近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

『キングダム』で学ぶ戦略的チームビルディング

僕は企業や個人における戦略支援を職業領域としており、戦略立案にあたって重要なファクターになってくるのが、いかに“時代の空気を読むか”ということに尽きる。

 

今日の目次

 

時流と世界観

「トレンド」という云い方もできるが、僕がいうところの“時代の空気”については経営コンサルタントとして著名な故・船井幸雄もよく「時流適応」という言葉を使って、ビジネスの極意を「経営の原理原則を守り、時流適応していかなければならない」と語っている。

 

船井氏がいう「時流適応」とは、時代によって変化する「やり方」に適応させる必要があるということだが、もう少しマクロな視点に照らしてみれば、ある時間軸の中で「どうあるべきか」、「どんなスタンスでいるべきか」という「あり方」の問題に帰結する。

 

これこそがまさに僕がいうところの「世界観」であり、「どうあるべきか」を具現化したものがいわゆるビジョン(Vision)に相当するものだ。この記事でかなりミソになる伏線なので、どうか留意して読み進めてみてほしい。

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『キングダム』から学ぶ最強の組織戦略

さて、そうした時流=世相を映し出す「鏡」として機能するものに、映画やアニメ、ゲームといった娯楽作品が挙げられる。なぜかというと、娯楽作品というのは“共感”を媒介にしてエンタメ世界に没入してもらわないと商品として消費されないからだ。

 

そういう観点から娯楽作品を俯瞰して眺めることで、ある程度の“時代の空気”を読むことができるし、次の時代につながるキーワードが朧げに見えてくる。

 

で、ここからが本題。今一番、世相を映し出す鏡となっているものに、僕は漫画(&アニメ、映画)『キングダム』を挙げたいと思う。『キングダム』については6年前にも本ブログで取り上げたことがあるが、今回はこの『キングダム』を「組織戦略」という観点から取り扱ってみたい。

 

『キングダム』の黄金比的に美しい組織形態

老若男女を問わない社会現象を巻き起こしている『キングダム』。その人気の背景には百花繚乱のごとく現れる魅力的で、個性豊かなキャラクターの多さにあるのは云うまでもないことだと思う。僕自身も作中の桓騎という残虐非道な元・野盗でありながら、始皇帝直属の大将軍として秦の国難を幾度も救うことになるキャラクターが、お気に入りなのだ。その詳細については前述の記事にゆずる。

 

しかしこの漫画の特筆すべきところは、こうした魅力的なキャラクターそれぞれの、濃ゆいばかりに際立った特性を削がずして、遺憾なく発揮できるように設計された秦国の政治体制にあることを最近になって気づかされた。それは戦略学的にも、経営学的にも実に理に適った、美しいまでの組織形態となっているのだ。

 

「戦略の階層」からみた『キングダム』

地政学者の奥山真司氏が提唱する「戦略の階層*1というフレームがある。もともとは国家における意思決定プロセスを、アメリカの著名な戦略家エドワード・ルトワックが整理した分類に、レーガン政権で戦略顧問としても活躍した国際政治学者コリン・グレイが唱えるコンセプトを奥山氏が独自に統合したものだ。

 

この「戦略の階層」に当てはめて『キングダム』の作中の人物たちを整理してみると、僕が云わんとしていることが理解できると思う。

 

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つまりはこうだ。国の方針やあるべき姿、ビジョンなどの“世界観”を指し示す役割を担うのが、後の始皇帝である嬴政だ。そして為政者である嬴政のビジョンを具現化するために“政策”に落とし込むのが左丞相である昌文君。そして国家の資源を戦争という手段によって最大限に活用すべく、超長期的視点から“大戦略”を立案し運用している昌平君。

 

大戦略的な視点も持ち合わせながら、長期的な視野でいくつもの作戦を束ねる“戦略”家の王翦。稀代の戦術家でありながら戦略家の片鱗も見せはじめた桓騎。同じく戦略家としての資質を開花させながら、いくつもの戦術を縦横無尽に使いこなす“作戦”家の蒙恬。戦争においてもっとも重要な資源である技術を使いこなす、“戦術”家の王賁。そして優秀な兵士であったり兵器によって戦争を支える、“技術”者としての主人公・信や究極の職業軍人である蒙武らが位置するワケだ。

 

『キングダム』と『ワンピース』の“時代の空気”の違い

こういった多彩な才能によって作中の秦国が支えられているわけだが、『キングダム』が他の冒険譚や群像劇とは違う異彩を放っているのは、まったく異なる価値観や世界観、ビジョンをもった強烈なキャラクターたちを、国家運営における合理性によってのみ合目的的にチームとして編成し、利用していることだ。

 

これがどういうことかというと…

 

近年の大ヒット・コンテンツというと代表的なものに『ワンピース』が挙げられるが、「夢はでっかく」「浪漫」「仲間が大事」といったキーワードが示すように、「海賊王になる」という御旗のもとに、それに共感し、同じ価値観を持つ者同士の共鳴を求めて主人公が仲間を探し、コレクトしていくという物語構造になっている。

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これを現代の経営組織として捉えてみると、まさに社会的ミッションやビジョンを指し示し、それに共感し、同じ目的意識をもった社員一丸でともに成長していこう、という前時代的な“理念型経営”に相当するものだ。

 

それに対して『キングダム』では、まったくの異質な存在である辺境の民族・山の民の楊端和や、一国の大将軍という枠を超え自らの国家をつくろうと画策している王翦さえも、うまく自国のリソースとして活用している。現に趙国侵攻の際、数万人規模の戦争捕虜を独断で虐殺してしまった桓騎に対して、大王・嬴政は軍律違反を咎めるも「今はまだ、あの男の力が必要だ」として不問に付すのである。

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これはつまり多様性を受け入れて、異なる価値観、目的や文化を尊重したうえで情報を共有し、最小限のコミュニケーションで必要な職能やリソースを必要な分だけ提供しあう、創発的な自律分散型の“ダイバーシティ経営”に対応しており、まさに現代的な組織形態ということがいえる。

 

まとめ

こうした風潮のなかで僕自身、大事にしている考えがある。某所で目にしたものなのだがとてもいい視点なので、ここでシェアしたいと思う。

 

・人の数だけ「視点」がある

・人の数だけ「正義」がある

・人の数だけ「誇り」がある

・人それぞれ「知見」がある

・人それぞれ「環境」が違う

・人それぞれ「気力」が違う

 

今いわゆる中年にさしかかり、前時代的な価値観にどっぷりだった僕らのような世代には、どうしてもZ世代のような人たちの理解に窮することがある。そうした前世代の人間にとって価値観の変容は如何ともし難く、もはやどうしようもない問題でもあるのだが、そもそも理解なんてものは概ね願望にもとづくものだ。

 

そうした思考の差異自体が、ここでいうところの“時代の空気”を生み出しているとも考えられる。その流れに乗らずともただ耳を澄まし、時代の声なき声に耳を傾ける姿勢は忘れたくない。鴨長明も『方丈記』で次のように記している。

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」とな。

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NewsPicksは情報コンテンツの「ブロックチェーン」だ!

