近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

成功者…それは価値を生み出す人のことである

よく云われる、「お金持ち脳」と「貧乏脳」というものがある。「成功脳」と「失敗脳」なんて云い方をしたりもする。俺の専門分野であるお金を増やす技術においても、技術を身に付ける以前に、思考の鋳型としてのマインドセットを先に脳にインストールした方が、圧倒的な成果を手にする人が多い。技術や身体的特性は短期間で変えることはできないが、思考の転換というのは即効性があるのだ。

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ところが巷で云われている「成功脳」の思考様式というのは、どうも抽象的すぎるし、どこか宗教的な臭いがする教訓ばかりだ。「貧乏脳は稼ぐことを卑しいと考える。金持ち脳は稼ぐことを尊いと考える」といった類いのものだ。そして、これだけ多様な人種がいる世の中で断定的すぎる印象さえ受ける。たとえば、曰くお金持ちはメモ好きだというもの。これなんかは、「そういう人もいる」というだけのこと。残念ながら、みんながみんな共通している特徴ではないのだ。

 

しかし俺の顧客や友人でもある富豪たちと長年付き合っていると、これぞ成功者といわんばかりの明確な行動的特性が見てとれるのである。それは何かというと、彼らはどこにいようとも、いつでも価値を生み出すことができる、ということなのだ。瞬間的に、まるで手をかざすとサラサラとあふれ出す錬金術師の砂金のように、ライブで価値を創出させるのである。事前に準備をするわけでも、先延ばしにするわけでもなく、即興的にやってしまえるのだ。

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かなり抽象的な話のように思えるだろうから、譬え話で説明しよう。たとえば今ここ日本の都市のど真ん中で、100円の飲料を売りつけようとしているセールスマンがいたとして、彼の飲料は売れるだろうか。答えはおのずと否だろう。どこにいっても飲み物は売っているし、季節的にも喉を潤す必要性をさほど感じない。ところが突如、ロケーションが誰もいない砂漠の真ん中に遷ったとしよう。カンカンに照りつける太陽に体温よりも高い気温で、茹だるような暑さ。そこへ颯爽と現れたセールスマンは、まるで天使のように見えることだろう。その手には魅惑の飲み物。もはや100円どころか1万円出してもその飲料が欲しいはずだ。

 

飛躍した譬えではあるが、これと同じことを彼らは平然とやってしまえる能力を備えている。必要とする人間さえいれば、瞬時にどんなものにでも価値を付与し、商品を創造することができる。それもなんの前触れも前提もなく、その場で。そういう光景を幾度となく見る中で、これこそが「成功脳」というものなのだと思い知らされた。彼らからすれば入念な下準備やヒアリング、打ち合わせ、物事を先延ばしにすることはサラリーマンがやる非効率なこと。必要なときに必要なだけ、悩みや願望にマッチしたソリューションをその場で提供することが手間要らずで、労働に縛られない最良の時間管理術なのだ。

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どのようにすれば、このような能力を身に付けることができるだろうか。一つにはその場にある悩みや願望、フラストレーションにフォーカスし、それらを解消できる価値を見極める力といえるだろう。簡単に「価値」と云ってしまえるほどに、日常で常用しているこの概念を定義するのは実は相当に難しい。たとえば『国富論』を著した近代経済学の父、アダム・スミスは価値をこう定義した。野原にリンゴの木が1本立っていて、リンゴが食べたいがために木に登り、実をもいで元のところへ帰ってきた、それまでに費やされたその人の労力こそが「価値」なのだ、と。

 

また、マルクスの資本論はこうはじまる。「資本主義的生産様式の社会の富は、商品の集積として現れる」。そして商品には使用価値と交換価値があり、この交換価値を測るために貨幣が生まれた。このように、資本論も価値論からはじまるのだ。

 

価値とは、受け取る側の喜びだ。その価値の本質を見誤ったがために、しばしば人とのあいだに齟齬が生じ、炎上したりもする。価値とは必ず受け手があってのもので、価値は受け手を選び、受け手によっても価値は変化する。直感的にこの力学と作用を駆使して、錬金術のように価値を生み出すことができるのは、稀有なマーケティング感覚を持ち合わせているからであろう。しかしその実、彼らは受け手の悩みや願望にフォーカスしているにすぎない。これらは以前の「ビジネスで大切な、たった3つのこと」で紹介した能力でもあるのだ。

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もう一つは、投資の思考様式を学ぶということだ。投資の本質は企業の価値を見抜き、上がるものを買うということ。しかし市場というのは必ずしも効率的に機能しているわけではなく、様々なバイアスがかかり、クラウゼヴィッツの云う“戦場の霧”のように価値を覆い隠してしまうものでもある。そこに価値と価格(株価)の乖離が生じ、投資家が莫大な利益を上げる隙が生まれる。価値を見極めるということ、瞬時に価値を生み出すという成功者特有の行動特性はこうした投資特有の考え方にも通じているのだ。

 

起業家よ、“価値”を生み出せ!

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国富論 ―まんがで読破─

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  • 作者: アダム・スミス,バラエティ・アートワークス
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2013/08/02
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資本論 ─まんがで読破─

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  • 作者: マルクス,バラエティ・アートワークス
  • 出版社/メーカー: イースト・プレス
  • 発売日: 2013/06/28
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ビジネスで大切な、たった3つのこと ~成功者のレシピ~

既にある1を10にする“投資”行動とは対照的に、0という何もないところから1を創り出す“ビジネス”には、様々な才能が必要なように思われる。しかし、1人で価値を生み出すビジネスと、100人を使って世に価値を問うビジネスでは求められる資質はまるで違う。それぞれ立脚しているステージにもよるが、ある程度までのビジネスならば特別な才能に頼らずとも、どんな人にも再現可能な鋳型があるのだ。

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もし起業を志すなら、もしくは閉塞した現状を打開するために、身に付けておいたほうがいい技術というものがある。それらの技術はお決まりのマニュアルを読んで、練習すれば身に付くというものではない。日常での実践をとおして、自らつかみ取っていかなければならないものだ。本当に意味のあることは一朝一夕に成し得るものではないし、答えが用意されたものではなく答えを見出していくべきものだ。だが、意識するかしないかで大きく結果を左右するものでもある。

 

俺が考えるビジネスに必要な技術、資質を開花させてもらうために、若き起業家にきまってオススメしている書籍が3冊ある。所謂、ビジネス書は人生をとおしてそんなに読み込んだ経験がないのだが、ここで紹介するものは例外的に、自分自身の経験のなかでスキルアップの必要性を実感したとき直感的に選び取って、実際に読んだものだ。どれも平易で理解しやすいものばかりで、千円札2枚に満たない金額で得られる知見や効果は計り知れない。この感覚こそがまさに“自己投資”なのだ。

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ここに挙げる3冊は、いわば成功者への道を示したレシピだ。成功を志す御仁や人生に行き詰まっている人たちには、嘘だと思って読んでみてほしい。そして、行動してほしい。行動なくして、人生は拓けないのだから。

 

ビジネスは“気配り”

ビジネスが商売である以上、人を介さないと生み出した価値は換金されない。そもそも人の心を動かさなければ、自分のサービスや商品は認知されないし、誰も自分のビジネスをサポートしてくれない。だからこそ、ビジネスの核心は、“人”を中心に組み立てないとダメだ。では、どうすれば人が動いてくれるのか。それは引き寄せの法則なんかでもよく云われる、「与える」ことでしか人は行動してくれないのだ。

 

与えるためには、接している人が暗黙のうちに求めていること、困っていることを敏感に感じ取る能力が必要になる。相手の期待値を上回る想像力が必要になる。凝った演出やあざとい行動は、浅はかな思惑を見透かされるものだ。凝りすぎず、やり過ぎない自然な“気配り”が「おもてなし」という精神に凝縮されたものが、日本の伝統である茶道には宿っている。そんな茶道の精神を接客にどう活かすかを、裏千家茶道の師範である著者が徹底的に解りやすく指南した良書が『接客は利休に学べ』だ。サービス業でなくとも学ぶべきところが満載だ。

接客は利休に学べ

接客は利休に学べ

 

 

ビジネスは“答力”

上段の“気配り”に直接的に通ずる能力が、この“答力”だ。前述した「相手の期待値を上回る想像力」こそが、まさに答力なのだ。答力とは読んで字の如く、答える力ということだ。これは著者の五十棲剛史氏が名付けたネーミングなのだが、著者はコンサルティング会社で年間粗利1億円以上を稼ぎ、11年連続No.1コンサルタントとして活躍し続けた人だ。そんな五十棲氏がビジネスマンに必要な能力として、類書にないユニークな考え方やノウハウを示したものが本書だ。

