的で、かつ実証的な批評体系は存在しなかった。読み終えると同時に、猛烈に書くことへの意欲を掻き立てられる良書。

「批評」とは何か? : 批評家養成ギブス (BRAINZ叢書)

「批評」とは何か? : 批評家養成ギブス (BRAINZ叢書)

 

 

「専門知識」からみる批評

苔のむすまで 杉本博司

斬新な作風の写真作品で知られる現代美術家の初エッセイ集。古美術への圧倒的に深い洞察が惜しみなく散りばめられた珠玉の名文揃いだ。なかでもアフリカの草原から見つかった350万年前のものとみられる類人猿のカップルの足跡から、人間にとっての愛の営みを考察した「愛の起源」、カメラのメカニズムから映画鑑賞の本質を問うた「虚ろな像」など、緻密な論理展開から導き出される静謐な思考の数々。そして海外在住アーティストならではの日本への憧憬と愛情さえも感じさせ、文化の素晴らしさを再発見できる内容になっている。

苔のむすまで

苔のむすまで

 

 

服は何故音楽を必要とするのか? 菊地成孔

タイトルからしてすでに挑発的な問いになっている、日本を代表するジャズ・ミュージシャンによる批評集。『ファッションニュース』誌で連載されていたコーナーを一冊にまとめたもので、ファッション・ショーの映像を鑑賞し、その舞台音響から各ブランドを批評するという実験的な批評が展開されている。各メゾンのショーで流れる音楽=「ウォーキング・ミュージック」と独自に定義し、定点観測的に分析した情報からファッション業界を読み解いている。多才で知られる文筆家でもある氏の、音楽のみならず服飾文化への知識と造形の深さにただただ脱帽させられる。

 

「語彙力」を鍛える参考書

対談 競馬論―この絶妙な勝負の美学 寺山修司、虫明亜呂無

いくつもの肩書きを持ち、様々な分野でマルチに活躍した寺山修司が好きなのだが、そんな寺山が生涯こよなく愛した競馬について論じた対談本。薀蓄満載の酔狂なマニア本と侮るなかれ。そこは「言葉の魔術師」とも呼ばれた寺山修司。サラブレッドたちの闘いの中に人生を見つつ、あの手この手で競馬について論じていく。競馬を知らない人も、なるほどそういう見方、言い方ができるのかと思わず胸を熱くさせられる、愛と希望に溢れた扇情的な内容になっている。独特の言語感覚が切れ味鋭く突き刺さる、名著中の名著。ちなみに俺も競馬はやりません。

対談 競馬論―この絶妙な勝負の美学 (ちくま文庫)

対談 競馬論―この絶妙な勝負の美学 (ちくま文庫)

 

 

我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! 吉増剛造

現代詩をラディカルに突き詰め続けている詩人、吉増剛造の壮絶人生を綴った自伝。ところどころに魂の慟哭ともいえる自身の詩を挿し込みながら、その凄まじい体験と創作秘話が盛り込まれ、吉増を知らない人、現代詩に興味のない人にとっても文句なくおもしろい内容になっている。溢れる情熱がほとばしるように疾走する文体、リズム感をともなった心地よい語感、強烈な原色を想起させる色彩的な表現。言葉のプロだからこそ言葉の限界に挑戦し続ける孤高の半生は、ぜひ追体験してみるべき。

我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! (講談社現代新書)

我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ! (講談社現代新書)

 

 

鮮やかな「視点」の転換

それでも、日本人は「戦争」を選んだ 加藤陽子

これは以前にいわた書店の一万円選書に当選した際に届けられた1冊。高校生を対象に日本の近現代史を題材にして、リベラルアーツとしての歴史の捉え方を説いた講義録だ。何故に批評眼を訓練するのに戦争を論じた本なのかと疑問に思われるだろうが、東大教授の著者はまさに高校生たちへ歴史を理解するために視点の転換を促しているのである。通説・俗説だけを理解するのではなく、複眼的な思考が歴史を理解するには必要なのだということを存分に学ばせてくれる内容だ。なるほど、歴史的事件の裏には通史だけでは理解できないディテールが存在するのだと気付かされた。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

 

 