久々の記事更新。

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人間ってのは特定の問題に対峙したりとか満たされた生活を過ごしていると、不特定の他者に向けた言葉を失くしてしまうものらしい。なにかを渇望したりとか、希求しているときにこそ他者を見つめる眼差しが生成され、言葉として表出するものなんだと思う。

 

以前に…とはいっても、もう5年前になるのか。『日常の<入力>と<出力>』と題してアウトプットするには一定のインプットが必要で、それには一定の時間軸がいるよねって記事を書いたんだけど。前回書いた記事からちょうど1年という月日が経過し、その間に集積された新たな視点と経験がそれなりにストックされたので。

 

前口上はこのへんにして1週間に1本程度、またツラツラと書いていきます。

 

今日の目次

 

何を信じて、どこから情報を得るべきか

インターネット普及による情報アクセスのパラダイム・シフトで、僕たちはとんでもない情報量にさらされるようになった。それこそありとあらゆる玉石混交の情報の中から、何が現実で何が虚構かを見きわめられるだけの「情報リテラシー」を今、僕たちは自己責任のもとで要請されているのだ。

 

そうした情報社会で生存に必要な、または知的営為に必要な情報ソースをどこから得るのかが大きな問題になってくる。人間を取り巻く環境が高度に発達したがために、情報の授受に関わる「時差」が解消し、即時的な情報伝達が一般化した*1。もはや、旧態依然とした既存のマスメディアは力を失ってしまっているのだ。

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僕自身もいわゆる情報産業に携わる身なので、日常的な情報収集は欠かせない。できるだけ速く、できるだけ確かで、できるだけ精度の高い情報を慢性的に必要としているのだが、マスメディアの制度化された流通では到達までに時間がかかるし、特定の個人が発する情報では主義主張や信条によって偏向した情報がもたらされてしまう。要はちょうどいい塩梅の、情報コンテナが長く見当たらなったのだ。

 

そうしたなかで僕が目をつけたのが、NewsPicks(ニューズピックス)というニュースサイトだった。このNewsPicksを課金ユーザーとして使っているうちに、NewsPicksの「プラットフォーム」としての秘められた大きな可能性に気づいてしまった。そこで、この記事ではNewsPicksという配信プラットフォームの特異性と、進化の可能性について考察してみた。

 

キュレーション・メディアとしてのNewsPicks

そもそも、なぜ数あるニュースメディアの中でNewsPicksだったのかというと。実はNewsPicksの海外の良記事を厳選だとか、独自コンテンツであるとかにはあまり興味がなかった。

 

それでもなお1,700円のサブスクに課金しているのは、1ヵ月あたり3,189円もするウォール・ストリート・ジャーナルの有料記事がすべて読めるからだ。公式のほぼ半額料金でWSJの質の高い有益な情報が享受できて、さらに国内のビジネストレンドも一望できる。まさに一挙両得だと思った。

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そもそもNewsPicksは、どんなメディアなのだろうか。NewsPicks自身は下記のように定義している。*2

ソーシャル経済メディア

国内外の経済ニュースを厳選。専門家のコメントや世論のチェック、 コメントのシェアまで、これ一つでワンストップに完結できる、 ビジネスパーソンのためのソーシャル経済メディアです。

 

さらにネット検索を漂っていると、しばしば「NewsPicksはキュレーションメディアだ」という言説に行き当たる。では、この「キュレーション」というのはどういう行為を指すのだろうか。

 

「キュレーション」なる言葉を一般に普及させたのが、ジャーナリストの佐々木俊尚が2011年に出版した『キュレーションの時代』という書籍だ。この書籍から引用しながら、そもそものキュレーションという知的営為について振り返ってみよう。

 

前提として「私たちは情報そのものの真贋をみきわめることはほとんど不可能だけれども、その情報を流している人の信頼度はある程度はおしはかることができるようになってきている」としたうえで、

 

キュレーターというのは、日本では博物館や美術館の「学芸員」の意味で使われています。世界中にあるさまざまな芸術作品の情報を収集し、それらを借りてくるなどして集め、それらに一貫した何らかの意味を与えて、企画展としてなり立たせる仕事。

 

「『作品を選び、それらを何らかの方法で他者に見せる場を生み出す行為』を通じて、アートをめぐる新たな意味や解釈、『物語』を作り出す語り手であると言えるでしょう」(美術手帖より)

 

これは情報のノイズの海からあるコンテキストに沿って情報を拾い上げ、クチコミのようにしてソーシャルメディア上で流通させるような行いと、非常に通底している。(→P.210)

情報のノイズの海の中から、特定のコンテキストを付与することによって新たな情報を生み出すという存在。それがキュレーター。(P.241)

 

 

とキュレーターを定義し、「情報爆発が進み、膨大な情報が私たちのまわりをアンビエントに取り囲むようになってきている中で、情報そのものと同じぐらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まってきている(→P.242)」としている。

 

NewsPicksの独自性を際立たせる「Pick」とは

とあるサイト*3ではNewsPicksのキュレーション機能による独自性を、以下のように紹介している。

NewsPicksは、ただニュースを見るだけのアプリではなく、ユーザー自身が自ら参加して発信する事ができます。 

 

気になるニュースがあれば「+Pick(ピック)」ボタンをタップすると、対象ニュースのコメント欄に自分の意見を投稿する事ができます。さらには、コメントにSNSのような「イイネ」をつけることも出来るので、鋭い意見は他のユーザーから注目されるようになっています。  

 

この「見るだけではなく参加も出来る」というポイントが、NewsPicksの最大の特徴です。

 

もっとも僕の場合は気になった記事を精読している時間がないので、とりあえず「あとで読む」的に記事を保存するためコメントを入れずにピックしている。おそらく、そういう使い方している人が大多数なのではないだろうか。

 

さらにNewsPicksは2015年にこのキュレーション機能を強化すべく、“プロピッカー”制度を導入。プロピッカーの選定基準は、編集部が設定した領域でエッジの効いたコメントをしたり、企画を作ったりできる人。プロピッカーは記事にコメントをしたり、独自の連載企画に協力したりするという。敷衍すると、プロピッカーとはNewsPicks公認のご意見番ということになる。

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ここで、あるアイディアが僕の脳裏をよぎった。

この仕組みって「ブロックチェーン」じゃないか、と…。

 

ブロックチェーンとは

ブロックチェーンとは、ビットコインに代表される暗号資産(仮想通貨)の基幹技術のことで、電子的な情報を記録する注目の技術だ。その仕組みをビットコインに限定して説明すると、取引記録をネットワーク参加者全員で公開されたデジタル台帳に記入し管理するというもの。

 

10分間に世界中で起きた取引データを「ブロック」という1つのまとまりに書き込む。AさんからBさんに送金、CさんからDさんに送金、EさんからFさんに…という取引が記録としてすべて残るのだ。

 

「社会の幸福の極大化を見込むには、社会を構成するメンバーの幸福の総量を計算し、その総量が最大になるような仕組みが必要」と考えた哲学者・ジェレミ・ベンサムが構想した全展望監視システムで、後にフーコー*4が権力一般を説明するモデルとして援用した「パノプティコン」という概念があるが、まさにブロックチェーンの発想はこれに通底する。

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ビットコインが革新的だったのは、取引記録によって「信用のベースを容易に創造できる」点にある。かつて通貨の世界で信用のベースを生み出し、世の中に革命を起こしたのは15世紀後半から広まった複式簿記だ。複式簿記によって特定の人や組織が本当に利益の源泉をもっているかが判別できるようになり、その残高にもとづいて「信用」が生まれたのだ。ただしこの制度をうまく運用するために、国もしくは会計士による監査が必要だった。

 

それに対してビットコインは制度上の管理者は存在せず、自主的に集まったコンピュータが運営しているにも関わらず信頼でき、そして記録が改ざんできない。この技術の根底には「仕組みそのものでコミュニティの秩序を維持しよう」 という考え方があり、「ブロックチェーンはもう終わった」といった声もちらほら聞こえるが、一方では「まだ始まってすらいない」 という意見もある。

 

しかし、それはビットコインという文脈の中での話であって、この技術を応用することによっていたるところで新たな変革が起きる可能性がある。その最たるものが知的財産で、いま話題の「NFT(Non-Fungible Token)」はそれを解決するためにブロックチェーンが応用された技術だ。

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あらゆるデジタル・データは容易に複製ができてしまうため、連携や共有をするうちにそのデータの出所・原本性・正確性・履歴などが曖昧になっていくという問題を孕んでいる。これを取引記録という観点から信用を担保しようというのがNFTの基本思想になっている。ベンヤミン*5も、真っ青!