 

聞かれたことを機械的に答えるだけであれば、お客様の期待値を上回ることはできない。そこでお客様の潜在的に抱える“願望”や“悩み”にフォーカスして、答えを組み立てようというのが大きな趣旨だ。お客様の期待を先回りして期待値を超える回答ができれば、商談であるにも関わらず言葉だけでお客様を感動させることもできる。俺自身も「超」が付く大富豪たちを相手に商売できているのは、相手の意図を正確に理解して、そこに直結、もしくは先回りした会話ができているからなのだ。すべてのビジネスマンにオススメできる1冊だ。

稼ぐ人の「答力」 頭ひとつ抜けるオンリーワン養成講座

稼ぐ人の「答力」 頭ひとつ抜けるオンリーワン養成講座

 

 

ビジネスは“キャラクター”

ビジネスが競争である以上、人と同じことをしていては他者を上回る成果を出すことはできない。認知のされ方と、それに合ったアプローチの仕方が重要だ。“キャラクター”によって認知のされ方が変わるのだとすると、マーケティングはキャラクターを取り巻く“世界観”を創り出すための装置なのだ。今でこそコンテンツマーケティングやインバウンドマーケティングなんていう手法がトレンドになっているが、いつの時代も情報発信と価値の提供がビジネスの中心で、何をどう伝えるかという本質が変わらぬ普遍の原則といえる。

 

1960~70年代に、アメリカでカルト的な人気を誇ったロックバンド「グレイトフル・デッド」。このバンドはとにかく破天荒ながら、時代を先取りしたマーケティングを展開していたのだ。なぜ現代の視点から革新的なことがビジネスとして出来ていたかというと、デッドにとってのファンは単なる消費者ではなく、自分たちと対等なパートナーと位置づけていたことにほかならない。マーケティングをしないマーケティングの、目から鱗が落ちるエッセンスがいくつも散りばめられたアイディアの宝箱みたいな珠玉の良書。いつ読んでもインスピレーションが刺激されること、請け合い。

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

  • 作者: デイヴィッド・ミーアマン・スコット,ブライアン・ハリガン,糸井重里,渡辺由佳里
  • 出版社/メーカー: 日経BP
  • 発売日: 2011/12/08
  • メディア: 単行本
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“帝王学”を学べ!

冷酷な云い方だが、他人と同じことをしていては人並み以上の人生なんて手に入らない。慰めのように金のかからない趣味に没頭したり、自己欺瞞的な消費を繰り返して現実から逃げてるだけの人生。少なくない妥協と隣り合わせのクソみたいな生活から抜け出すには、突き抜けた行動が必要だ。多くの人は、この事実にちゃんと向き合っていない。必要なのは現実を直視すること、そして行動だ。足りない脳みそは補強しろ。エゴを捨てて現実と向き合え!

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多くの人が自己啓発の一環として読んでいるビジネススキルや処世術に関する読み物は、そのほとんどがより良く現代社会を生きることを目的に、あんたが企業や組織の「使用人」であることを前提にして書かれている。これからの時代にはこういう能力が必要だ、シンギュラリティ後に訪れる世界で求められる働き方はこうだ…等など、耳ざわりのいい美辞麗句がならべられるが、その実、いかに企業のなかで使用人として生き残っていくかを説いているにすぎない。

 

かりに起業や独立をうながす実用書であっても、流行り物のビジネスモデルに乗っかってしまうか、会社組織でつちかった経験や環境をどのようにして売り物にするかを扱っただけの、それまでの人生の延長線上としての発想しか持ち合わせてないものが多い。しかし自らの生き残りと人生を賭けて、他者とは違う独自のレールを敷くという作業は、云わば人生を“コントロール”するということに他ならない。どっぷりと使用人の発想に浸かったやり方では、他人はおろか自分の人生すらもコントロールすることはできない。“コントロール”とは、支配者の論理なのだ。

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使用人という呪縛から脱却し、自分の人生を手に入れるには、支配者、統治者の発想が必要だ。自分という存在をどのように社会のなかで位置づければよいのか。自分が世の中に提供できる価値とは何か。自らの運命をどう切り拓くべきか。それは企業の庇護のもとで生きる使用人には不要な知識であり、理解の及ばない叡智なので一般的に語られることも少ない。支配者のための体系的知識を必要とするのは、社会的にもほんのひと握りの層なので、大量消費を前提とするマスマーケティングでは需要がないのだ。だから、支配者のために語られる知恵が市場に出回ることはほぼない。

 

しかしながら、古代中国には王家や伝統ある家系・家柄など、特別な地位の跡継ぎに対する教育手法として確立された、“帝王学”とよばれる全人的教育が存在した。その存在は歴史書として名高い『十八史略』にも記されている。人を使い、人を統べるにはどのような技法が必要か、君主として国を経営するにはどのような心構えでいるべきかなどのマネジメント論に加え、自らの運命と国の行末を知るための秘術として「算命学」に代表される占術が学ばれていたのだ。占い好きの経営者は多いというが、それも素直に納得できる。

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 ※こちら(↑)は帝王…ではなく「聖帝」。帝王学を学んだからといって、このような御仁が出来上がるわけではない。

 

帝王教育の要諦は、あくまで幼少時から家督を継承するまでの段階で施されるものだ。つまり、統治者になってから勉強するのでは遅すぎるということ。だからこそ自らの人生をコントロールし、今よりも良い境遇を求め成功を望む者は、早い段階で「使用人」の論理から脱却し帝王学を学ばねばならない。使用人の思考のまま、人生の支配者にはなれぬのだ。

 

自らの人生を自らの手で切り拓き、自分の人生を謳歌するためにも帝王学を学ぼう。なにかに妥協しながら生きるよりも、人生を自分のものにするためのバイブルとなる名著を紹介する。理解できずとも、読んだか読んでないかで圧倒的な差になるだろう。

 

易経

『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄の書」と呼ばれ、儒教の基本思想となる五経の筆頭に挙げられる経典。“易”者というと占い師のことだとお解りになるあんたは博識だが、易占いの原典である本書には哲学・思想のバイブルとしての側面と、占術のテキストとしての側面があり、それらが入り混じっているために大変に難解な内容になっている。しかし学問や読書をしていれば、なぜか誰もがいつかは辿り着いてしまうという奇書として、不思議な魅力に溢れた古典中の古典。世界や人間の成り立ちに迫る、帝王学の中心を担った一冊。さらに占術としての役割を突き詰めたものが算命学で、後に四柱推命などと交わって運命学の体系が形成されることになる。

易経〈上〉 (岩波文庫)

易経〈上〉 (岩波文庫)

 
易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)

易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)

 

 

韓非子

荀子の流れを汲む諸子百家のひとつ、法家の代表的人物による国家運営の教典。敵国であった秦の始皇帝が高く評価し、後に三国志で有名な諸葛亮が幼帝劉禅の教材として韓非子を献上したという逸話も残っている。「法」は君主による統治のための道具とした上で、法を至上とした法治国家の建設を説いた。性悪説に基づいた信賞必罰の徹底と、法と術(人心掌握術)による国家運営(法術思想)という徹底したリアリストの視点から、統治者のハウツーを示したものになっている。「引き寄せの法則」などに代表される無償の愛も大事だが、同時に支配者として冷酷な論理も持ち合わせておく必要があるのだ。

韓非子 (中国の思想)

韓非子 (中国の思想)

 

 

孫子

当ブログでも「ブラジリアン柔術に効く『孫子の兵法』」という記事をシリーズ化して、その思想がどう実際の生活や勝負ごとに役立つのか解説しているが、孫子は軍事的側面からいかに敵国を支配するか、自らの軍をどのように統率するべきかというノウハウが簡潔にまとめられた、“生き残り”のための実践書だ。その下敷きには易経や韓非子にも通底する老荘思想が埋め込まれており、リーダー、指導者がどのような世界観のなかで状況をコントロールしなければならないのか、人類普遍の叡智がつまっている。古今東西のビジネスリーダーは必ずといっていいほど読んでいる、勝負哲学のバイブル。

新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

 

 

マキャベリの君主論

ギリシア・ローマ時代からの歴史上の実例を数多く挙げながら、その成功・失敗理由を挙げて実証的に「君主」としてのあるべき姿を説いた、イタリア政治学の聖典。フィレンツェ共和国の衰退に重ねるニコロ・マキャヴェッリ自身の焦燥、そして強靭な思想が絶対的な君主像を浮かび上がらせ、不可分だった政治と倫理の問題を見事に切り離すことに成功した。「権謀術数」の原典ともされるが、チェーザレ・ボルジアに触発され、軍事力に裏付けられた強力な君主による独裁的政治を提言している。後にルソーが社会契約論において、君主論は「共和主義者の教科書」と称賛している。

君主論 (岩波文庫)

君主論 (岩波文庫)

 

 

マッキンダーの地政学

地政学は国際政治学を形成する一学派で、本書はそんな国際関係における動態力学的な把握を示し、世界に衝撃をあたえたイギリスの地理学者による地政学の金字塔。不確定変数が無数に存在する国際政治の論理を分類し、モデル化しようとする地政学の試みは、社会科学の非主流に過ぎなかったが、この論文によってアカデミズムとも結びつき、為政者にとって必須の知識になった。「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する」の一文は有名だが、思考の抽象度を上げ、視野を高めるのに役立つ。大国の合理的な振る舞い、歴史のダイナミズムが理解できる名著。

マッキンダーの地政学ーデモクラシーの理想と現実

マッキンダーの地政学ーデモクラシーの理想と現実

  • 作者: ハルフォード・ジョンマッキンダー,Halford John Mackinder,曽村保信
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2008/09/27
  • メディア: 単行本
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情理を尽くせ!

