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音楽の喪失は何を意味するのか ~映画『ノーザン・ソウル』~

映画『ノーザン・ソウル』を観た。何それ?、と思ったあんたが正解。『ファースト・マン』でも『THE GUILTY/ギルティ』でもなく、『ノーザン・ソウル』だ!


『ノーザン・ソウル』予告編

 

単館系のカルト作品で日本初公開でありながら、数少ない上映館もわずか1~2週間という短いスパンですぐに打ち切ってしまうので、急いで観に行った。案の定、客入りはまばら。本国イギリスでの劇場公開は2014年で、まさか5年もの歳月を経た後に極東アジアの島国で劇場公開されるなんて、製作関係者も思っていなかったろう。

 

そもそもノーザンソウルとは何かってことなのだが、60年代後半頃にイギリス北部、 マンチェスター周辺のシーンでモッズから派生した、労働者階級の若者達による音楽ムーブメントのこと。「ソウル」と冠してはいるものの、特定のジャンルを示すものではなく。黒人音楽のなかでもテンポが速く、グルーヴ感のあるポリリズミックなダンス・ナンバーを中心に再構築されたクラブ・カルチャーだ。先駆的なDJたちの鋭敏な感性によって主導され、その後のパンク/ニューウェーブやレイヴ・カルチャーへと繋がっていく。

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といわれても、ダンス・ミュージックに造詣のない人や、現代の若者にはピンとこない説明だろう。このムーブメントの注目すべき点は、イギリスの白人青年がアメリカの黒人音楽を消費していたということ、そして誰もが知るヒット曲ではなく、誰も知らない未発表曲やインディペンデントな貴重音源を発掘することに最大のステイタスが置かれた文化だったということだ。

 

つまり、みんなが盛り上がれるキャッチーな曲に飽きた、耳の肥えた通なダンサーたちをひと味もふた味も違うイケてる謎の音源で唸らせることで、自らの美学を誇示するコレクター文化だったのだ。各々が「自分だけの音源」を求めて、誰も見向きもしなかったレコードを大量に漁り、発掘する。そうして見つけたスペシャルなナンバーは、他人に知られないように、奏者や曲名が印字されたラベル面を消したり剥がしたりする者もいたという。

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極度に物事が前衛化すると、その興味の対象は必ず過去へと向かう。そうやって発掘されたものや再評価されたものには、新たな生命が吹き込まれるのだ。誰も知らないレアで最高にクールなキラー・チューンは、DJそのものを代表するアイデンティティとなり、カリスマ性を醸成することになる。お気に入りの曲が聞きたければ、目当てのDJが出演するパーティーに行くしかない。そうやって名声が高まれば、よりステイタスのあるクラブやパーティーに出演し、シーンをリードするアイコニックな存在になれる。まさに音楽ジャンキーによる究極のサクセスストーリーがそこにはあったのだ。 

 

さて映画の方はというと、ユースカルチャーの描写に定評があるファッション写真家、エレイン・コンスタンティンが監督を努めたというだけあって衣装や美術は迫真ものだが、「トレイン・スポッティングに続く、ユースカルチャーの金字塔」なんて謳われたキャッチコピーも、当の「トレイン・スポッティング」に失礼だろ!とツッコミたくなるほど陳腐な青春群像劇だ。しかし監督自身が当時のシーンの渦中にいて、目の当たりにしたものを映像化しているだけに、細部にまでこだわりを感じさせる映像になっている。

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この手の映画は細かくストーリーを追うようなものではなく、むしろ映画に通底するヴァイブスを感じて酔いしれる類いのものだから、決して万人におもしろい映画ではない。やたらとキャラクター造形は薄っぺらいし、ストーリーを貫く確たるテーマがあるわけでもない。ただ、こんな文化がかつては存在し、若さゆえに破滅的で耽美的な、独特の熱気を宿していたというのを記録にとどめるためのものだ。しかしノーザンソウルが存在しなければ、今のR&Bやファンク、UKソウル、ニュークラシックソウルなんか生まれてなかったことは明白だ。

 

映画の見所は、当時のクラブの様子や受け止められ方がリアルに再現されているところ。リアルタイムを知らない俺らみたいな世代からすれば、「へえ、この曲をこんな風に踊っていたのか」と腑に落ちる。加えて、どのようにしてノーザンソウルのシーンが形成されていったのかというのは、音楽史最大の謎のひとつとされていたが、そのあたりも巧く説明されているのだ。劇中で伝説のクラブと誉高いウィガン・カジノも登場する。

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最大の見せ場となるのは、地元の大物DJレイ・ヘンダーソンの前座を務めることになり、客に迎合したキャッチーな曲をかける主人公ジョンに対し、ノーザンソウルの魅力を諭しシーンに導いた恩師であり親友のマットが、「客に媚びてないで、アンダーグラウンドなレア盤をかけろ」と憤るシーン。

 

初めて巡ってきたチャンスをつかむために、保守的な選曲でシーンのスターダムにのし上がろうとするポピュリストと、誰にも媚びることのない自己主張で勝負するという美学をあくまで貫こうとするファンダメンタリストの対立。そもそも誰も知らないレア盤をかけることにプライオリティが置かれていたノーザンソウルの本質と文脈に照らせば、ポピュリズムに迎合した主人公はもはや、ノーザンソウルの精神を失い、単なるレコードコレクターに成り下がってしまった。まるで、どっかの国の首相みたい。

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己の美学をどう貫くかということは、まさに誰にとっても難解な人生のアート的要素なわけだが、興味深いのは俺らを含めた旧世代の多くが、その美学を音楽に求めていたということだ。誰々の生き方はロックだったとか、彼女はいつもポップだよねとか、あいつの佇まいはなんだかブルージーだよなって表現自体が音楽的だったのだ。それは同じ時代を生きた同時代性だったり、共同幻想だったり、メディア媒体としての伝達手段にも起因するわけだけど、あきらかに音楽をアイデンティティとして、ファッションとして自分たちに投影させていた。

 

じゃあ今の世代はって考えると、Perfumeの歌詞に感化された、なんて話は聞いたことないし、EDM的な生き方…といった表現もパッとしない。音楽との関わり方はずっと刹那的で、短絡的だ。なんてったって、国民的大ヒットが「USA」だぜ?ノーザンソウルで取り上げられた黒人音楽は、人種差別によって鬱積した憤りを膨大なパワーに変えて、果てない情熱が注ぎ込まれたものだ。ジャズミュージシャン菊地成孔は「どうか音楽を聴き続けてください」、そう云ってラジオ『粋な夜電波』の最後の放送を終えた。かつての音楽には人を変える力があった。

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この先、はたして人は音楽を聴き続けるのだろうか。人生に寄り添った音楽なくして、人は生きていけるものなのだろうか。ふと、そんなことを考えさせられた。

 

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だれが「音楽」を殺すのか? (NT2X)

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