 

NewsPicksとブロックチェーンの共通性

で、このブロックチェーンとNewsPicksが、どのように関連しているかということになってくる。ネット上で飛び交うニュースもまた、その真贋がみきわめづらい。フェイクニュースに飛びついた結果、「炎上」ということもままある。

 

しかしNewsPicksというプラットフォームだと、そもそもプロピッカーがピック(コメント)した記事がアルゴリズムによって目につきやすくなる。プロピッカーがピックすると多くの人が目にすることになり、不特定多数のさらなるピックを生み出す。すると、また別のプロピッカーがそれをピックし、波及効果が乗数的に加速する。

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要は誰がピックしたのか、そしてどれくらいピックされているのかと同時に、情報の連鎖によってその情報の質と「信用」が担保されているわけだ。

 

NewsPicksの問題点

もちろん、NewsPicksにも問題はある。そもそもプロピッカーは運営サイドが恣意的に選定しているので中央集権的だし、その選定基準が倫理的に正しいかは疑わしい。課金ユーザーの解釈によっては、「プロピッカーではない、ただのピッカーである<私>はいったい何なのだ」という不平不満や妬み嫉みを生まない保証はどこにもない。

 

しかし、そうしたブロックチェーンにも通ずる情報の設計思想ゆえに、「信頼できない者同士が集まって共同作業を行い、それでも裏切り者に陥れられないためにはどうしたらいいか?」という「ビザンチン将軍問題」と呼ばれる、かつてのコンピュータ・サイエンス上の難題もNewsPicksは見事な解を出している。ある種の不正行為や迷惑行為に挑戦するよりも、情報の連鎖に協力してプラットフォーム上での「信用」を得るほうがどう考えても得だからだ。

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まとめ

以上のことから個人的な見解として、NewsPicksには新たな情報アーキテクチャの萌芽がみてとれる。そうした社会学的、生態学的観点からプラットフォームとしての進化を促すのであれば、運営サイド(つまり、編集部のことだが)が自らの「コントロール」を手放し、より「民主的」な情報発信の仕組みを制度化していくことになるだろう。

 

NewsPicksの、さらなる進化を期待したい。

 

 

 

※後日、この記事を見た人にTwitterのRTと何が違うのかと質問を受けたので追記。そもそもの設計思想がまったく違う。Twitterは結びつける対象が「アカウント(=人)」であって情報ではない。対してNewsPicksはマッチングの対象が「情報コンテンツ」そのものであって、人はあくまで二次的要素に過ぎない。さらにTwitterが情報の連鎖によって担保してるものは「話題」であって、「信用」ではない。

*1:拙記事『象形文字化する現代の言語コミュニケーション』参照のこと

*2:https://newspicks.com/about/

*3:テルル「これを見れば社会の今が分かる「NewsPicks」のススメ」

*4:ミシェル・フーコー・・・(1926年10月15日 - 1984年6月25日)は、フランスの哲学者、思想史家、作家、政治活動家、文芸評論家。『監獄の誕生』を書いた

*5:ヴァルター・ベンヤミン・・・(1892年7月15日 - 1940年9月26日)は、ドイツの文芸批評家、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家。『複製技術時代の芸術』を書いた

俺のブログ論! 〜ブログの未来は「信用創造」にある〜

ブログの時代は終わった…

 

ネットの至るところで、こう囁かれている。たしかにネットに対する人々の態度は変わってきている。コミュニケーションのあり方も変化している。わかりやすいところで云うと、検索行動もGoogleからYouTubeへと移っているし、若い世代どころか中高年でさえ「長い文章」を嫌うようになった。しかし、本当にブログというメディアの意義は終わりつつあるのだろうか。

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そもそも「ブログ」というメディアの生誕から考えてみると、もともとはネット上に誰でも公開できる「日記」として爆発的な普及を遂げた。独創的なコンテンツを発信することによって、書籍の出版にまで漕ぎ着ける「アルファブロガー」という人たちをも生んだ。そこから集客手段としてのブログが隆盛をきわめ、アフィリエイトなる手法でアクセスを稼ぎに変える人たちが出てきた。

 

ありとあらゆる目的と目論見をもった人が大挙して参入したことによって、死屍累々の無価値なコンテンツがネット上に散逸することになる。そうした玉石混交のコンテンツの利便性を高めるため、GoogleはExpertise(専門性があること)、Authoritativeness (権威があること)、TrustWorthiness (信頼できること)の3軸によって、価値あるコンテンツを拾い上げるシステムに転換した。ここから俄に、検索が面白くなくなったというような風評を聞くようになる。

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そして今年、5G回線の普及によってコンテンツ閲覧の制約が解き放たれることになる。静的なコンテンツの時代からリッチコンテンツの時代へと移行しようとしている。言語コミュニケーションはテキストから動画へと大きく舵を切ろうとしている。しかし、本当に従来の静的なテキストコンテンツは価値を失うのだろうか。僕はそうは思わない。

 

この時代の転換点にあって、情報発信の場として大きくクローズアップされるのが「オンラインサロン」だ。どのような形態で運営されているのかはサロンの方針によるものの、ここで交わされるコンテンツは主としてテキスト情報であるはずだ。実際に高い評価を受けるサロンは、高頻度にアップされる運営者による投稿なのだ。とするならば、テキスト情報が価値を失ったのではなしに、「ブロガー」という誰ともわからない情報発信者の信頼性、社会的地位が地に墜ちたのだ。

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つまり、読まれなくなったのは「長文だから」とか「ブログだから」といった理由ではない。要はその著者への「信用」が問われているのだ。そういう意味では最近、よく聞くようになった「信頼残高」や「貯信時代」といったキーワードが符合してくる。マーケティングの世界では3つのNOT、「読まない」、「信じない」、「行動しない」ということが囁かれる。この中でも現代はとくに「信じない」ということが、大きな壁として立ちはだかっていることを示している。

 

しかし考えてみてほしい。ブログに書いてきたこと、ブログをとおして考えてきたことそのものが、あなたの「信用」なのだ。つまり、ブログというメディアの位置づけが変わっただけの話であって、これからのブログの役割は、あなたの信用を担保する「データベース」としての存在にある。ブログの何が終わったかというと、それは「集客装置」「換金装置」としての役割が終わったということに過ぎない。

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実際に僕もこのブログを、自分が考えてきたことを保存しておくための「外部記憶装置」としてしか活用していない。そんな僕の思考の断片に、何かしら感じるものがある読者だけがメルマガなどに登録してくれれば、このメディアの機能は果たされているわけだ。

 

そして僕という実在の人物に興味をもってくれた現実の人たちが、僕の思考や趣向性をいつでも参照できるデバイスとして活用してくれれば、それでいいのだ。逆にいうと、ちょっとやそっとの興味本位では困ってしまう。そのようなカタチで繋がった人というのは、結局は希薄な付き合いのままで終わることが殆どだし、そういう人たちと一々やり取りをしているほど暇を持て余しているわけでもない。

 

だからこそ、より強烈に僕という人間に興味を持ってくれる人としか、僕は付き合いたくないのだ。なので、このブログを読むにあたって一定の覚悟をもってしか読めないように、時代のトレンドに逆行したような書き方をしている。つまり、そこらへんの余白だらけで中身もスカスカのコンテンツと同一視しないように、緻密な長文で綴っているのだ。

 

読みにくいって?当たり前です。巷で云うところのWebライティングで書いてませんから。このメディアに向き合ってもらうには、いわゆるブログとの向き合い方ではなく、あえて書籍や書物との向き合い方を強いているのだ。本と対峙するような態度で、ここに綴られたものをお読みいただくと、おそらくお値段以上の気づきが得られるようにコンテンツを綴っている。

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さらに自分という人間をより理解してもらうために、特定のジャンルに特化するつもりもないのだ。人間的魅力というのはつまるところ、いかに多くの引き出しを持っているかに集約される。特定のジャンルに無類の専門性を発揮する人もまた一つの魅力ではあるが、しかしその人を説明できるものが、たった一つの分野であるというのは寂しい話でもある。だって、いつもおんなじこと蕩々と語る人って、リアルにつまんないでしょ?

 

人を惹きつける文章・考え方というのは、特定のジャンルに拘らない雑多な事象を一繋ぎにできる「編集力」であると思うのだ。そういう意味ではGoogle検索が掲げる「Expertise(専門性があること)」に逆行することになるが、今やブログの存在意義は「集客」が目的ではないのだ。

 

つまり、従来の「ネット(ブログ)→リアル」という流れから「リアル→ネット(ブログ)」や「SNS(YouTube含む)→ブログ」という風に役割が変わりつつある。つまり、ネット上にあなたの実存を示すアイデンティティ・ツールになるということだ。ここをきちんと理解しておかないと、これからのネットビジネスであったり言語コミュニケーションの流れについていけなくなる。結論を述べると…

 

これからのブログは、

「信用創造」装置である!!