「残念なことに、大半の人は生涯、食べていくだけで精一杯です。そんな中でも少数の人は人生を広げることに関心を持つ。そして、とてつもない成功を収めている人たち――経済的にだけではなく、人生のすべての面で成功しているごく稀な人たちは、人に奉仕することだけに全精力を傾けるのです」

ボブ・バーグ著『あたえる人があたえられる』より

 

 

有名な成功哲学や自己啓発などでよく語られる内容ではあるが、上の文章は結構重要な示唆が込められているように思う。大半の人は目の前の生活にしか目が行かないものだが、より意識の高い人は広い視野を獲得しようと勉学や自己研鑽に励む。さらに上の成功者といえる人たちになると、稚拙なエゴを捨てて、ただ人のために心から何かを為そうとする。これは俺自身が見てきた富豪たちの実像でもあり、紛れもない真実だ。個人差はあれど、成功者はみな少なからず利他的なマインドセットを有しているものなのだ。

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今の世の中で決定的に欠如していること。それは情理を尽くすということではないかと思っている。情理を尽くすとはどういうことか。ネット上のおもだった辞書を牽くと、「当事者の気持ちをよくくみ取り、同時に道理にかなうようにする」こと…とある。我が身の行いを鑑みても、当事者の気持ちをくみ取ること、道理にかなうようにすることさえも能わず、自己中心的な思考になりすぎてしまい、「情理を尽くす」という感覚を忘却しかけていることを自覚してしまう。

 

朝方の満員電車で、あたかも大量生産の特売品を袋に詰め込むかのように背中で人を押し、後ろを振り返るでもなく我先に電車に乗ろうとする人々。確率論で大量にスパムまがいのメールを送信し、具体性のない宣伝文句で人間心理を煽ろうとする不誠実なウェブ上の販売業者。国民や市民の血税によって生かされ安定した生活を謳歌しながら、真に困窮した同朋ともまともに向き合おうとせずに無関心を決めこむ公僕たち…

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核家族やムラ社会の崩壊によって、誰も彼もが譲り合いや相互扶助の心さえ忘れ、利己的な振る舞いが目立つように思える。実際には観光などで訪れた外国人の方がそういった国民性を敏感に感じているようで、国連が2019年度版の世界幸福度ランキングを発表したのだが、トップはフィンランドで、デンマーク、ノルウェーと例年のように北欧諸国が続く。日本は過去最低の58位で、採点の各項目を見ると健康寿命では2位、GDPは24位と上位だったものの、自由度では64位、寛容さは92位と、寛容さが欠けた社会について指摘されている。

 

ある記事では街の声として、いくつかの日本人の振る舞いを例示している。「外国人の方から声をかけられてもスルーしている人がいる」、「SNSでつぶやくのって自由だから、そんなに周りが反応しなくてもいいのかなと。炎上させてナンボっていう人もいる」、「(通勤通学)ラッシュの時に、みんな自分のことしか考えていないのか体当たりとか多いし、線路に財布を落としちゃったことがある。日常の公共の場でのルールが緩くなっているのかなと思う」、「ちょっと(肩が)当たっただけで睨みつけられたり」などなど。

abematimes.com 

他人の行いを許せないのは、自分の心が貧しい証拠。いつしか日本人は、かつての日本人たる美徳を忘却の彼方へ追いやろうとしているようだ。もちろん様々なことに起因するのだが、精神的な余裕を無くし、心のゆとりを持てずにいることが大きな原因ではなかろうか。目の前のことだけを追って固定化された視点は、かぎりなく独善的な価値観にしかフォーカスしなくなる。そういうときは従来の視点から一歩下がって、自分の行いや取り巻く環境を俯瞰することが重要だ。自分のやることに万能感を持ってしまっているのなら、自分という存在のちっぽけさ、無力さを知ることだ。何者でもない自分を理解する。人は生きているのではなく、生かされているのだ。

 

経済的な成功も、自己実現もエゴを捨てることで拓かれる。それはつまり、人との繋がりや贈与の連鎖を知るきっかけにもなる。「自分が、自分が…」という観念から、周囲の人たちに自分が何をしてあげることができるかという世界観の切り替え。それを知ることで、はじめてこの世の不思議が見えてくる。その先に結果としての成功があるのであって、成功ありきの打算では意味がない。浅はかな世界観は絶対に見透かされる。単なる綺麗事のようにも聴こえることだが、目的と手段は決して取り違えてはならないのだ。

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人にあたえようと思うと、人から素直に受け取ることが重要だ。素直に受け取ることができれば、自分が人にあたえるべきものも見えてくる。意外なことに、人間というのは素直に受け取るということがなかなか出来ない生き物らしい。もちろん、ここで「受け取る」といっているのは、物質的な何かをもらい、「ありがとう」と返すことを意味しているのではない。人との繋がりのなかで、自分が影響されている何か、自分が受けている恩恵としての何かを感じ取る、ということだ。
 

この「見えないものを感じ取る」力は決して、霊的な意味だけでなく、運命学的にも意義が大きい。だからこそ、成功者といわれる人たちは神さまとの付き合い方が上手く、また大事にしている人が多いのだ。独善的な思考で成り上がった成功者もいなくはないが、それはかぎりなく天才的な商売勘と時の運によるもので、独りよがりな成功は長続きしない。飛び抜けた才があるわけではない凡人が何かを成し遂げるには、人との繋がりを大切にし、人を動かす、人に動いてもらうということなしには絶対に不可能なのだ。

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だからこそ、自分を取り巻くあらゆる人との繋がりに

情理を尽くせ!

一期一会の人との出会いを無駄にすることなく

情理を尽くせ!!

柔術的思考法 ~人生で大切なことはすべてグレイシーが教えてくれた〜

「グレイシー柔術を学ぶと性格が変わる」…

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俄に信じがたい風説が、海外ではまことしやかに囁かれている。俺自身も文献や資料などを渉猟してグレイシー柔術(※ブラジリアン柔術ではない)を研究するうち、その発想の見事さにすっかり魅了され、それまでの柔術観が180度変わった。グレイシー柔術の考え方は、その根本をきっちり理解することができれば、闘いの原則としてだけでなく、生き方そのものにも適用することができる。そのまま投資格言や成功哲学、人生訓としても活用できる。まさに現代版『孫子の兵法』ともいえる、人生の真理が凝縮されているのだ。

 

そこで日常生活にも使えるグレイシー流の思考のエッセンスを、俺なりの解釈で抽出してみた。ご注意いただきたいのは、ここで披瀝するグレイシーの極意はブラジリアン柔術の発想とは相容れない事柄も含まれるということだ。その相違点はお読みになってみれば一目瞭然だが、ブラジリアン柔術で教えられて「是」とされていることが、グレイシー柔術では「非」となることもある。だからこそ常々云っていることだが、世の中は一つの価値観から見た景色がすべてではないし、違うレンズで世界を見るということも必要なのだ。

 

だからといって、BJJの柔術家諸氏が悲観することはない。大事なことは発想の転換で、ご自身でできていないことは取り入れたらいいだけなのだ。実際にやってみて、今までのやり方との違いを実感してみる。何ごともとりあえずやってみないことには何も進展しないし、行動することに意味がある。未来に生かされない経験など何ひとつないのだ。柔術家の御仁も、それ以外の方も、奥深きグレイシー柔術の世界をご堪能あれ。

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▶まずはウォームアップ

其ノ壱 自分が見ている世界が正しいという認識を捨て、違う価値観を素直に受け入れよう

【解説】ブラジルという新世界でコンデ・コマなる怪しげな東洋人から武術を息子に習わせるという、ガスタオン・グレイシー*1 の英断がなければ、そもそものグレイシー一族が歩んだ軌跡は生まれなかった。凝り固まった思考に囚われることなく、常にオープンマインドで、新しいことに臆することなくチャレンジする。それがGracie Way。自分が知っている世界がすべてだなんて、思わないほうがいい。

 

其ノ弐 ストリートファイトでウォーミングアップが出来るかい?

