近未来航法

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写真鑑賞論⑤ ~写真は語り、そして踊る~

久しぶりに写真鑑賞論の続きを書こう。今回から写真を鑑賞する上での媒体論に入っていく。まず言っておきたいことは、俺自身が写真集という媒体にとことん魅せられた人間だから、その他の鑑賞法についてどこまで語れるかわからんし、基本的な知識が欠如してるかもしれない。まあ、拙い説明はご愛嬌でどうか勘弁してほしい。ちなみに前回の記事はこちら。 

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ここまで展開してきた鑑賞論は基本的に写真集を前提にしたものだ。もちろん俺自身の興味の対象としてその魅力を語ってきたのだが、いわゆるアーティストの作品集には大きな問題が潜んでいる。オー、シット!問題だって?!そう。避けては通れない問題が、あるんだ。それは作品集に収められた写真がオリジナルではないということ。なんてこった、ガッデム…

 

写真が内包する複製芸術という性質を考えてみれば、それはそれでベンヤミン的に非常に厄介で難解な問題を孕んでいるのだが、通常、写真集として流通しているものはオリジナルのプリントをコピーした模造品にすぎない。模造品であるがゆえに作品として意図した色味や大きさ、そもそものカメラ(のセンサー)に焼き付けられた写真家自身のビジョンをどこまで忠実に再現されたものなのか、鑑賞者は知る由もない。写真という図像は印刷された先が印画紙か印刷用紙かの違いによっても、質感が大きく変化してしまうものなのだ。質感が変われば必然的に作品の味わいも変わってしまう。写真家にとって紙質の問題は本当に悩ましく、それゆえに奥が深い。

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なかなか分かりにくいという方には映画に喩えれば理解の一助にもなろう。映画というのはスクリーンに映し出される映像の大きさによって、そこから得られる情報量も変わる。通常、映画監督は映画館で観てもらうことを前提にして作品を仕上げる。なので、本来的にはDVDで家庭に移植されたテレビ映像やスマホで観るストリーミング映像は作家が意図した鑑賞サイズではないので、なんらかの情報が削ぎ落とされた映像なのだ。だからこそ映画館で観た作品がDVDで観るとどうも印象が違って見えてくるようなことが起こりうるわけだ。皆さん、映画は映画館で観ましょー。

 

だから写真家は印刷物としての写真集の装丁や紙質、プリンタによる印刷品質にいたるまで徹底的にオリジナルに近づけようとコントロールするのだが、費用や出版社の制約もあって100%満足のいく仕上がりにならないことが多い。見る側としても、どうせならオリジナルが見たいという人がいて当然なのである。そして、そんなオリジナルの写真を鑑賞する手段として「展示」という手法が存在する。美術鑑賞のスタンダードはほぼ例外なく展示だ。鑑賞の対象は当然のように写真であるわけだが、主役である写真をよりよく見せるための配置や個々の大きさの選択・額縁による演出など、作家が考えるべきポイントも多ければ、鑑賞者として見るべき要素もまた多いものだ。

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©Thomas Struth

 

とくに昨今は展示されるスペース全体を空間的に使うインスタレーションという手法が写真の世界にも持ち込まれ、なんといってもそのオリジネーターともいえるヴォルフガング・ティルマンスの展示は特筆すべきものになっている。ティルマンスの作品は、銀塩写真やデジタル写真もあるし、ときどき印刷物を使っていたりもする。大きさも小さなものから大きなものまで様々なサイズがあって、とにかく発想が自由なのだ。多くのアイディアを織り交ぜて、今までの固定観念を壊すような写真の見せ方を模索している。常に新しい写真のまとめ方を実践しているティルマンスのスタイルは、多くの人にショックを与え、その影響力は今なお絶大なのだ。

 