『東京ラブストーリー』から考える、東京の都市論

Amazonプライムビデオで、かつての『東京ラブストーリー』を観た。1991年にフジテレビ系列の「月9」枠で放送されていた名作のほまれ高いテレビドラマなのだが、僕は当時リアルタイムでは観ていなかった。聞くところによるとオリンピックイヤーである今年、この名作ドラマがリメイクされるようなのだ。

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1991年当時。時代は折しもまだバブル景気の熱が冷めやらぬなか、「東京」には夢と希望が溢れていた。それを示すように劇中には建設途中のレインボーブリッジだったりとか、開発前夜の台場の原風景などがそこかしこに映し出されている。急激に開発が進み、誰もが東京郊外の新興住宅地でのおしゃれな暮らしを夢見るような、まだ東京に大きな神話があった時代だ。

 

ところで、およそ30年という時を経て、初めてこのドラマを観てみると、このドラマが一体何を描こうとしているのかよく解らなかった。物語には必ず作者の何かしらのメッセージが込められているものだが、僕にはこのドラマが何を訴えようとしているのかが読み取れなかったのだ。

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内容としては、新たな生活を夢見て上京した青年が、郷里での原体験と淡い恋心に揺れながら、都会での出会いと別れ、そして再会を繰り返す。天真爛漫に生きる小悪魔的で無邪気な女性と、いつまでも過去の幻影を引きずり、現実に対して煮えきらない男性。映し出されているものは、ただそれだけなのだ。ただ妙に心に刺さるものがあり、都会で生きるとはそういうものだと納得させられるものがある。

 

当時のいわゆるトレンディードラマ自体が確たるメッセージもなく、ライフスタイルとしての都市生活とそこに住まう人たちの葛藤や心の動きを描き出している。そう云ってしまえばそれまでなのだが、これはまだ「東京」という都会に大きな魔力が宿っていた時代だからこそ、成立する物語なのだと考えさせられてしまった。

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そのような視点で見てみると、主人公である永尾完治の郷里である愛媛県・松山が、ドラマの中ではあくまで東京のコロニアル(植民地)であるかのような描かれ方をしている。かつて心ときめく青春時代を過ごした地でありながら、登場人物たちは必要以上に郷里を美化することをしない。それどころか、まったくといっていいほどに地元への愛着がないのだ。

 

ところが東京という都市の魅力をドラマが押し出しているかというと、どうもそういうわけでもない。ロケ地になっているのは都心の中の、なんでもない公園だったり、繁華街、交差点、ひっそりとした路地だったりする。「東京ラブストーリー」といいながらも、物語の設定として「東京」である必要がない内容なのだ。

 

対照的に東京ラブストーリー以降のドラマや映画は、都市を舞台として捉え、その演出を志向する都市のドラマトゥルギーによって、金太郎飴なみに紋切り型の、観光地的なコンテンツが大量生産されることになる。つまり「東京」あっての物語が、資本によって売り出されるライフスタイルとセットになって消費されていくのだ。

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そしてこれ以降の東京は、資本の戦略によって都市計画が整備され、東京の景観は均質化し、三浦展風に云うと急速に「ファスト風土」化していく。グループ企業の不動産会社で郊外を開発し、ひとびとに住宅を買わせ、グループ企業の私鉄で通勤させ、グループ企業のデパートで買い物をさせる。そんなライフスタイルのトータルデザインによって、ターミナルは広告都市化し、東京自体がパッケージ化されていくのだ。

 

しかし「東京ラブストーリー」が描く東京は、あくまで舞台装置でしかなく、東京である必然性がまったくない。さらには「東京」という虚構の神話や共同幻想が崩れた今、東京は魔力を失い、逆にかつてのコロニアルであった地方都市や衛星都市で生活し続ける、居続けることのほうがよっぽどリアルであるからだ。無理に背伸びして、都会に住むことのメリットが急速に希薄化し、むしろ東京で生活していた人たちが地方都市へと流出しているのが実態といえるのだ。

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その証左といえるのが在京テレビ局の弱体化、YouTubeの台頭にあるのではないだろうか。今や人気ユーチューバーといえる人たちも、東京に居ることの必然性がなくなっており、地方都市から発信し続けるユーチューバーが目立つようになった。むしろ最近は、東京に居続けることがリスクであるようにさえ思える事態が多く見受けられる。それよりもフレキシブルに居場所を変え、時間や場所を問わない生活が現代的になってきている。

 

そんな脱中心化している今の日本にあって、「東京」という場所にどのようなコンテクストが意味付けされていくだろうか。つまり、東京ラブストーリーが「東京」ラブストーリーである意味が、かぎりなく薄れているということだ。いまや文化の集積地としての文脈は、ほとんど意味をなさない。それでもなお都会の喧騒のなかで生きることの必然性や意味付けを、東京自身が志向していかなくてはならない。東京であることの必要性を、自らに問い直さなくてはならないのだ。

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僕はなにも、この文章によって東京を糾弾しようとかディスろうとしているわけではない。僕自身も社会人経験のいくらかを東京で費やし、若かりし頃の思い出を育んだ地でもある。気の置けない仲間たちも今なお居る。だからこそ、東京には東京の「意味」というものを生成してもらいたいと思っているのだ。可能であれば、ふたたび人々を東京へと誘うだけの引力、求心力を宿してほしいとさえ思っている。

 

それには、そこに住まう人たちによる自助努力が求められる。魅力を創造するだけの、イマジネーションが求められる。そのような自助努力の円環によって、日本という国の復権、国際社会における優位性というものが再び生まれてくるのではないだろうか。

 

参考文献:

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

  • 作者:東 浩紀,北田 暁大
  • 出版社/メーカー: NHK出版
  • 発売日: 2007/01/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

新・都市論TOKYO (集英社新書 426B)

 
ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

  • 作者:三浦 展
  • 出版社/メーカー: 洋泉社
  • 発売日: 2004/09
  • メディア: 新書
 

愛と欲望のマーケティング

「そこで、あんたはなにを見つけたんだ」

「虐殺には、文法があるということだ」

 

ぼくにはその意味がわからなかった。

ジョン・ポ ールもそれを察して説明を続け、

「どの国の、どんな政治状況の、どんな構造の言語であれ、虐殺には共通する深層文法があるということが、そのデ ータから浮かび上がってきたんだよ。虐殺が起こる少し前から、新聞の記事に、ラジオやテレビの放送に、出版される小説に、そのパタ ーンはちらつきはじめる。言語の違いによらない深層の文法だから、そのことばを享受するきみたち自身にはそれが見えない。言語学者でないかぎりは」

 伊藤計劃『虐殺器官〔新版〕』より

 

 これは伊藤計劃のSF大作『虐殺器官』の作中で、後進諸国で虐殺を扇動していると見られるアメリカ人の暗殺を政府から命じられた主人公クラヴィスと対面した、件(くだん)のアメリカ人・言語学者ジョン・ポールとのやり取りの一部だ。

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“虐殺の文法”とは「人間には虐殺を司る生得的な器官が存在し、その器官を活性化させる文法が存在する」という、この作品全体をつらぬく鮮やかなギミックのひとつなのだが、言葉ひとつで人を「暗示」にかけることが可能であれば、たくみに心理状態をコントロールすることで「洗脳」すらも可能にしてしてしまう心理学の知見から考えても、あながちその存在を否定することはできないだろう。

 

実は俺自身の昨今の関心もまた、「言葉」に大きく比重が傾いている。人は言葉ひとつで大きく印象を変えることもあれば、言葉ひとつで心揺さぶられることもある。また絶望もする。人はどのような言葉を、人生の中で生み出していけばいいのだろうか。

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言葉ということに着目してみるとビジネスにおいても、「言葉」には市場をつくる力がある。たとえば「終活」や「美魔女」、「サードウェーブコーヒー」や「ファストファッション」といった言葉によって、新たな市場が創造されているのだ。

 

