近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

幸セノカタチ

年末の世間的なご多分に漏れず、喧騒の中をいろんな人たちと酒席を共にしてもらっている。様々な人の話を聞いてその人生を垣間見るにつけ、つくづく幸せのかたちって人それぞれだなって思う。子供が出来たやつ、まだ結婚してないやつ。趣味に生きる人、仕事にすべてを捧げる人。ぶれない男、キレる女。ほんと、人生いろいろだ。

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昔、学生時代に社会勉強で水商売やってたときのこと。店の常連だったクラブホステスの女の子がいて。ハキハキとした性根のいい子でさ。ある日突然、その子の彼氏が店に乱入してきて自分の彼女をボコボコに殴りはじめた。俺ら店の男が束になって彼氏の暴行を止めはしたが、その女の子は血が出るまで殴られてなお幸せそうにずっと微笑んでいた。絵に描いたような歪んだ愛のかたちを目の当たりにした瞬間だったけど、それから約20年を経た今でも信じられないような形式の幸せを求める人間、享受しようとする人間を見続けている。

 

話があらぬ方向に行きそうなので本筋に戻すと、幸せを求めることが普遍的な人間の性(さが)であるとするなら、その幸せの受け取り方もまた人それぞれだ。なにを今さら至極まっとうな正論を、とお叱りを受けそうだけど。この手の寓意によく持ち出されるのが「アリとキリギリス」の話だ。蟻は冬の食料を蓄えるために夏は働き続け、そのころキリギリスは幸せを謳歌して過ごす。やがて冬が到来してキリギリスは食べ物を探すけど見つからず。最後は蟻に食べ物を分けてもらおうと懇願するが、蟻は拒否してキリギリスは飢え死にしてしまうというイソップ童話のあれ。

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要は「将来への備えを怠るな」という戒めなんだけど、どうも幸せを求める人たちにも「蟻」と「キリギリス」タイプに二分されるんじゃないかって酒を飲みながら考えさせられた。どういうことかというと、仕事をバリバリこなしているタイプの人たちは決まって一様に「早くリタイアするため、後で楽するために今を頑張る」ってことをおっしゃる。対照的に趣味やらライフワークやらでマルチタスクをこなしてるタイプの人は「今という瞬間を楽しむためにも新たな挑戦をする」という気概をよく口にされる。かく言う俺自身も後者のタイプであることを自認している。

 

多少でも何かを犠牲にしながら将来により大きな幸福を享受するのか、それとも小さな幸せを積み上げながら日々の充足度を上げていくのか。この問題は人それぞれの価値観の根幹にあるもので、職業選択や結婚など人生の大きな決定にしばしば顔を覗かせる。たとえば前者のタイプは大人になってから「勝ち組」になるべく幼少の頃から明確な目標を見据え、遊ぶことを犠牲にして勉学に励む。後者のタイプはあらゆる興味の対象から目を逸らさず、ある程度の好奇心が満たされるまでは自身の制約の中で可能な限り並行させ可能性を開花させようとする。「今出来ること」と「今しか出来ないこと」は決定的に違う。この2つの価値観いずれかが俺らの人生を支配していると言っていい。

 

一般的には現在を生きている俺らにとって、幸せの価値は未来になればなるほど小さくなっていく。そこに時間価値という概念を持ち込んで、期待収益率によって「将来価値」を最大化しようと考える蟻さんに対して、キリギリスは最低限の将来価値をヘッジしながらも割り引いて「現在価値」を最大化しようというのがファイナンス理論の発想法である。経済合理性に照らすと将来の不確実性がかぎりなく高い現在の社会情勢下では、きちんと現在価値に割り引いて資産価値を考えるDCF(Discounted Cash Flow)の適用が必須で、キリギリスに分があるようにも思えてしまう。

 

フロイト的に解釈すれば、おそらくそれぞれの価値観はその形成過程に受けたなんらかの心的外傷に起因するんじゃないかって個人的に考えたりもする。前者の蟻はマゾヒスティックなまでに何か打ち込もうとする労働への渇望とそれによって充足感を得ようとするナルシズム、後者のキリギリスはときに独善的すぎるエゴイスティックな振る舞いと楽観的とも解釈できるヘドニズム(享楽主義)。それぞれがそれぞれに固有の精神病理を抱えている。だからこそ両者の考え方が相容れることはなく、ブルジョワジーvsプロレタリアみたいな構図の大きな物語がこの世から消えて無くなることはない。

 

実はこのような決定的な価値観の違いが資本主義社会における経済原理を動かしていて、絶えず両者がせめぎあい、結果として“持てる者”と“持たざる者”を生み出している遠因かもしれない。そう考えると歴史を海と陸という2つのエレメントによる覇権争いとして相対化した地政学のように、精神分析的アプローチから経済史を捉えられるかもしれない。そんな逡巡を繰り返しながら、翌朝には飲んだことを後悔するいつもの習慣。まさに因果だな。

 

たまにはオチもなにもない、消えてしまいそうに漂う思考の断片を情報の海に投げ入れてみてもよかろう。年の瀬に愛を込めて、Adiós, amigo!

露出せよ、と現代文明は言う: 「心の闇」の喪失と精神分析

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道具としてのファイナンス

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