「そこで、あんたはなにを見つけたんだ」
「虐殺には、文法があるということだ」
ぼくにはその意味がわからなかった。
ジョン・ポ ールもそれを察して説明を続け、
「どの国の、どんな政治状況の、どんな構造の言語であれ、虐殺には共通する深層文法があるということが、そのデ ータから浮かび上がってきたんだよ。虐殺が起こる少し前から、新聞の記事に、ラジオやテレビの放送に、出版される小説に、そのパタ ーンはちらつきはじめる。言語の違いによらない深層の文法だから、そのことばを享受するきみたち自身にはそれが見えない。言語学者でないかぎりは」
伊藤計劃『虐殺器官〔新版〕』より
これは伊藤計劃のSF大作『虐殺器官』の作中で、後進諸国で虐殺を扇動していると見られるアメリカ人の暗殺を政府から命じられた主人公クラヴィスと対面した、件(くだん)のアメリカ人・言語学者ジョン・ポールとのやり取りの一部だ。
“虐殺の文法”とは「人間には虐殺を司る生得的な器官が存在し、その器官を活性化させる文法が存在する」という、この作品全体をつらぬく鮮やかなギミックのひとつなのだが、言葉ひとつで人を「暗示」にかけることが可能であれば、たくみに心理状態をコントロールすることで「洗脳」すらも可能にしてしてしまう心理学の知見から考えても、あながちその存在を否定することはできないだろう。
実は俺自身の昨今の関心もまた、「言葉」に大きく比重が傾いている。人は言葉ひとつで大きく印象を変えることもあれば、言葉ひとつで心揺さぶられることもある。また絶望もする。人はどのような言葉を、人生の中で生み出していけばいいのだろうか。
言葉ということに着目してみるとビジネスにおいても、「言葉」には市場をつくる力がある。たとえば「終活」や「美魔女」、「サードウェーブコーヒー」や「ファストファッション」といった言葉によって、新たな市場が創造されているのだ。
だとするならば、ビジネスにおいても消費者心理を掻き立てるような、「マーケティングの文法」なるものが存在してもおかしくはないと考えるのは早計だろうか。俺には社会に流通する言葉に、かならず人々の欲望の裏付けが隠されているように思えるのだ。そこで思い出されるのが小説『羊たちの沈黙』で主人公クラリスと収監された囚人、ハンニバル・レクターとのあいだで交わされる次の一節だ。
「われわれの欲求はどのようにして生まれるんだい、クラリス?われわれは欲求の対象になるものを意識的に探し求めるのかね?よく考えてから答えたまえ」
「ちがいますね。わたしたちはただ――」
「まさしくちがう。そのとおりだ。われわれは日頃目にするものを欲求する。それがはじまりなのさ」
そう…我々は日頃、目にするものを欲求する。つまり、人は自分の欲望を言語化することなく無自覚に生きているのだ。それが突如、言語化しえない感覚を満たすものが目の前に現れたとき、欲望が発動する。あたかも特定の「言葉」を因子とするかのように。つまり、人々の隠された欲望(インサイト)にダイブし、先回りすることができれば、「マーケティングの文法」を発動させることができるのではないか。
人々の購買行動が「言葉」と五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を媒介にして繰り広げられていることを鑑みると、五感を発動させる「体験」のなかにヒントがあるのではないか。そう考えると「消費」という人間の経済活動の構造自体は、小説や演劇、映画などともそう違いはないのではないだろうか。それを示すように、1,500円の書籍の購入を渋る人でも、映画館でわずか数ページの他愛もない内容のパンフレットを2,000円で購入することに躊躇しないことが多いだろう。
ここで思い出されるのが、かつて映画監督の押井守が語っていた「映画の構造」についての発言だ。曰く、映画を構成する要素は「世界観・ストーリー・キャラクター」の3つだけなのだ、と。なるほど、この言説をもとに俺自身のビジネスを整理してみると、たしかにこの3つの要素にもとづいて事業を構成していることがわかる。
たとえば、情報発信を例にとると、
世界観・・・YouTube
ストーリー・・・メールマガジン
キャラクター・・・SNS
という3軸によって役割を分けて、イメージ(ブランド)が形づくられていることがわかる。ここに、消費者の欲望を表象した「言葉」を代入することができれば、より強固な基盤が形づくられることになる。
だからといって、これらの「文法」だけでビジネスが完結するワケではない。21世紀のビジネスにはもっと決定的な因子が必要とされているように思う。それは何かと問われれば、俺は「愛」だと考えている。旧来型の20世紀のマーケティングは顧客を「マス」でとらえ、不特定多数に網をかけていたのだ。だからこそ、SNSなどの媒体でも情報を拡散することに主眼が置かれていた。
これからのマーケティング手法について重要な示唆を、次世代型のビジネスリーダーとして注目を集めている西野亮廣が、自著『魔法のコンパス 道なき道の歩き方』で次のように語っている。「1万人に向けて網をかけるよりも、1対1を1万回したほうが効率がいい」、と。要は手間を惜しむことなく、1人ひとりを「ノード(結び目、結節点)」として捉え、個人個人を起点にしてビジネスを組み立てるということだ。
もはや大量生産、大量消費の時代は終わった。大切なことは、いかに「個」客の欲望を感じ取り、愛をもって向き合うかがビジネスにも求められてくる。
十把一絡げに括ろうとするマーケティング発想をやめて、
今すぐ愛と欲望のマーケティングをしようじゃないか。
<参考文献>