切りとれ、あの祈る手を 佐々木中

難解で知られる知の巨人ラカンとフーコーの思考を、知る人ぞ知る法制史家ルジャンドルを導き手に読み解いた博士論文『夜戦と永遠』で脚光を浴びた若き哲学者のエッセイ集。圧倒的なアジテートで、斬新な視点から「読むこと」と「書くこと」に新たな解釈をもたらしてくれる。読むという行為が実は革命へと繋がっていくのだということを、話しかけているかのような臨場感ある語りおろしの文体で詩的に綴られる。膨大な学究的知識を背景に、読者に「読むこと」の変容を迫る名著だ。アカデミズムの本領を思い知らされた1冊。

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

切りとれ、あの祈る手を---〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話

 

いわた書店『一万円選書』の意味と、その可能性

先月末、いわた書店の「一万円選書」に当選したとの報を家人から受ける。えっ、マジかよ!

 

北海道は砂川市に実在する小さな書店に全国から注文が殺到、年に数回の抽選方式で当選した顧客にだけ店主が個別に厳選した1万円分の本を届けるというサービス。以前からテレビ番組かなんかでこのサービスの存在は知ってて。過去に幾度か応募したもののあえなく落選。それでも、めげることなくチャレンジし続けた末の結果だったんだわ。店主の岩田徹さんからのメールによると今回も約3000件の申し込みがあったんだとか…。よく当選したよな、ほんと。

件のいわた書店はこーゆーお店。いつの日か行ってみたいと思う本読みの聖地↓

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このサービスの人気の秘密は。『カルテ』と呼ばれる読書アンケートにもとづいて、店主が読み手に合わせたオススメの本を提案してくれるというカスタマイズ性にある。そのカルテには今までのベスト本20冊やら最近気になったニュース、これまでの人生でうれしかったこと・苦しかったこと、自分にとっての幸せとは何かといった個人の経験や価値観を問う質問が用意されている。これを事前に記入して提出すると、岩田さんが見繕った本のリストが送られてくる。そこで合意がなされれば書籍が納品されるというもの。いうなれば「本のコンシェルジュ」といったところ。

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一万円選書の本質は顧客からすれば自分の人生や経験をとおして岩田さんがどんな本を選んでくれるのか、本を媒介にして自分の生き方の中に何を見出してくれるのかっていうある意味で人生相談的なニュアンスが多分に含まれている。このサービスを成立させているのが御年65歳の人生経験も豊富な大先輩、岩田さんの読み手としての信頼性にあることは言うまでもない。

 

つまり「本」をメディアにしたメッセージサービスとして機能しているのだ。その根底には俗にいう核家族の崩壊で父親や祖父母世代とのコミュニケーションが希薄化してしまったということが背景にあるのだろう。一昔前なら「こんな時にはこういう本を読んでみるといい」というような書誌データとメッセージはひとつ屋根の下で媒介していたはずなのだから。

 

そんな失われつつある世代間コミュニケーションを代替するサービスとしての側面も持つ「一万円選書」、俺自身も自らの経験と感性と勘を以てアクセスできる人文知にはすでに到達しきった感があって。早い話が読む本の傾向が固定化しつつあった。だからこそ自分自身では到達しえない、まったく自分とは違う人生を歩んできた人が積み上げたリファレンスというのはとても貴重なもので。そこから参照されるドキュメントは、価値観が異なる俺からするとまさに垂涎もののセレンディピティなわけだ。

 

しかも人生を一歩も二歩も先を歩んでおられる岩田さんのような父親世代の人が、俺に向けてどんな本をチョイスしてくれるのかが大きな焦点だった。そこでカルテの核となるベスト本20冊には包み隠さずにありのままの読書歴を記載した。

<実際に記入したカルテの内容>

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読書を始めた小学校時代から現在までを振り返り、間違いなく自分の血肉となった思い出の本から最近読んだ印象的なものまで、小説、ノンフィクション、エッセイ、詩集に至るまでなるべく偏りのないように20冊を選定してみた。こうして見ると、やっぱり青臭いとゆーか。いかに俺が浪漫主義的な、サブカルクソヤローであるかがよくわかると思う。

 

そして帰国子女としての自分の苦悩の過去、今まで歩んできた道のりなんかを事細かに書き綴って、やりたいことに取り組めている現在の充実した状況を結びに記した。そして数日経って届いた岩田さんからのメールに驚愕した。

