近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

視覚言語をめぐる冒険

アート(芸術)としての写真の見方というものを『写真鑑賞論』と題して連載してるんだけど。それとは別シリーズとなるであろうこの記事は、その根本となるべき「鑑賞者の身体論」とでもいうべきものを言語化してみたいという試みの序章である。

 

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この論考は写真(アートフォト)は他の芸術の嗜み方とはまったく異なるという、あくまで俺自身の実感にもとづいた個人的試論であって体系知ではないことにご留意せられたし。

 

写真をとおした視覚芸術は他と何が違うのか、よくよく考えてみてほしい。視覚芸術というと一般的には映画や演劇、絵画が思いつく。その他、聴覚といえば音楽、触覚ならば服飾、味覚ならばガストロノミー、つまり美食などが身近なところになる。ここに挙げた様々な芸術的行為は、実はすべて三次元で感知しているものだというと多少は驚きを持ってもらえるだろうか。

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演劇をはじめ音楽や美食、被服などが三次元であることは自明のことなんだけれど、それじゃ映画や絵画は二次元じゃないのかという指摘をいただきそうだけど。この2つも実は三次元で感知される芸術作品なのだ。なぜなら映画を例にすると図像という平面(コマ)に時間軸を加えて映像は制作されているし、さらには音響までもが付加されている。

 

それでは絵画はどうなんだというと、こちらも実は紛れもない三次元なのである。たとえば有名な絵画をパソコンや雑誌などで見たとしてもそれを絵画鑑賞とは言わない。ところが美術館などでオリジナルの原画を目にすると立派な絵画鑑賞になるのである。これはなぜか。絵画鑑賞というのは実物を目にすることで表面的な絵柄や構図を堪能しているのではなく、その実、キャンバスに塗布された絵具や顔料のちょっとした重ね方や隆起から画家の筆使いや迫真の筆致を感知する行為なのである。

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だからこそ絵画とは絵柄や構図の妙の、その裏側にある画家の姿を想像するという点においては写真鑑賞に通じるものがあるといえる。単なる記号表現的な解釈や理論だけでは芸術は存外おもしろくないもので、作品を起点にしていかに鑑賞者の想像力を掻き立てるかが芸術の本義といえる。

 

ところが。俺の知るかぎり写真というメディアのみが二次元でアウトプットされた制作物なのだ。当然コラージュみたいな切り貼りされた二次加工品ならばまた論点は変わってくるんだが、今のアートシーンではどちらかというとコラージュや暗室処理は評価されにくい風潮にあるのでここでは言及しない。

 

あくまで芸術としての写真の楽しみ方は先の『写真鑑賞論』でも折に触れて説明しているとおり、その写真の撮られた背景や文脈、メッセージなど表層に決して露出することのない作家の意図を読み取ることであり、それはあたかも作家によって仕組まれた答えのない「謎かけ」を、己の感性と僅かなヒントを頼りに解き明かす稀代の名探偵のような営為なのだ。それだけに従来の芸術鑑賞よりも感受性と想像力を要するメディアであるといえるだろう。

 

それゆえに「写真鑑賞」という行為は、従来の人間にはなかった新たな知覚を呼び醒ましたといえるのではないだろうか。大仰な表現ではあるけれども人類の感覚器官の拡張ともいえるような事態が写真鑑賞という行為に内在しているのではなかろうか。

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このような独自の理路を持った写真鑑賞という行為をとおして鑑賞者の身体の内ではどのようなことが起こっているのかを精緻に考えていかなければならない。新たな知覚によって感受された、「視(み)る」という人類の新たな愉悦。次回以降、そのメカニズムに迫ってみたい。

 

Adiós, amigo!