【解説】グレイシー柔術は、芸術の域にまで高められた究極の護身術だ。ストリートで突如、暴漢に襲われたことを想定して極限にまで磨き抜かれた、生き残りのための技術なのだ。そうした状況ではゴングも鳴らなければ、リングもマットもない。だから、グレイシー柔術の道場では伝統的にウォームアップは行わない。人生も同様に出たとこ勝負だ。いつ如何なるときも、不測の事態に対処できるメンタルを手に入れろ!

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▶Control

其ノ参 エゴやプライドはドアに置いてこい!

【解説】グレイシー柔術の総本山、グレイシー・ユニバーシティとその支部道場には、必ず「LEAVE THE EGO AT THE DOOR」というキャッチフレーズがプリントされた玄関マットが置かれているという。意味は上記のとおりだが、自分主体の思い込みや思い上がりは目を曇らせる。グレイシー柔術の真骨頂ともいえる特徴が、相手や状況をよく観察するということなのだ。言葉にするのは簡単だが、いざ実践となるとなかなか素直には出来ない大切なこと。人生のすべてが学び。謙虚であれ。

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其ノ肆 状況とともに自分自身をコントロールせよ

【解説】よくスパーリングなどで、対抗心むき出しで挑んでくる御仁がいる。同門相手にも鼻息荒く鋭い目つきで対峙しているのを見かけるのだが、そういった敵愾心を向けると因果応報で敵意しか返ってこない。スパーリングはコミュニケーションであって、勝負ではない。スパーリング相手はパートナーだ。コミュニケーションの基本は相手に敬意を払うということ。人と正しく向き合うところから、すでに柔術は始まっている。真に柔術的であるというのは、無駄に力まないということ。いかなる時も自分の心をコントロールして平常心を保て。自分の身体をリラックスさせて呼吸を保て。

 

其ノ伍 リラックスが、大きなパワーを産み出す

【解説】グレイシー柔術の教則ビデオや動画を見てると、しきりに「リラックス、リラックス」というワードが出てくる。相手を無理やり力でコントロールしようとすると、必ず隙や盲点が生じる。打撃系格闘技でも最も効果を発揮するのは身構えた緊張状態ではなく、緩やかにリラックスした状態から放たれるパンチやキックだ。ガチガチに強張ると己の視野を狭め、自ら災厄を招くことになる。長い時間リラックスして最高の状態で動く、これがベストプラクティスなのだ。

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▶Positioning

其ノ陸 絶対にやられないポジションを知り、使いこなす

【解説】グレイシー柔術の「絶対にやられないポジション」こそが、クローズドガードといわれるガードポジションだ。まずはディフェンス。真っ先に自分の安全な生存圏を確保すること。そのポジションではどんな脅威があって、ポジションを利用してどんなことができるのか。常日頃から不断の研究をしておくことが重要。自分の安全を最優先にしてリスクは負わない。相手が何をやってこようとも確実にストップする。そうすると絶対的な安心感と余裕が生まれ、相手を見る力が生まれる。あとは冷静に相手の動きを待つだけ。

 

其ノ柒 ポジションを作ったら動きを待つ

【解説】グレイシー柔術の基本は先に動いたら負け、先に動かしたら勝ち。そのためには今の自分の状況を知って、相手の状況も知ることが大前提。ポジションによって有効な技は変わる。ポジションごとに危険な技を覚えて、それを防ぐテクニックを身につける。相手の技が完成しない最高のタイミングで、隙を突いて仕留める。これがグレイシー柔術のセオリーで、徹底した“後発制人”の思想に貫かれている。すべてを自分の思惑と想定のなかに置くのだ。

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▶Survive

其ノ捌 「上達」とは何かを得ることではなく、手放すこと

【解説】いくつもの技があっても使いこなせなければ意味がない。バリエーションを持っていても、本当に闘う時には決まったことしか出来ないのが人間というもの。グレイシー柔術の秘訣はシンプルさにある。相手が何をやってこようとも、少ない技で直線的に最適解を見出す。持っている技術は少ない方が迷いは生じない。迷わないということは意思決定が速いってことだ。素早い判断ができる頭脳に身体の動きを合わせる。そのためには余分なもの、無駄なものは徹底的に持たない、捨てるということ。力が抜けないのは固執している証拠。持ち手であるグリップすら執着しないのがグレイシー柔術。

 

其ノ玖 大切なのは技術ではなく、技術の使い方

【解説】実はグレイシーの技術にはそれほど秘密はない。だが技術の使い方、考え方にこそ極意が隠されている。現に柔術の技や動きは様々な格闘技に取り入れられている。だけど、テクニックを変化に合わせていかに使えるか。グレイシー一族の強さの秘密はまさにここにある。身体で覚えるというのは、身体で感じる力を身に付けるということ。感じとる力が増せば変化が読める。変化が読めると自分の置かれている状況が理解できる。そうすると自分がやるべきこと、最高のタイミングがわかる。五感を研ぎ澄まし、身体全体をセンサーにして変化を読み取れ。

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其ノ拾 疲れない闘い方

【解説】グレイシー柔術の真髄は、これに尽きると思う。理解しているつもりでも、実際にはなかなか出来ることじゃない。柔術による闘いに必要なのはスピードとパワーではない。自分の心と身体をコントロールして、相手と向き合うことが大切だ。疲れたら自分をコントロールする力が大きく減る。技術を司る判断も鈍るし、ときに思考停止にも陥る。ストリートで思考停止してしまったら、その時点で最悪の場合、「死」をも覚悟しなくちゃならない。最高の状態は余計な力を使わない、リラックスした状態。絶対に疲れないような動き、身体の使い方。これこそが現代社会を生き抜くための、最高の処世術でもある。

 

最後に

自分の得意ジャンル、興味のあることにしか目を向けようとしない御仁は多い。技術だけを覚えて満足してしまうケースも多分にある。でも、大切なことはそこから何を読み取るか、人生という旅路を歩むうえでどう発展させるかを考えないと意味がない。たんに情報を消費してるだけじゃ、そこらの情弱連中となんら変わらない。

生きていく以上は、人は学び続けるしかないんだよ。

Only The Strong Survive!

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*1:原生ブラジリアン柔術の始祖カーロス・グレイシーの父。詳しくは『グレイシー柔術考 ~セルフディフェンスの美学~』を参照のこと

明日を生き抜くために、『世界観』という名の武器を授けよう

世の中は<世界観>で出来ている

映画やドラマみたく、あたかも筋書きが存在するかのような現実の出来事。そんな体験、あんたにはないだろうか。絶対的な何かに支配され、突き動かされているような感覚。それを神と呼ぶか、偶然の導きと取るかはあんた次第だが、いずれにせよ何かに支配され、何者かの絵図の上で踊らされているのは現実の話だ。そう、多くの人間が資本主義社会というシガラミのなかに生き、その束縛から逃れようともがき続けている。

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人は自由を求めて足掻くのだが、自由があるのは不自由さの中だけ。何も欲しがらない自分を欲しがるのではなく、欲しいものが無い境地にある自由にこそ目を向けろ。何かを欲しがり、何かを犠牲にしている時点ですでに自分ではない何者かの奴隷だ。誰にも支配されず、真に自由な生き方を手に入れるには世の中を、世の中の仕組みを因数分解しろ。書店で大安売りされている小手先のノウハウやメソッドを一蹴する、世の中を貫く絶対的な因子を探せ!