俺自身も2015年に大阪・国際美術館で開かれた彼の回顧展に足を運んだことがある。彼の展示が特異だったのは、空間内に展示してあるすべての写真をマテリアルにして、総体として何か大きなものを表現していることに尽きる。とくに彼自身がこれまでに問題意識を持ち主題として扱ってきたテーマは実に70種類以上も存在する。ユートピア的な生のありかたを演出した写真、ひとつに溶け合うもの、ポートレート、ざらつき、髭、体毛、光沢、ぬめり、つや、膨らみ、張り、丸みなどのシンボリックなイメージの数々。とんでもない枚数の、多様な作品をすべて等価に扱い、まるで洗練されたフリージャズのように変則的なテンポで、しかも軽やかなリズムで美しく統一的に構成しているのだ。まさに「見る」ことを超えて「体感」する展示となっていた。

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そして日本でも世界的に展示の評価が高い作家が存在している。金村修である。2000年に写真集「BLACK PARACHUTE EARS,1991-1999」が土門拳賞を受賞し、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に世界の注目される6人の写真家の1人として選ばれたこともある。金村は一貫して都市の風景をモノクロで撮り続けている写真家で、都市中に張り巡らされた電線を蜘蛛の巣に見立て、文明と資本のメカニズムを顕にした「Spider’s Strategy」など意欲的な作品を生み出し続けている。そんな彼の展示のスタイルもまた一貫していて、引き伸ばした自らのプリントを額に入れるでもなく直接、壁にただ整然と、しかし無造作にグリッドで貼り付けていくというものだ。壁一面に貼られたハイコントラストでソリッドなモノクロの風景が、まるで視覚的な洪水となって眼の前に迫ってくるような、そんな独特のビート感を放っていた。

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最後に例に出すのは写真家ではなく現代美術家、藤本由紀夫が京都のホステルkumagusukuで2015年に開催した企画展「THE BOX OF MEMORY-Yukio Fujimoto」だ。藤本は聴くことや見ることを問い直す実験的な作品を追求し続けている美術家の1人で、とくに空間演出には定評がある。リノベーションが施された町家のホステルを舞台に藤本が表現したのは、脳内で仮想の家の中を巡りながら、あらかじめ配置されたイメージを読み込む「建物の読書」という弁証法的な記憶術だった。この試みがおもしろかったのは、宿泊施設一棟をまるごと使い、随所に藤本ならではの機能的な、遊び心にあふれた制作物が設置され、企画展でありながらに宿泊もできるということだ。一般的な、見るだけ・眺めるだけの展示に留まらず、体感で鑑賞するというなんとも斬新なものだった。つまり日常的な営みという文脈の中に現代的なアートを忍ばせ、挿し込んだユニークな体験型インスタレーションの好例といえる。

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ここまでは作家による視覚的な仕掛けを紹介してきたのだが、展示には見て楽しむこと以外にもうひとつの醍醐味がある。それは作家本人が在廊している場合、作品について言葉のキャッチボールを交わすことができるという点だ。とくに写真という芸術はかぎりなくプライベートな所為だ。どこまでいっても作家が仕掛けた「謎」がつきまとう。思わず心を打たれ、どれだけ感嘆の声をあげた作品であっても完全に理解することなどできない。だからこそ、その作者と言葉を介して彼の謎かけに応えたくなるのが鑑賞者の心情というものだろう。作品を巡る他人の感想や意見を聞き、自らの言葉で応えることが至上の悦びだからこそ写真家も在廊しているのだ。

 

作品の解釈を抜きにしても、写真家自身がどのような問題意識を持って何をどのように見て、そして撮っているのかを聴くことができれば、それを導きにして作品への理解はより深まる。撮ったときの状況や環境などの制作秘話が語られれば、そこに臨場感も加わるだろう。老練な写真家ほど作品を言葉で語ることが不得手なもので、未熟な写真家ほど言葉で雄弁に語りたがるという傾向はあるのだけれども、そういった言葉にならない言葉、饒舌ではないけど感じることのできる写真家の矜持に耳を澄ますこともまた一興というものだろう。臆することなく写真家と語らおう。

 

以上、今回は展示という鑑賞法にフォーカスしてみた。このシリーズ、まだ続く。余談ですが、ブログのタイトルを変えようと思ってます。予告なくお披露目するつもりなので、それではまた。Adiós, amigo!

 

現代日本写真アーカイブ: 震災以後の写真表現2011―2013

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ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 (岩波現代文庫)

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