だとするならば、ビジネスにおいても消費者心理を掻き立てるような、「マーケティングの文法」なるものが存在してもおかしくはないと考えるのは早計だろうか。俺には社会に流通する言葉に、かならず人々の欲望の裏付けが隠されているように思えるのだ。そこで思い出されるのが小説『羊たちの沈黙』で主人公クラリスと収監された囚人、ハンニバル・レクターとのあいだで交わされる次の一節だ。

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「われわれの欲求はどのようにして生まれるんだい、クラリス?われわれは欲求の対象になるものを意識的に探し求めるのかね?よく考えてから答えたまえ」

「ちがいますね。わたしたちはただ――」

「まさしくちがう。そのとおりだ。われわれは日頃目にするものを欲求する。それがはじまりなのさ」

 

そう…我々は日頃、目にするものを欲求する。つまり、人は自分の欲望を言語化することなく無自覚に生きているのだ。それが突如、言語化しえない感覚を満たすものが目の前に現れたとき、欲望が発動する。あたかも特定の「言葉」を因子とするかのように。つまり、人々の隠された欲望(インサイト)にダイブし、先回りすることができれば、「マーケティングの文法」を発動させることができるのではないか。

 

人々の購買行動が「言葉」と五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を媒介にして繰り広げられていることを鑑みると、五感を発動させる「体験」のなかにヒントがあるのではないか。そう考えると「消費」という人間の経済活動の構造自体は、小説や演劇、映画などともそう違いはないのではないだろうか。それを示すように、1,500円の書籍の購入を渋る人でも、映画館でわずか数ページの他愛もない内容のパンフレットを2,000円で購入することに躊躇しないことが多いだろう。

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ここで思い出されるのが、かつて映画監督の押井守が語っていた「映画の構造」についての発言だ。曰く、映画を構成する要素は「世界観・ストーリー・キャラクター」の3つだけなのだ、と。なるほど、この言説をもとに俺自身のビジネスを整理してみると、たしかにこの3つの要素にもとづいて事業を構成していることがわかる。

 

たとえば、情報発信を例にとると、

世界観・・・YouTube

ストーリー・・・メールマガジン

キャラクター・・・SNS

という3軸によって役割を分けて、イメージ(ブランド)が形づくられていることがわかる。ここに、消費者の欲望を表象した「言葉」を代入することができれば、より強固な基盤が形づくられることになる。

 

だからといって、これらの「文法」だけでビジネスが完結するワケではない。21世紀のビジネスにはもっと決定的な因子が必要とされているように思う。それは何かと問われれば、俺は「愛」だと考えている。旧来型の20世紀のマーケティングは顧客を「マス」でとらえ、不特定多数に網をかけていたのだ。だからこそ、SNSなどの媒体でも情報を拡散することに主眼が置かれていた。

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これからのマーケティング手法について重要な示唆を、次世代型のビジネスリーダーとして注目を集めている西野亮廣が、自著『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』で次のように語っている。「1万人に向けて網をかけるよりも、1対1を1万回したほうが効率がいい」、と。要は手間を惜しむことなく、1人ひとりを「ノード(結び目、結節点)」として捉え、個人個人を起点にしてビジネスを組み立てるということだ。

 

もはや大量生産、大量消費の時代は終わった。大切なことは、いかに「個」客の欲望を感じ取り、愛をもって向き合うかがビジネスにも求められてくる。

 

十把一絡げに括ろうとするマーケティング発想をやめて、

今すぐ愛と欲望のマーケティングをしようじゃないか。

 

<参考文献> 

欲望のマーケティング (ディスカヴァー携書)

欲望のマーケティング (ディスカヴァー携書)

  • 作者:山本 由樹
  • 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
  • 発売日: 2012/10/13
  • メディア: 新書
 
欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング (集英社新書)

欲望する「ことば」 「社会記号」とマーケティング (集英社新書)

 
新・魔法のコンパス (角川文庫)

新・魔法のコンパス (角川文庫)

  • 作者:西野 亮廣
  • 出版社/メーカー: KADOKAWA
  • 発売日: 2019/05/24
  • メディア: 文庫
 

2020年、「メタデータ」と「編集」の時代

2020年が幕を開けた。職業柄、経年を振り返ることで今年の行く末やシナリオを“読む”ということを必ず年始に行っていて、そのときの大きなヒントになるのが、日経MJが発表している「ヒット商品番付」だ。どのような商品・サービスが売れ、どのようなトピックに人々は消費をしたのかを見ることで、社会が抱える欲望や病理というものが見えてくるのだ。

 

ちなみに2019年末に発表されたものが以下の画像になる。

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ここから云えることは、「ラグビーW杯」「令和」「タピオカ」「天気の子」など社会現象となった消費動向がダイレクトに、そのまま反映されているということ。つまり、いわゆる「自分らしさ」であったりとか「アイデンティティ」が映し出された商品・サービスではなく、消費もポピュリズムに世の中が傾倒している。

 

また、それらの事象に輪をかけて「キャッシュレス」だったり「ウーバーイーツ」といった、お手軽サービスが浸透したことによって、自らの狭い生活圏のなかで完結するようなライフスタイルが浸透していることが窺える。その証左として、「ニンテンドースイッチライト」や「ドラクエウォーク」といったゲーム関連コンテンツのランクインからも理解ができる。試しに10年前である2010年の番付と比較してみると、昨今の特異性が見えてくる。

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これらはゼロ年代に重視されていた、いわゆる「ゆとり教育」であったり「オンリーワン教育」の反動として、またはグローバリズムの果ての多極型システム、反知性主義的なポピュリズムに陥っている結果としての消費動向のように思えるのだ。1980年代のバブル景気を背景にアイデンティティを喪失した世代を社会学上では「ロスジェネ世代」と呼んでいるが、今はまさに新たな「ロスジェネ」の再来、といえなくもない契機にさしかかっているのではないだろうか。

 

それではこの先、どのような時代が待っているというのだろうか。今一度、歴史を振り返って見たいと思う。近代経済の黎明は、1760年代にイギリスで起こった蒸気機関の発明に端を発する「産業革命」だといわれている。これによって人類は飛躍的に移動距離を広げ、より早く、より遠くへと地理的な移動を可能にするようになった。

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その後、19世紀後半にアメリカで重工業が発達したことによって大量生産が可能になった。これが第二次産業革命だ。より安く、より大量に製品が作られることにより、今度は物質的な制約を解き放った。そして、そのまま20世紀半ばにはインターネットによって、人類は仮想上の空間に新たな領土を獲得したのだ。そして今、21世紀はまさに「第四次産業革命」の時代だといわれている。

 

この第四次産業革命は、ロボット工学、人工知能 (AI) 、ブロックチェーン、ナノテクノロジー、量子コンピュータ、生物工学、IoTによるスマートライフ 、自動運転車などの多岐に渡る分野においての新興の技術革新が期待されている。そして特に「自己フィードバックで改良、高度化した技術や知能」、つまりAIが「人類に代わって文明の進歩の主役」になる時点のことをシンギュラリティと呼び、それが2045年前後になることが予測されている。

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つまりは人類の経済的、生産的な営みの大部分をAIが代替してしまう社会の到来が予見されている。そうすると、いわゆる「資本家」ではない大多数の人々が経済活動に参加するためには、AIや機械に代替することができない分野で、独自の地歩を固めておかないといけないのだ。そうしないと、「エンジニア」や「クリエイター」という職種以外が存在しない世の中が来てしまうことになる。そんな契機にさしかかっている今、「ロスジェネ」世代のように自分探しをすることで打ちひしがれ、黄昏れている暇はないのだ。

 

それではAIや機械では代替できない分野とはなにかというと、それは新たな「知識」を生み出すということだ。今現在の社会は人類が営々と積み重ねてきた知識の集積である。次第に人類を凌駕するであろうAIやロボットも、そうした人類の知識が生み出したものだ。そうすると既知の事象や枠組みの中から、新たな方向を指し示す未知の知識をつくり出すこと。これこそが人類にしかできない貴重な営為ではないか。