 

人は物語が好きな生き物だ。ストーリーを持つ商品に魅惑され、富も名誉も、ありとあらゆる成功はストーリーを持つ人間に引き寄せられる。この事実に目を向けると、世界を支配する因子が見えてくる。筋書きのない人生劇場は、<世界観>と<キャラクター>という2つの要素が大きく物語に左右することが理解できるはずだ。とりわけ自分だけの世界観を築き上げることができれば、これからの時代をサヴァイブする大きなアドバンテージとなる。

 

自分だけの世界観を手に入れろ。

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まずたしからしさの世界を捨てろ

人は曲がりなりに生きてきた数十年という歳月のなかで、人生とはどうやらこういうものらしいという不確かで頼りない感触を支えにして歩み続ける。だが、それはあくまで経験にもとづく妄想で実体験ではない。まだ生起してもいない出来事に対して怯え、リスクを負うまいと萎縮する。だけど、人生というのは思った以上にシンプルなものだ。人生を変える、好転させる選択というのは行動するかしないかの2択だけで、準備も充電もない。Time is Money…即断できない人間にバラ色の未来はない。

 

ア・プリオリに捕獲された世界の意味に問いを発せよ。自分が確かだと思っている世界に疑いの目を向けろ。自分をある限界に制約し続ける妄想の世界から逸脱せよ。現実だと思っていた世界が仮想空間マトリックスで、コンピュータがすべてを支配する悲惨な現実世界に覚醒めてしまった救世主ネオみたく、自らを虚構の日常から解き放て。バラバラに瓦解し砕け散った現実を自らの世界観によって凝視し、新たな世界を構築するのだ。そこから真の自由と成功の物語ははじまる。

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世の中に不満があるなら自分を変えろ

この言葉は『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』というアニメの冒頭部分で語られる印象的な台詞だ。今から10年以上前にはじめて観て以来、頭のなかに焼き付いて離れない。会社、上司、両親、家族、社会…人はとかく外的要因に責任を求めがちだ。しかし現状に不満があるのなら、今の環境に違和感を覚えるなら、まずは自分の意識から変えてみろ。問題の根本を自分の裡に問う仏教の禅思想とも重なり、この言葉はとにかく衝撃だった。環境に不満があるなら自分で変えるしかない。不満を口にしたところで誰かが解消してくれるわけではないのだ。会社に帰属していたときは、そういう気概で出世することのみ目を向けていた。

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同じようなことをアメリカの政治学者、ケネス・ウォルツが言っていることを後に知った。ウォルツは国際情勢を分析する際に、3つのレベルの強さを比較検討して整理することが有用だとしている。個人の関係性を軸にするファースト・イメージ、団体や組織、社会体制の側面から分析するセカンド・イメージ、国家や世界システムといった環境をサード・イメージとして、これら3つのイメージから複合的に物事を見ていくべきだとした。重要なことはこの序列だ。ファースト・イメージである自分自身の見方を変えるだけで、組織、そして世界の見え方まで変わってしまう。つまるところ、まずは自分を変えろってこと。

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奥山真司・著『世界を変えたいなら一度”武器”を捨ててしまおう』より

 

強烈な世界観をつくれ!

今、日本を、世界を席巻しているホットなものを眺めてほしい。USJもディズニーランドも世界観を売っている。アップルも最先端の世界観を作り出している。キンコンの西野亮廣が唱える「貯信時代」もまた世界観だ。羽生結弦やイチロー、桑田佳祐や椎名林檎などアスリートやアーティストが勝負するフィールドは自らの世界観そのものだ。そう、あんたの周囲もすべて世界観で出来ている。世界観をつくれる人は、時代の先を行くリーダーなのである。

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知の巨人といわれる佐藤優が心酔するチェコの神学者、ヨセフ・ルクル・フロマートカの「我々が活動するフィールドは、この世界である。キリストを信じる者こそがこの世界を誰よりもリアルに理解できる」という言葉はまさに真を突いたものだ。宗教こそ最強の世界観だ。確固とした世界観は自分の土俵となるフィールドを与えてくれる。独自の世界観によって創出されたフィールドの上では、自分は唯一無二の存在であり全能者なのだ。つまり…世界観は既存のルールを塗り替える!だからこそ、ならではの世界観は真似できない。

 

コントロールせよ!

人生とは、生き残りをかけた闘いだ。混沌とした複雑系世界におけるサバイバル術を研究する学問が存在する。国家の命運をかけ、魑魅魍魎が跋扈する国際情勢の荒波のなかで究極の生き残りを追求する『国際政治学』というリベラルアーツだ。この国際政治学のなかでもっとも重要視されているのが、バランス・オブ・パワーという均衡状態において他国を「コントロール」する術(すべ)なのだ。自分の優位を維持したまま、生かすも殺すも自在にコントロールする。それこそが覇者たるものの所為であり、絶対的なパワーなのだ。

日本人が知らない世界と日本の見方   本当の国際政治学とは (PHP文庫)

日本人が知らない世界と日本の見方 本当の国際政治学とは (PHP文庫)

 

 

世界観をつくりだすことで、すべてがコントロールできる。時間も、金銭も、人間関係さえも。自分に出来ないことはすべて出来る誰かにやってもらうことができるし、自分の負担に関わらず安定的な収益を生み出してもくれる。世界観はマーケティングとも相性がいい。自分の世界観に共鳴する人とだけ付き合えばいいので、無理に人脈や交友関係を広げる必要もない。大切なことは自分を犠牲にすることなく、いかに環境をコントロールするかということなのだ。これは多くの成功者が実践している極意でもある。

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言葉は力だ。言語が世界観をつくる

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

これは新約聖書中のヨハネによる福音書の、有名な冒頭部分。ここでいう「言」とは神の言葉のことだが、言葉が世界をつくったということを云っている。つい最近たまたまある本を読んで、その意味を思い知らされた。巷で話題になっているROLAND(ローランド)なる元ホストの名言集なのだが、彼は言葉を武器に、自在に操ることでその世界の頂点にまで昇りつめた。何かとその発言が注目される人のようだが、この本には彼の考え方と生き様が凝縮されており、その一端を以下に抜粋しておく。

 

年齢はどれだけ生きたかは教えてくれても、どう生きたかは教えてくれない

たくさん嘘をついてきたけれど、自分に嘘をついたことはないね。一度も

ヴェルサイユ宮殿行ったら、観光じゃなくて内見だと思われないか心配だなぁ

反骨心が俺の恩人であり相棒さ

先の見えない人生が怖いって?俺は先が見えてしまった人生のほうがよっぽど怖いね!

俺か、俺以外か。 ローランドという生き方

俺か、俺以外か。 ローランドという生き方

 

 

たんなるナルシストの勘違い野郎とは一線を画し、計算され尽くしたウィットを惜しげもなく散りばめた、文学者顔負けの珠玉の箴言ぞろいだ。彼にとって言葉とは、芸術品のようなものだという。言葉ひとつで人生が変わったり、明るい気持ちにも嫌な気持ちにもなったりする。奥深き芸術の世界の産物なのだと云っている。彼が生涯をかけて扱っている主題こそが世界観だ。言葉が世界観をつくる。正直イロモノと思って手に取った本だったが、生きてく上でのヒント満載で、下手な自己啓発本よりもよっぽど役に立つ。ちゃんと勉強してるよ、この人。

 

※余談だけど件のローランドが、売れていない若手ホストを売上1000万円の売れっ子へとプロデュースする企画番組がめちゃくちゃ面白い。どうやって出演者のキャラクターを作っていくか、自分自身を商品として語られるNo.1ホストの“売れる”極意は、まさにその人自身の『世界観』に尽きるのだ。てか、ローランドの人間的魅力たるや半端ねえなぁ…

 

世界を見つめる眼差しを養え

世界観をつくるために何を為すべきかについて書いておこう。世界観が言葉で出来ている以上、言葉の扱い方や語彙を学ぶ必要があるだろう。そのためには出来るかぎり、様々な分野の書物を読むことだ。どのような人がどのようにして世界を見つめ、そしてどう表現しているか。ジャンルに関わらず様々なレンズをとおして世界を見る、という訓練が必要だ。

 

そうした複眼的な言語空間を拡げるとともに、日頃から芸術作品に触れておくことも重要だ。世界観をつくるのが言葉なら、世界観に奥行きを出すのは想像力やデザインセンスだからだ。言葉だけの世界観は、独りよがりな唯我独尊に陥りやすい。まずは拙著のこんな分野から勉強してみるのも面白かろう。 

www.sandinista.xyz

 

最後に一番大切なもの、それは愛だ。愛がなければ誰もその世界観に共感してはくれない。愛のない世界観はハリボテの虎だし、あんたの世界観に共鳴する人たちへの愛も必要だ。愛こそすべて。何を「成功」と定義するかにもよるが、その成功が自分だけのものであってはならない。自分ではない誰かにベクトルが向いていない世界観など、世界観ではないのだ。あんたの世界観が実現する未来を、ぜひ俺にも見せてほしい。

 

くそったれの世界に、愛をこめて花束を。

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成功者たちの資本論 ~大富豪の知られざる生態~

野暮ったい個人的な話で恐縮だが、仕事柄、いわゆる成功者といわれる人たちを顧客に持ち、あらゆるタイプの資産家や企業家たちと接してきた。

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と同時に、将来的に顧客となり得るような、成功を志す若者や資金を必要としている起業家などに対して相談にのったり、実務支援を行ったりと、インキュベーションと云うとおおげさではあるが、人生の岐路にある人たちに向けて幾ばくかの選択肢を提供したりもしている。成功者とポスト成功者、この双方を見ているからこそ見える世界、というものが存在する。世の中には所謂「成功」ノウハウが溢れ返っていて、ポスト成功者たちを食い物にするようなコバンザメ商法がそこら中で横行している。食い物にする方もする方だが、される側もされる側でどちらの行動も健全な思考による所産でなない。