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A4用紙にして1枚分びっしりと選書リストとともに岩田さんご自身の経験談と現在の所感、カルテから読み取れる範囲のささやかなアドバイスが添えられていたのだ。ここで初めて一万円選書の本当の価値というものが見えた気がした。当の俺自身が父親とは疎遠で祖父も早くに亡くしている。生活基盤も価値観もこり固まって人生も折り返し地点にさしかかった今、自身の経験をバックボーンにして意見してくれる年長の人間が身近にどれだけいようものか。

 

もちろん選書自体も意義深いことなんだけどさ。なんの縁もゆかりもない人間を相手に、ちょっとしたやり取りと読書歴だけを頼りに俯瞰して発せられた真摯な言葉のありがたみ。これは本当に嬉しかった。「どうか、僕の選んだ本を参考にして、自分自身のこころの声に耳を傾けてみてください」。メールにはそう書かれていた。

 

で、肝心の選書リストの方だけど。基本的にベストセラー、自己啓発やハウツー本の類は選定しないことをポリシーにされているそうで、著者名は伏せて書名だけが送られてくる。これは著者というメタデータを省くことで先入観や偏見なしに本と向き合ってほしい、そーゆー意図なのだと理解した。だからこそあえてそれ以上に詮索もせず、事前に書名をググるなど無粋なマネもせずにそのまま受け入れることにした。しかしながらリスト中の数冊には見おぼえある書名があったのでそれだけは違う本に差し替えてもらい、後は本が送られてくるのを待つだけという状態になった。そうこうしながら数日後、実際に本が届いた。

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 ※写真中の「逝きし世の面影 」は岩田さんがとくに激賞していて、かなりの高確率で配本される定番の1冊。その他にも「日本語が世界を平和にするこれだけの理由」や「モリー先生との火曜日」は他の当選者の投稿を拝見するによく同梱される書籍と見受けられる。俺はこれらの定番ものを勝手に「いわたクラシックス」と名付けた。多くの人にお薦めしているということはそれだけ普遍的で素晴らしい内容であることを示している。ちなみに今回送られてきたものは文庫本であっても500ページを超える大著がほとんどで、かなり読み応えのありそうな骨太なセレクトになっている。

 

実際に本が手元に届いて思ったのは、やっぱり自分自身の感性では手にすることのなかった書籍たちだなっていうのが実感で。しかも読み手としてもプロである(失礼ながら)本屋のオヤジが実際に読んで面白かった本だけを厳選したセレクトだ。内容はかなりの意味で折り紙つきだからこそ、どれから読むべきかという新たな問題が受け取った瞬間から生起することになる。

 

さらにはこちらの今のコンディションを把握した上で絞り込んでもらった本たちなので、一冊一冊に岩田さんの何かしらのメッセージが埋め込まれているはずだ。そのメッセージの意味を噛みしめながら読み解いていくのもまた一興というものではなかろうか。これから極上の読書体験が扉を開けて待っているのだ。

 

この「一万円選書」のように、顧客一人ひとりのニーズに合わせてサービスを組み立てる手法をマーケティング理論では「ワントゥワン・マーケティング」と言うのだが。そんな類型的なビジネスモデルにカテゴライズされることのない商売の本質が凝縮されているように思う。

 

1本980円のみかんジュースが話題の谷井農園代表の谷井さんは、伝説となったレストランのオーナーシェフからかつて「20代で1000万円食べなさい」と言われたことがあるそうだ。そうすればプロに負けない舌ができる。まずは食べることだ、と。本当に真心こめた最良のサービスを顧客に提供しようと思うと、自分自身で最上のサービスを体験しないと提供できないわけで。そーゆー意味でも本当にいい消費体験が久々にできた。なるべく多くの人にこのサービスを体験してもらいたいと思う。気になる方はぜひ以下のリンク先か、いわた書店のFacebookページをこまめにチェックするがよろし。

www.facebook.com

 

まあ、実際のところ人生行き詰まったり悩んでるときってのは安易にイマージュの世界に逃げないほうがいいこともある。頭の中の世界を広げるよりも実世界での経験値を積むってことは読書以上に大事なことだしな。それでもなお本に救いを求めるってのは人間の性ってやつで。「読めば、あなたの知層になる」とは、よく言ったものだ。読まないよりは読んだ方が絶対にいいんだよ。

 

ということで、しばらくは眠れぬ夜をすごすことになりそうだ。Adiós, amigo!

 

※2017/11/07 追記

一万円選書に関して興味深い記事が他所にあったので貼っつけておく。