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だからこそ21世紀は技術革新とともに「学び」の時代であるということが云えるのだと思う。とくに20世紀までのアカデミズムというのは閉じられた世界だった。いわゆるリベラルアーツといわれる分野や、人類の教養や娯楽のために生み出された様々な知識には鉱脈が眠っている。ビジネスや投資といった実利的な経済活動がすべて機械に取って代わられても、新たな知識を生み出し、人間の知的好奇心を満たしてくれるコンテンツをつくり出すことは機械にはできない。

 

だからこそ、既存の「知」と「知」を結び合わせ、新たな「知」を生み出すことが求められてくる。つまり、この記事で云いたいことの核心は、「編集」する能力がこれから先、ますます求められてくるということだ。人間として、経済人として生活している我々は知ってか知らずか、日々、知識を編集しながら生きている。これだけ知識さえも成熟した現代において、「クリエイト」することは難しくても「編集」して新たなコンテンツをつくり出すことはできる。

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大切なことは、結び付けられた知識と知識の「メタデータ」を丹念に読み解き、そして正しく紐付けるということだ。なぜ、その情報なのか。なぜ、その情報に紐付けられるのか。そういったストーリーはすべてメタデータのなかに隠されている。つまりは「編集する能力」とともに「メタデータを読み取る力」がこれから先の困難な時代に必要とされるということだ。

 

大事なことなので最後に云っておく。

2020年代は「メタデータ」の時代だ。

俺らは「編集」することで生きていく。

もうすぐ絶滅するというネットの市民性について

最近、「Google検索がおもしろくなくなった」という声を聞く。実際に当ブログのアクセス解析を見るかぎりでも、検索エンジンからは記事の趣旨と大きく異なるキーワードによる流入が主で、とてもじゃないが俺が頑張って書いてきた内容にマッチした人種を確実に呼び込めているとは到底いえない。所詮、「無料」であるとはそういうことなのだ。

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World Wide Webが生まれた頃は“性善説”を前提にして、ネット検索は単純にテキスト量の多いもの、特定のキーワード含有率が高く、より多くのリンクが張られた専門性の高い、更新され続けているサイトという単純なロジックによって導き出された。

 

しかし、ネットの普及によって市場参加者が爆発的に広がった結果、作為的に検索上位に表示させるためだけの手法が横行し、意味のないコンテンツが検索画面のシェアを奪い、死屍累々の無価値なサイトが検索上位を占めるようになった。それらを選別する目的で検索エンジンは200項目にも及ぶ“アルゴリズム”によって、性悪的に、そして合目的的にサイトを選別するようになった。

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経済学的には市場参加者が増えれば増えるだけ利便性が増すという、「ネットワーク効果」が働くとされるが、今のネットの状況を鑑みるに本当にそうなのだろうか。思慮深い教養人はそのような“開かれた場”を嫌い、むしろ閉じられた空間に引きこもってしまったようにも思われる。「すべてはフリー(無料)であるべきだ」として誕生した、“フリーミアム”なる経済圏に今、信頼性と価値はあるのだろうか。あらためて考えさせられる。

 

これは資本主義社会におけるテーゼなのだが、そもそも世の中にタダというものはない。タダに見えても、実は思わぬところで代価を払わせられているのがネットであり、今の世の中だ。自分は巧妙に「タダ」の上澄み分だけを享受してやろう、と思ってる人もいるかもしれないが、お金を払わずとも、それより貴重な「時間」や「情報」をしっかりと支払わされていることに気づくべきだろう。

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そもそも検索エンジンが好む専門性の高いサイトは、本当に役に立ち、おもしろいのだろうか。俺はそこにこそ疑義を提示したい。人間的魅力を考えたとき、ただ一つの物事に精通した人間よりも、たくさんの様々な引き出しをこそ持った人間の方が面白くはないだろうか。根本的にそのような前提に最初から立っていないコンピュータが返す機械的なクエリに、もともとの面白みがあったのだろうか。

 

おもしろいと感じる人や情報には二種類のおもしろさが存在する。一つは特定の要素を徹底的に深堀りした結果、常人には計り知ることのできない、究極に専門的で微分化された深い知識。そしてもう一つが特定の既知の要素に対して、違った要素を掛け合わせることによって、邂逅した要素同士の融合によって新奇の解釈をもたらす、横断的な新しい知識だ。

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日本人はとくに「知の巨人」といったような、仰々しい大層な形容詞を好むと云われるが、これは立花隆や佐藤優、松岡正剛といった知識人を見れば明らかだが、後者のケースであることが多い。

 

にも関わらず、Webの世界では前者の深い知識のみを希求することによって、後者の新たな知識の可能性を阻害しているのだ。もっとも最近の検索エンジンのロジックには“Auther”の権威性という要素も加味し、執筆者のバックグラウンドやネームバリューによって著しく評価を高めるのだが、これはあきらかに「フラット」だといわれていたネットの世界に階級制を導入したことの証左で、もはやネットにおける市民性はすでに消失したといえる。

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またテキストという情報資産から考えると、たしかに量は質を凌駕するのが世の真理だ。だからこそ、ひとつの尺度として評価する対象であることは納得ができる。だがしかし、他方で「質」を担保するものが執筆者であるAutherや、バックリンクといわれる参照数、そして専門性から一概に導き出し得るものだろうか。

 

逆に多方面に話題が四散しているものは価値が薄いと、本当にいえるのだろうか。俺にはどのような方向によってトピックが四散しているのか、隠された関連性を探るほうがよっぽどおもしろいものが見つかるように思える。なぜなら、その関連性こそがAutherの個性であり、Autherの人生のテーマでもあるのだから。今のGoogleに統制された世界には、たしかに「面白さ」は存在しないのだ。

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おそらく、今後AIの発達によって緻密に解析され、改善されてくるであろう分野といえる。もしかしたら近い将来、それまでに累積されたテキストの残滓から、自動的にAIがテキストやトピックを生成していくことだって起きるかもしれない。はたまたサイト特有の個性、つまり文体などをAIに組み込むことで、サイト自体にバーチャルな人格が生まれる可能性すらある。『攻殻機動隊』の世界が現実に迫っている。

 

しかし、結局のところは使う側のリテラシーも、最大限に問われるようになってくるはずだ。なにがおもしろくて、なにがおもしろくないのかはあくまで主観の問題で、ネットの世界が今以上に資本主義的な“市場の論理”を強めると、脳天気で下劣なエンタメか、短絡的で浅はかな、情弱相手の劣悪ヘイトものしかコンテンツがフォーカスされなくなる。

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だからこそネットを使う側の情報の扱い方や選別眼、見識というものがより一層求められるのだ。そして、情報を制する者が世界を制す。情報を適切に扱うためにも、たしかなものを見定める眼と、確固とした自らの世界観を持っておく必要がある。

 

そうしないと逆に、情報に飲み込まれるよ。

 

GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 & イノセンス 4K ULTRA HD Blu-ray セット

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Webの創成 ― World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか

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「面白い」のつくりかた (新潮新書)

「面白い」のつくりかた (新潮新書)

 

大成する人は「顔」が違う! ~成功者のファッションと人相学~

何かを成し遂げる人にはその相が顔に現れる。凡人とは違い、特徴的で印象的な何かがあるのだ。人相学もまた、古代中国では帝王学として、体系化されてきた学問のうちのひとつだ。史記に描かれている黄帝の人相は、いわゆる切れ長の目に盛り上がった額が特徴的だったとあり、中国でもとりわけ覇者の特長にあげられるのが鼻筋だ。

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大事を為す男子の鼻筋を龍鼻、虎鼻といい、龍鼻は鼻筋の通った長い鼻、虎鼻はやや団子形状ながら肉付きがよく横に張った鼻のことだ。日本でも鼻がでかい人間は出世するというが、その由縁はまさにここから来ている。これは一概に迷信ともいえない事情があって、其の人の生き様は顔に表れるものだ。

 

常に人を見下したり、斜に構える癖がある人は「三白眼」といって、黒目が上方に偏り、左右と下部の三方に白目の眼が出来上がる。簡単に云ってしまうと黒目が小さく、三角形をした目のことを云い、これは人相学上では凶相といわれている。実際に暴力事件や詐欺事件などでお縄になる人にはこの相が強いそうだ。このように其の人の思想や習性は、哀しいかな顔に出てしまうものなのだ。「人は見た目が9割」というのは、あながち間違いではない真実なのだ。