 

より良い生活をもとめて、より欲望を満たすために、人が金銭を求めるのは自然なことだ。だが、お金に対する教養を持たないままに大金を得たところで、彼の人生の先にはけっして幸福が待っている由もなく。手段であるはずのお金が目的化した結果、世の中すべての事物や事象を金額という尺度でしか測れないような物哀しい人生を歩む人たちも実際に少なくない。増殖し膨張する資本の魔力に人が魂を惹かれているかぎり、金が悲劇を生み続けるのだ。

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俺自身も過去には漠然と成功者を志していたし、だからこその失敗も経験した。自らのキャリアを年俸という評価軸でしか考えていなかったこともあるし、そういう世界に嫌気がさして、厭世家気取りで経済社会に背を向けた時期もある。でも、だからこそ「お金」というものの重要性、扱い方の本質が理解できるし、それを供給・運用する仕事を生業にして多様な人たちと出会うことに繋がったのだ。かつて吉本隆明が世界認識の方法として古典経済学を選び取ったように、今も様々な観点から資本主義の考察を続けている。現代に生きる俺たちはお金というものから目を背けてはならないのだ。

世界認識の方法 (中公文庫)

世界認識の方法 (中公文庫)

 

 

俺が日常的に接している資産家、起業家たちの行動は結果的に、ファイナンス理論などアカデミックな視点から見ても理に適った、合理的な意思決定が瞬時に為されていて、常に理路整然とし思考に一点の淀みがない。頭が澄みきっているのだ。だから、提案されるものに対して最初から迷いがない。決断も早い。彼らが決まって云うセリフは「シンプルに考える」ということだ。その言葉どおりに彼らの日常は実にシンプルなものだし、手がけるビジネスもシンプルに構築されたものであることが殆どだ。彼らにとっての選択は、“やる”か“やらない”のどちらかだけなのだ。結局のところお金儲けに幾つもの手段がないように、世の中の真理というのはシンプルなのだということを思い知らされる。

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そもそも世の多くの人がお金儲けということに対して大きな誤解を持っている。大きなお金を動かすには必ず取引が必要で、お金を介した取引を商売という。商売は世の中に価値を提供する、つまり提供された価値によって人に喜んでもらうことが本質なのだ。ここには必ず正のスパイラルが働いていて、表面だけ取り繕った杜撰な似非ビジネスや背徳的な商売は必ずいつか破綻するので、永続的な利益にはなり得ない。悪貨は良貨を駆逐するというが、実際のダーティー・マネーは資金洗浄にも膨大な手間とリスクがともない、市中に流通することはない。

 

様々なビジネスモデルやマーケティング手法がクローズアップされ、自称トップマーケターなる人たちが派手な宣伝文句によってネットの片隅や紙面で煽り立てているのだが、マーケティングを成立させる要素もそう多くはない。要は商品と顧客があって、多くの顧客を喜ばせられる商品を持つか、喜んで財布からお金を出してくれる顧客を見つけるかの概ね2つに一つなのだ。大富豪のマーケティングというのは、如何にレバレッジをかけて価値を享受する人の数を最大化するかということにフォーカスして頭を回転させている。

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美しいまでにシンプルな公式のなかに生きる彼らと、凡人とを隔てるものは一体なにかということが重要だが、最近になってようやくそれがはっきりと分かってきた。なんの変哲もない1本の鉛筆はよほどの緊急性がないかぎりは要らないが、ビル・ゲイツがこの鉛筆を売るとなると多くの人間が買い求めることになろう。お金や商品をあつかう「」が違うのだ。抽象的な概念を持ち出して恐縮だが、人は自分の器以上のお金を持ち続けることができないという決定的な真実がある。宝くじの高額当選者の7割が5年以内に破産するといわれるのも、器が小さいまま大金を持ってしまったがための不幸なのである。

 

では器の大きさを決めるものは何かということなのだが、成功者たちはほぼ例外なく「言葉を操る」のである。簡単に言葉を操ると云ってしまったが、言葉を操るということは非常に難易度が高い。口達者など、言葉巧みな人間を云っているのではない。そういう人間は得てして言葉に操られている。だから、言葉に重みがなければ誠実さも感じさせない。だが言葉を操ることができる人が発する言葉はとても真摯で、落ち着いた佇まいのなかに静かな炎を宿しているものだ。それは人生経験から来るものもあれば、情熱や想いによって感じるものもある。なにはともあれ言葉を従えて、適切な言葉で、適切な表現ができることが器の大きさを決めるのだ。

言霊の思想

言霊の思想

 

  

言葉をいかに扱うかでお金を扱える器も決まる。これは重大な真実だが、もう一つ、最近感じさせられることがある。それはお金というものが、目に見える「エネルギー」や「氣」の一種なのだということ。つまり、お金が「氣」の一種である以上は引き寄せるものであるということ。いきなり話がオカルト的な方向に飛躍してしまったが、これもまた紛れもない事実なのだ。お金は多いところに集まる、というのは通説として知られていることだが、お金もまた意思を持ったエネルギー体であるからこそ、このように云われ、また大富豪には信心深い人が多いという事実が存在するのだ。彼らの多くが日々、徳を積む生き方を実践しているのはその証左なのだ。

 

東洋で「」と云われるエネルギー体は、西洋の人智学やヒーリングの世界では「エーテル体」や「アストラル体」とも云われ、生身の身体(ボディ)に纏うもの、纏い調和するものとして知られている。これは見えない世界の産物ではあるが、スピリチュアル世界に通じている人にとってはコントロールできるものでもある。そして、成功者たちはそれを明確にコントロールする術(すべ)を暗黙的にも、体験的にも体得している。それは単純な「金運」というような天任せな発想などではなく、掴みとるものであることが彼らをとおして俺には見えるのだ。 

成功している人は、なぜ神社に行くのか?

成功している人は、なぜ神社に行くのか?

 

 

お金がエネルギー体である以上、それは確かにPOWER(パワー)なのだ。その圧倒的なパワーの前に抗うこともできず、堕ちていくだけの人生は虚しすぎる。できることなら、そのパワーを追い風にした人生を歩むべきだろう。時の天下人、織田信長は実際の戦争における勝率では武田信玄や上杉謙信などと比較すると見劣りするほどに負け戦が多かった。しかし結果的に天下を手中にできたのは、金銭を庶民の下賤なものと決めつけ、金が宿すパワーを見誤っていた他の大名とは対照的に、そのパワーを大いに利用し支配したからだ。

 

もちろん成功者すべてが聖人君子のように、清く器が大きいわけではない。だが、しかし少なくとも自らの顧客としてお付き合いさせていただく資産家の多くは、品行方正な方が殆どで、上述したような傾向が確かに見てとれる。俺らがこれからもお金を稼ぐ、より多く手に入れていく努力をする上で大事なことは、一にも二にも彼らのように謙虚であれということをおいて他にはないのだ。それを前提にお金を引き寄せる教訓を示すと、次の3点に集約されるだろうか。

  1. 物事はシンプルに考えよう
  2. 言葉は大切に
  3. 神さまとのお付き合いも大事

 

今後もこのテーマは書いていく所存也。

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人生は、運よりも実力よりも「自分を(!)勘違いさせる力」で決まっている

社会現象となった『進撃の巨人』作者の諫山創が、テレビで興味深いことを云っていたのを思い出した。曰く、

「(進撃の巨人は)ある結末に向かって進んでいく物語なんで、今は早く終わらせた方が。作品のためにも、全体の作品の質のためにも。できるだけ早く終わらせた方がいいと思います。」

tvpalog.blog.fc2.com 

物語ることの本質を突きながらもなんて哀しい言葉なのだろう、と思った。はじまると同時に結末へと向かう儚さ。切なさ。空虚感。書くと同時に終わることが宿命づけられ、あたかも人生のようでもある。人は何故に「物語」をおもしろいと思うのか。それはあきらかにどこに向かおうとしているのか知らないからだ。これから起こるべくして起こることが解らないからだ。対象についての知識が欠如しているのだ。

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すべてを知ってしまっている、結末がわかっている物事ほどおもしろくないものはない。録画されたスポーツ中継になぜか臨場感を感じないのは、すでに決定された物事を繰り返しているに過ぎないからだ。

 

だから、無知であることは決して恥ずべきことではない。それはなにより幸せなことでもあり、物事を楽しむための態度のひとつなのだから。知っていることとの差分が大きければ大きいほど、これから楽しむことのできる余地は大きい。だから物事をよく知っているということは、ある意味では楽しむことのできる余地が少ないということでもあり、不幸なことでもあるのだ。知識を持てば持つほどにエリート意識が生まれ、枠組みやしがらみにとらわれてしまうのもまた事実で、斬新さや奇抜さといった自由を失うことにもなりかねない。

 

文章を書く、物語を紡ぐという営為においても同じことが云えると思う。実は俺の場合、いつも記事を書くときに結論を先に導くことなく書いている。だから書く前からどこに着地しようとして書いているのか俺でさえ知らない。意外に思われるかもしれないが、概ねなんとなく書いてみたいトピックと関連しそうなエピソードや知識だけを携えて、ほぼ見切り発車で書きはじめているのだ。書きながら考える。だからこそ、書き終えたと同時に自分が知らない自分としばしば向き合うことになる。俺にこんなことが書けるんだ、という新たな発見がいつもある。これは以前に知の「即興」について語った記事『improvisation ~思考の導火線~ - Jitz. LIFESTYLE』に深く通じている。

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まるで何かが降りてきたかのように不意に閃いたり、憑依されたように別の何かの力に導かれるが如く書くということもある。所謂、文学と娯楽作品を分けるものがあるとするならば、それはまさに筆者自身にとって未知なる物語を紡ぎ出すのか、はたまた既に決定された筋書きを繰り返しうるのかというスタンスにあるのではなかろうか。それを示すように作家・高橋源一郎は著書『一億三千万人のための小説教室』で、次のように書いている。

しかし、同時に、小説には非常に不思議なところがあります。それは、小説というものが、いちばん深いところで「未来」に属しているということです。

いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています。わたしは、人間という、この宇宙に偶然生まれた、不思議な、けれども取るに足らない存在にとりついている本能、その中でも、もしかしたらその点によってだけ、他の存在と区別されているかもしれない本能、「ここではないどこかへ行きたい」「目の前にあるその壁の向こうに行きたい」という本能が、小説を(広くいうなら、その母胎である「文字」を)産んだと思っています。ならば、それは、人間の存在と共に古いものです。

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

 

高橋は小説という普遍的な事象をとおして熱っぽく遠大なテーマを導出しているわけだけど、そこで問題になるのが人間の運命は運命論的に既に決定されたものなのか、それとも未知なる道を切り拓く自由なものか、という古くからある命題だ。多くの哲学者や知識人によって今も議論が為されている人類最大の命題。物事の生起は必然か、はたまた偶然なのかということともリンクしてくる。

 

これに対して明確な答えを出すことは、当然のことながら今の俺にはできない。でも、できることなら人間は未来を自らの手で切り拓く自由な存在であると信じたい。だからこそ、人生という物語は楽しむ余地が大きいものだと思うこともできるし、まだまだ自分が知らない自分とも出会える。自分自身を更新することだってできるだろう。物事は起こるべくして起こり、出会うべくして出会うというのもまた事実なのだが。

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ビジネス界隈で自分の得になるような他人の勘違いを「錯覚資産」と定義し、他人の認知バイアスを利用して「錯覚資産」を増大させる人が得をしているとして、実力主義社会の欺瞞を暴いた『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』という本が話題を呼んでいるようだが、ある意味では的を得た内容だと思う。というのも、このブログでも再三申し上げていることだが、自分が歩んできた人生や世の中の流れを「文脈」に置き換え、いかに自分の存在意義や役割を物語の中に位置づけるかという、云うなれば「文学力」とでも呼ぶべき物語構築力が、今後ますます重要になってきているからだ。俺が云う「文学力」とは、まさに自分自身を勘違いさせる力、「自己陶酔できる力」でもあるのだ。

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すべからく世の中にネットが張り巡らされた現代社会、あらゆる知識やノウハウといったものが断片化した結果、体系をなしていた筋ともいえる縦糸がことごとく分断されてしまった。たとえば何か気になる言葉があったとして、多くの人はまずネット検索にかけるだろう。そうしてヒットした断片的な言葉の集積によって、あんたのデータベースはつまみ食い的な継ぎ接ぎによって形成されることになる。従来は知識を得るために本を媒介し、理解を深めるのに注釈からまた別の本を参照することで体系が紡がれ、データベースが形成されていたのだ。

 

情報と情報を繋ぐハブとしての知の体系。世の中を貫くそうした縦糸が希薄化しつつある今、一本筋の通った「物語」を創り出す力が重要になる。人間というのは本質的に物語が好きなのだ。だからこそ、小説にも一定の需要がある。ここから先、なにをするにしても「文学性」が求められる時代であることを明記したいと思った。フィクション(物語)は「戦略」なのだ。

 

※この記事は云うまでもなく『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている - 第一章 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ』に対するパロディであり、オマージュだ。先方さんに「あんたの本のタイトルとイラスト、パクられてるよ」なんて無粋な告げ口は、どうかご容赦願いたい。

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想像力の時代 ~ブログ3年目を迎えるにあたって~

このブログも足掛け2年(半年ほどの中抜けがある)が過ぎ、3年目に突入する。よくもまあ、三日坊主な俺がここまでコンスタントに書き続けてるよなって印象だ。年末年始を前にして早くも総括かよってとこはあるのだが、ひとつの節目なのは確かな話で。執筆者としての考え方と今の実感を述べておきたいと思った。

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現時点で書いた文字数は約24万文字で、単行本にして2.5冊分ほどの文章量にもなる。こんな文字、文字、文字だらけで、あらゆる方面にテーマがとっちらかったブログを読むヤツいるのかと思ってもいたが、最近になり仕事関係や柔術の同門の方なんかで「読んでるよ」って御仁もポツポツと現れはじめている。皆さん、筆者の想像以上によく読んでくださっていて、ありがたいかぎり。

 

実は15年ほど前にもビジネス系のブログを書いていたことがあり、ちょっとした名物ブロガーでもあったんだが、当時の状況から考えてもブログを巡る環境が大きく変わったなというのが大きな実感だ。自分自身が一度ビジネスから身を引いたことで、一からのスタートになったのも影響してか、圧倒的にプレイヤー数が増えたことで過去のようには注目もされない、まさに場末のブログの如くひっそりと書かせていただいている。否、これは僻みや嫌味なんかではなくて、まさに俺自身が望んでいた環境なのだ。もはや多くの人の目に触れることよりも、少数でもちゃんと理解して精読してくれる読者の存在。それが一番の救いであり、最大の幸福ですわ。

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これだけとっちらかったように見える思考の残骸も、毎年、隠しコマンド的にテーマ設定をしたうえで書いている。初年度は物事を一義的に捉えるのではなしに複眼的な視点を持つことの重要性を、そして2年目は一見してバラバラのように見える事象も人間を媒介にすることで実は根は同じもので、すべてはひとつに繋がっているんだということ。簡単な話が例えば「読む」と「書く」、さらに「翻訳する」ということは、出力の仕方は三様に違えど同じ中枢を共有しているのではないか、という問題提起だったのだ。

 

このブログは今、大きく2つの方向に舵を切っているように見える。短絡的に物事を捉える御仁は「武術」と「芸術」という、一見相反しそうなトピックを扱ったブログだとお考えになるだろう。表面的には正しい。でも、俺にとってこの2つの物事は「生きる」という生存活動において言語化こそ容易でないにしても、明確につながった一連の事象なのだ。さらに最近また新たな視点を獲得しつつあるので、大きなトピックとして3つ、4つの方向性から文章を書いていくことになるだろう。それでもなお、問題意識として「生きる」うえでの術(すべ)という、根は同じものを扱っているのだ。それを延々と説明することが、この雑文ブログの使命ともいえる。

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そーゆー意味では、俺自身が今もっとも関心を注ぐ「グレイシー柔術」について大きく紙面を割いてはいるが、執筆者として読者に想定しているのは「柔術に興味のない」未経験者や「柔術の思想的背景や歴史を知らない」初心者だ。違うトピックで流入した非格闘クラスタの人が、このブログに書いている俺自身の気づきや知識に触れてもらうことで、一人でも多くの人が柔術の世界により深く足を踏み入れてくれることが望外の喜びなのだ。その逆もまた然りで、柔術関連の記事で流入した人が柔術以外のトピックに興味をもってくれること。それこそがこのブログが標榜する「生きる術」を手に入れる、ということそのものなのだ。一芸の道にしか通じていない人は、厳しい言い方だが生存術を持ち合わせていないに等しい。

 