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卑屈な人生を歩んできた人はいびつな姿勢とそれなりの相が、大義を掲げ理想に燃える人にはそういう相が出るものである。長年生きてきたなかで身についた、人生と向き合う姿勢や態度というのが、どうしても表面化してしまうものなのだ。儒教を大成させた孔子もまた、異様な鷲鼻に釣り上がった目で、常人とは明らかに異なる貴顕の相が出ていたという。よく占い師が大器である人物に、「あんたは将来大きな人間になる」と言い当てる様が描写されるが、それもあながち謬説ではないのだろう。

 

そうはいっても、遺伝によって生まれ持ったものをなかなか変えることはできない。鬼臉の相など生来から備わってしまった人間は、運命に抗うことはできないのだろうか。そうではない。生得的なものだけではなく、人相というのは後天的にいくらでも修正できるものなのだ。それはなにかというと、服装や身だしなみである。服は着衣であると同時に常時身に付けている、あんた自身の思想や主張でもある。ここに気をつけない人間は、残念ながら人生の多くを損している。

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よく一流のビジネスマンは相手の靴で判断すると云われる。これはなにもピカピカの新品のような靴を見て、其の人の経済事情を把握しているわけではないのだ。いわゆる革の紳士靴というのは正しい扱いをしていると、経年でも永く使用に耐えるものになっている。むしろ一流の人、とくに欧米人が判断しているのは、古い靴をいかに大事に、愛着を持って手入れしているかを見ているのだ。それこそ新品に近い靴など、お金を出せば誰にでも買えてしまうからだ。

 

スーツや普段着にしても同じで、いかに自分の足りない部分を奇麗に見せられるように、着衣でカバーをしているかが問われている。サイズ感やシルエット、素材感など、其の人を其の人足らしめる独自の風合いを身につけられているか、冷静に自分自身を見れているかが衣服には表れてしまうのだ。なんでもないプリントもののデザインにしても、それ自体が着ている以上、あなたの主張になってしまう。他人が気を使わない部分に、いかに気を使えるかがあんた自身のビジネススキルに直結してしまうのだ。

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昔の日本人で、武士と呼ばれた階級の人たちが、なぜ丁髷(ちょんまげ)のような難儀で奇特な髪型を、戦以外で一時も崩さなかったのか。月代を毎日奇麗に剃り、髪を結う。丁髷を切り落とすことは、武士としての地位を捨てるにも等しいことだったのだ。そこまでして彼らがこだわったのは、いつ死んでも最期まで武士としての身なりを崩さずに、己の威厳のなかで死んで逝けるようにとの思いがあった。翻ってあんたは、いつ死んでも恥ずかしくない身なりをしているだろうか。

 

レオナルド・ディカプリオ主演で大ヒットした映画『タイタニック』で、沈みゆくタイタニック号のなかで自分は死ぬまで英国紳士だからと、タキシード姿を崩さず船と運命をともにする壮年の男性がいたが、まさにそのような気概や誇りをあんたは着衣に込められているだろうか。さすがにここまでは極端にしても、服があんたの印象をつくる。それならば、せめてユニクロやH&Mといった大量生産の規格品なんかに身を包んでいる場合ではないだろう。

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このように印象というものはいくらでも操作できる。そのようにいうとあまりポジティブではないような響きがあるのだが、持って生まれたものをどう扱うかよりも、後天的に自分自身をどう見せるかに努力し、気を使える人間のほうがステキではないだろうか。しかしながら街行く人々を見ていても、なかなかここに気を使えていないのが世の事情である。

 

かつて古代中国の思想書『老子』は、苦しみをともなう人生やしんどい経験は、天があたえた試練だ。その経験自体が自分自身の弱点を克服するための契機であると説いた。人相もまた、自分自身でつくり出し表出させるものだ。

 

苦しいとき、しんどいときこそ、かすかな希望を胸に抱き、歯を食いしばって前のみを見ようではないか。

その経験もまた、あなたの顔に相として出るものなのだから。

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漫画版 人は見た目が9割

漫画版 人は見た目が9割

 

人生を意のままに操る!“コントロール”の技法

数年前にドバイの王族とも親交を持つ、とある億万長者と知り合った。俺よりも幾分か年が上なのだが、パッと見た感じは実年齢よりも若めのあんちゃんみたいで、とてもじゃないが成功者には見えない。落ち合った場所も新宿駅近くのごく普通の喫茶店で、その人は普通にその風景のなかに溶け込んでいた。

 

しかしながら、どこか不思議なオーラをまとっているんだけど、あきらかに成功者特有の気配を消してるというか。なるべく都会の喧騒の渦に同化しているかのように思えた。お互いのビジネスについて情報交換し終わって、その人がおもむろに云った一言が、後の俺の人生に衝撃をあたえた。

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「いいか。男が人生で成功したいなら、絶対にハゲるんじゃないぞ!」

 

たしかに世界の億万長者たちのなかで決してハゲは多くない。いや、その無尽蔵の財力を駆使して最先端医療や薬の力によって新たな毛を再生させているのかもしれない。しかし、この人の云っていることは根本的にそういった次元の話ではないのだ。本来的に遺伝情報によって決まってしまう生理現象さえも、自らの力でコントロールせよ。つまりは、そう云っているのだ。

 

そういえば欧米型の教育システムは、いかに最小の労力で最大の成果を上げるかという「マネジメント」や「コントロール」の思想にもとづいている。対して日本の教育システムというのは端から他人に従属することを前提に被支配者の論理を徹底的に押し付けられる。この辺の思想の違いがビジネスや投資の世界では圧倒的な結果の差となって返ってくるのだ。それほどまでに「コントロール」という概念は強烈なのだ。

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俺が20代から30代前半にかけて学んだ地政学や国際関係論、経済学という学問も、冷徹なリアリズムの視点から組み上げられた支配者の学問だ。国家や政府が属人的な人格抜きにして政治空間や市場経済でどう合理的に振る舞うものか、過去の歴史を鑑みて人間社会のメカニズムを解き明かしたものがこれらの学問なのだ。中でも国際関係論は自国の利益のために、いかに他国をコントロールして覇権や優位を築き上げるかに主眼が置かれている。

 

目に目ない世界に原因や本質があって、目に見える世界に結果や現象として返ってくる。これを仏教では“因果”というのだが、ここ最近はスピリチュアル業界が活性化していることもあって、この見えない世界についてもある程度はコントロールする方法というのが解明されてきているのだ。

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スピリチュアルや自己啓発というと毛嫌いする人もおり、かつては俺もその一人だった。ところが、それをやることによって多少でも成果が変わるものだとすると、やらない手はないと思うのだがどうだろうか。いや、むしろ実社会の作法や慣習としてもやった方がいいものは少なくない。そのほとんどが労力を要することではないので、ポスト成功者は心に余裕を持ち、やらなくて損をするくらいなら目に見えない世界を徹底的に活用した方がいい。

 

少し話が脱線したのだが、俺がライフワークにしているグレイシー柔術でもコントロールということを大変に重視している。完全に相手を支配下に置いた状態。これができていれば、むやみに相手を殺傷する必要もないからだ。では“コントロール”することで、ビジネスや投資でどんなことが可能になるのだろうか。

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まずはその分野で1番になる。これは誰もが目指しているポジショニング戦略であるはずだ。しかし、かりにその分野ですでに自分をはるかに凌ぐ巨人が存在していて、どうやっても勝つことができない。そうしたときは2番手にあまんじてマイケル・ポーターよろしく、フォロアーやチャレンジャーになればいいのか。しかし、ここでコントロールすることの重要性を知っていると、一つのアイディアが出てくる。

 

同じ土俵で勝てないのなら、そもそものゲームを成立させているルールを変えてしまえないだろうか。もしくは新たな土俵を作り出して、そこで先駆者として君臨すればよいのではないか。こうした発想のもとに生み出されたのが、いわゆる『ブルー・オーシャン戦略』なのだ。要はビジネスが成立している価値基準を一新してしまえばいいわけなのだ。 