そこで数少ないとはいえ、親愛なる読者諸氏に期待するのは、ぜひ「想像力」を働かせてほしいということだ。ずばりイマジネーションである。アーティストと云える職業ならばそれこそ必須といえる能力だが、これからの時代をより良く、より豊かに生きるためには、芸術家のみならず、実務家、格闘家を問わず、あらゆる生業に必要な要素が想像力だと云える。写真や小説、料理、柔術も然りだが、自らを構成する経験や技術というデータベースから出力される活動の産物は、それはどんなものであれ「表現」なのだ。

 

意外かもしれないが、格闘家も基本的に自分が最強であることを試合で表現している。だからこそ、プロレスラーの武藤敬司が自らの試合を「作品」と称し、MMAファイターである青木真也は「オレ以上の作品は他の格闘家には作れない」*1 とも豪語するわけだ。とくに青木にいたっては、プロ格闘家が原石を発掘し代理選手を競わせる人気番組『格闘代理戦争』での自身の役割について、「小説を書いてるイメージ」とも語っている。この心境はよく理解できる。

 

おこがましいことを承知で申し上げるならば、例えばの話、自分を表現するストーリー(独自の思想や美学、こだわり等)を持ち合わせていない、またはストーリーの弱い御仁と柔術でスパーリングしても存外面白くないものだ。その人ならでは、といえる技やシチュエーションがあってこそ駆け引きの応酬となり、如何に攻略するかという戦略性も増す。格闘技はまさに身体をとおした会話であり、身体性の「文学」と云えるのだ。誰であれ、格闘は人生の一部なわけで。

 

“武器”と云い換えてもいいが、自らを語れるストーリーがないと入力が機能しなくなるような事態をも招く。ストーリーを持っていればこその蓋然性や新たな発見、刺激が生成されなくなるのだ。翻って想像力を駆使すれば、ならではの美学を発見することができるし、トレーニング・パートナーと新たなストーリーを創発できるようにもなる。単純に強い・弱いの話じゃない、表現しているか・していないかの問題なのだ。自分自身をストーリーの中に位置付けるには、柔術の大まかな出自や流れを知らなければならない。俺が書いてることは、そーゆーことだ。

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想像力を働かせることで、こんな思考実験もできる。もしその人をその人たらしめるものが記憶だとするならば、こんな駄文を掻き集めたブログでも書けば書くほどに、思考と記憶の集積としての価値が増すことになる。文字数が増せば増すほどに近い将来、発達したAIがブログに搭載される日が来たならば、このブログもサイバースペース上にアバターとして人格を宿すようになるのではないか。あたかも押井守的な発想ではあるが、今の技術力から鑑みるとそう遠くない未来に、現実のものとなる様を想像するに難しくないはずだ。

 

想像力の重要性をつらつら書いてきたのだが、想像力はあらゆる分野に適用できる。この能力をビジネスで発揮すれば、それは立派なビジネスプランになるし、ダイナミックなマーケティング戦略を描くこともできる。言い方をかえれば想像力とはフィクション力でもある。どういう物語を紡ぐかで、その分野における可能性を最大化してもくれる。想像力を要さない分野にこそ想像力を、そしてフィクションを持ち込むこと、それこそが想像力の威力を極限化し、加速度的に事業スピードを増幅させるのだ。そこらへんの話は以下の記事にも詳しい。

www.sandinista.xyz

 

これからの1年のキーワードのひとつが「想像力」になることは間違いない。俺もそんな想像力を駆使して、あんたの想像力をより掻き立てるような記事を書いてくつもりだ。年末までにいくつかの大型論考も用意している。

 

そんなわけで、3年目もどうかよろしく。

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幸セノカタチ

年末の世間的なご多分に漏れず、喧騒の中をいろんな人たちと酒席を共にしてもらっている。様々な人の話を聞いてその人生を垣間見るにつけ、つくづく幸せのかたちって人それぞれだなって思う。子供が出来たやつ、まだ結婚してないやつ。趣味に生きる人、仕事にすべてを捧げる人。ぶれない男、キレる女。ほんと、人生いろいろだ。

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昔、学生時代に社会勉強で水商売やってたときのこと。店の常連だったクラブホステスの女の子がいて。ハキハキとした性根のいい子でさ。ある日突然、その子の彼氏が店に乱入してきて自分の彼女をボコボコに殴りはじめた。俺ら店の男が束になって彼氏の暴行を止めはしたが、その女の子は血が出るまで殴られてなお幸せそうにずっと微笑んでいた。絵に描いたような歪んだ愛のかたちを目の当たりにした瞬間だったけど、それから約20年を経た今でも信じられないような形式の幸せを求める人間、享受しようとする人間を見続けている。

 

話があらぬ方向に行きそうなので本筋に戻すと、幸せを求めることが普遍的な人間の性(さが)であるとするなら、その幸せの受け取り方もまた人それぞれだ。なにを今さら至極まっとうな正論を、とお叱りを受けそうだけど。この手の寓意によく持ち出されるのが「アリとキリギリス」の話だ。蟻は冬の食料を蓄えるために夏は働き続け、そのころキリギリスは幸せを謳歌して過ごす。やがて冬が到来してキリギリスは食べ物を探すけど見つからず。最後は蟻に食べ物を分けてもらおうと懇願するが、蟻は拒否してキリギリスは飢え死にしてしまうというイソップ童話のあれ。

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要は「将来への備えを怠るな」という戒めなんだけど、どうも幸せを求める人たちにも「蟻」と「キリギリス」タイプに二分されるんじゃないかって酒を飲みながら考えさせられた。どういうことかというと、仕事をバリバリこなしているタイプの人たちは決まって一様に「早くリタイアするため、後で楽するために今を頑張る」ってことをおっしゃる。対照的に趣味やらライフワークやらでマルチタスクをこなしてるタイプの人は「今という瞬間を楽しむためにも新たな挑戦をする」という気概をよく口にされる。かく言う俺自身も後者のタイプであることを自認している。

 

多少でも何かを犠牲にしながら将来により大きな幸福を享受するのか、それとも小さな幸せを積み上げながら日々の充足度を上げていくのか。この問題は人それぞれの価値観の根幹にあるもので、職業選択や結婚など人生の大きな決定にしばしば顔を覗かせる。たとえば前者のタイプは大人になってから「勝ち組」になるべく幼少の頃から明確な目標を見据え、遊ぶことを犠牲にして勉学に励む。後者のタイプはあらゆる興味の対象から目を逸らさず、ある程度の好奇心が満たされるまでは自身の制約の中で可能な限り並行させ可能性を開花させようとする。「今出来ること」と「今しか出来ないこと」は決定的に違う。この2つの価値観いずれかが俺らの人生を支配していると言っていい。

 

一般的には現在を生きている俺らにとって、幸せの価値は未来になればなるほど小さくなっていく。そこに時間価値という概念を持ち込んで、期待収益率によって「将来価値」を最大化しようと考える蟻さんに対して、キリギリスは最低限の将来価値をヘッジしながらも割り引いて「現在価値」を最大化しようというのがファイナンス理論の発想法である。経済合理性に照らすと将来の不確実性がかぎりなく高い現在の社会情勢下では、きちんと現在価値に割り引いて資産価値を考えるDCF(Discounted Cash Flow)の適用が必須で、キリギリスに分があるようにも思えてしまう。

 

フロイト的に解釈すれば、おそらくそれぞれの価値観はその形成過程に受けたなんらかの心的外傷に起因するんじゃないかって個人的に考えたりもする。前者の蟻はマゾヒスティックなまでに何か打ち込もうとする労働への渇望とそれによって充足感を得ようとするナルシズム、後者のキリギリスはときに独善的すぎるエゴイスティックな振る舞いと楽観的とも解釈できるヘドニズム(享楽主義)。それぞれがそれぞれに固有の精神病理を抱えている。だからこそ両者の考え方が相容れることはなく、ブルジョワジーvsプロレタリアみたいな構図の大きな物語がこの世から消えて無くなることはない。

 

実はこのような決定的な価値観の違いが資本主義社会における経済原理を動かしていて、絶えず両者がせめぎあい、結果として“持てる者”と“持たざる者”を生み出している遠因かもしれない。そう考えると歴史を海と陸という2つのエレメントによる覇権争いとして相対化した地政学のように、精神分析的アプローチから経済史を捉えられるかもしれない。そんな逡巡を繰り返しながら、翌朝には飲んだことを後悔するいつもの習慣。まさに因果だな。

 

たまにはオチもなにもない、消えてしまいそうに漂う思考の断片を情報の海に投げ入れてみてもよかろう。年の瀬に愛を込めて、Adiós, amigo!

露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析

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道具としてのファイナンス

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