[新版]ブルー・オーシャン戦略―――競争のない世界を創造する (Harvard Business Review Press)

[新版]ブルー・オーシャン戦略―――競争のない世界を創造する (Harvard Business Review Press)

 

  

成功者といわれる人たちはこれらを徹底的に突き詰めていることが多いのは以前の記事のとおりだ。いかに誰かにコントロールされることなしに、自分の土俵で思いどおりに戦うことができるか。自分や自社が動くことなく、いかに他者や他社をコントロールすることで優位を築き上げることができるか。ここに気づけた人は強い。

www.sandinista.xyz

 

お金のエネルギーが『パワー』であるとするなら、人生の不可能性に抗う『コントロール』の力をぜひ身につけてほしい。そして自分の人生を自分の意のままにコントロールすることで得られる、より豊かで実りのある未来に日本人も目を向けてほしい。コントロールする能力は何も欧米人や成功者だけの特権ではないのだ。

 

では、どうすれば人生をコントロールできるようになるのだろうか。それはまず、今の土俵で動いているルールを徹底的に理解するということだ。そしてコントロールにはどんな形があるのか、そして市場のメカニズムを知ることだ。これについては戦っている土俵によっても形が異なってくるので、一概にはいえないが、世の中に出回っている“戦略”の指南書などをよく読み研究することだ。俺のように国際関係論を学んでみるのもいいことだと思う。そうすることで、どうすれば自分の分野に適用できるかが見えてくるはずだ。

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自らの人生をコントロールし、自由とを成功をつかめ!

 

※参考図書。上段は国際関係論の標準的テキスト。国際関係論にはいろいろな学派が存在するが、これはリアリズムについて多く紙面が割かれている。下段は入門編としての読み物に最適!

国際関係理論 第2版 (勁草テキスト・セレクション)

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ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

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  • 作者: ダニエルドレズナー,谷口功一,山田高敬
  • 出版社/メーカー: 白水社
  • 発売日: 2012/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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“覚悟”のすゝめ 〜直感と決断で現状を打破せよ!〜

人は惰性で生きる。変化を嫌うものだ。しかし、時に焦燥感に駆られ、冒険に繰り出そうとする。または不意に今の環境から抜け出し、まったく違う土俵の上に立ちたいと願うことさえある。しかし、多くの人が何も捨てることのないまま、今そのままの状態で、人生の「あちら」側への冒険へ繰り出そうとするのである。

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人というのは不思議なもので、「得る」ことよりも「失う」ことに対して過敏になる。目の前に得られるものが見えていても、なかなか自分の持っているものを手放せないものだ。しかし、よく考えてほしい。たとえば1,000万円の売上を作りたいのであれば、少なくとも100万円程度の販促などの費用は必ずかかるものだ。実業ですら10倍のレバレッジが必要になるというのに、多くの人はそれが「投資」ではなく、「経費」として考えてしまう。つまり、100万円の決断ができない者に1,000万円以上のお金など生み出せるはずがないのだ。

 

俺はよく仕事柄、「どうしたら成功できますか?」と質問を受ける。そんな時決まって云うのが、「決断すること」なのである。簡単な話である。成功と位置づけるものに見合った原資や時間、労力を用意するだけでいい。あとはその分野のプロフェッショナルに教えを請うなり、多少の費用を負担して任せてしまえばいいのだ。誰でも分かるロジックなのだが、自分が持てるものを失う恐怖に苛まれ、多くの人が決断する勇気を持てないでいるのだ。生きていくために失くてはならないものなど、そう多くはないというのに…

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だからこそ成功者の資質を問われれば、真っ先に答えるものが「覚悟」だ。飛び込む覚悟、手放す覚悟…。自分が何も差し出すことなしに、望むものが手に入るほど都合のいい世の中ではない。にも関わらず、多くの人は無償の施しを求めるものだ。

 

たとえば「キャリアアップのために転職を考えています」という人の多くが、キャリアアップといいながら現状よりも高待遇を求めていることが多い。しかし、よくよく考えてみれば仕事を学ばせてほしい、もっと成長させてほしいと言っておきながら、今よりももっと給料をくれと要求していることの不条理さ。そんなマインドでは成功はおろか転職さえできないのだ。

 

では、なぜ多くの人は「覚悟」を持てずにいるのか。それは見えている世界にとらわれすぎて、見えない世界を感知する能力が低いからなのだ。つまり、想像力が欠如しているのだ。または自分自身を高く見積もりすぎて、エゴを捨て去ることができないのだ。近年、「覚悟」というと書籍の影響で吉田松陰を想起される方も少なくないだろう。「士は過なきを貴しとせず 過を改むるを貴しと為す」と詠んだ松蔭が理想としたのは、武士の生き方だったのではないだろうか。

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)

 

 

士農工商という制度に守られていた武士は、なにも生み出さずとも禄があったが、その代わり、四六時中「生きる手本」であり続けなければいけなかった。武士は日常から無駄なものを削り、精神を研ぎ澄ました。俗に通ずる欲を捨て、生活は規則正しく、できるだけ簡素にした。万人に対して公平な心を持ち、敵にすら「介錯」という情けをかけた。自分の美学のために、自分の身を惜しみなく削った。目の前にある安心よりも、正しいと思う困難を取った。赤穂浪士をとっても、そうした武士の姿を見つけることができよう。つまり、彼らにとっては士道=死道といっても差し支えなかったのだ。

 

そうした松蔭の武士道は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とした山本常朝の『葉隠』の思想にも見ることが出来る。実際には武士としての生き様を説いた書なのであるが、侍がなぜあのような好奇な丁髷(ちょんまげ)というスタイルを重用したかといえば、いつ死んでも恥ずかしくないように、毎日月代(さかやき)を剃り、一片の悔いもない美しい死に顔を公然とさらせるように整えられた、一種の死装束だったからではないか。

 

そう考えると、弟子たちに学ばせるための教科書を夜なべしてしたため、ときに授業で声を震わせ涙ながらに教えを説いた松蔭の姿に私心というものはなかったからこそ、多くの門下生が感化され、維新の日本を背負うことになったのではないだろうか。彼らにはたして守るべきものがあったろうか。

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また、現代人の想像力を考えてみたとき、あきらかに「直感」が鈍っているようにも思えるのだ。直感が働かないから、迷い、自信をなくす。直感とは感覚器官に基づくものなので、身体的な入力があってはじめて発動するものだ。しかし、ただ与えられたものを食べ、決まりきった身体操作に慣れ親しんだ身体は、もはや生命の危機であろうと、不意に訪れるインスピレーションだろうと察知できなくなっているのである。

 

仏教では高僧になるために千日回峰行という過酷な儀礼を経て、はじめて付与される階級が大阿闍梨なのだが、もっとも熾烈をきわめるのが足かけ9日間にわたる、断食・断水・断眠・断臥の4無行をこなす堂入りだ。9日間、一切の食べ物はおろか水や嗜好品のすべてを断つ。そうまでしてこの儀礼をこなすのは、神仏の声なき声に耳を傾けるためだ。食べ物という入力を断つことで本能が研ぎ澄まされ、やがて薄れゆく意識は神仏や自然とリンクしはじめるのだ。つまり、ここから云えるのは飽食の習慣性は理性ばかりを働かせてしまい、本能的な直感を低下させているということなのだ。

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手前味噌な話で恐縮だが、俺自身も覚悟と向かい合ってきた。サラリーマン時代にはじめて年俸が大台に乗った年、年会費30万円もするブラックカードを手にした。いくら大台といってもやはりこの年会費は大きいし、かりに年俸が下がったり失職すればそもそも支払いさえ難しくなる。しかし、ここでひとつの覚悟をしたことで今の俺があるし、世の中の最上のサービスやもてなしを知ることができた。決断によって環境をつくったのだ。「覚悟」が持つ力は偉大なのである。

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本能が呼び覚ます内なる声に耳を傾ける。想像力を駆使して、魂が喜ぶ方向性を見定める。迷うくらいなら、突き進む。そうした覚悟なくしては、環境も変わらなければ、望む成功を手中にすることはできない。

 

現代人よ、覚悟を磨け!

 

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)