近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

人は「言葉」を獲得するために旅をする

人は旅をする。だが、その旅はどこかに在るものではない。旅は旅をする人が作るものだ。

 

紀行文学の金字塔『深夜特急』の誕生前夜からその後まで、生成変化の<旅>論を収めた『旅する力』の序章で沢木耕太郎が語っている言葉だ。沢木によると、だいたい26歳前後で一度、人は放浪欲に駆り立てられるのではないかとも語っている。しかし人は年齢を重ねるにつれ、旅への希求を深めていくのではないか、とも個人的には考えている。なぜかというと、人は新たな言葉を獲得するために「旅」をするからである。

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のっけから観念的になってしまっているが、そもそも「旅」とは何なのか。この問いに対する答えは、人の数に比例して無数に存在する。では、こう考えてみてはどうだろうか。「旅」と「観光」を隔てるものは何か、と。近年、サブカルチャー研究で知られる批評家の東浩紀は観光客の哲学を夢想し、観光を社会性と結びつけ、21世紀のあるべき生き方を模索しているが、「観光」というとなにやら受動的な印象を受けてしまう。旅行代理店によって移動手段や宿泊先をセッティングされ、お決まりの観光名所を巡る。必要以上に現地に干渉する必要もない…自分以外の第三者によって画策された旅程に便乗する旅。それが観光のように思える。

 

対して「旅」は、主体的に旅先の人や自然に関わることで選択的に作っていくもの、という印象がある。もちろん最初から目的やテーマを決めて行く「旅」もあれば、無目的に彼の地を放浪し、行きあたりばったりのハプニングも楽しむロードトリップもまた、昔から人を惹き付けてやまない「旅」の形態のひとつだ。しかし、やはり旅には他人のお仕着せや作為などではなく、自らの意思で手にする自由の萌芽というべきものがたしかにあるのだ。それは何者にも束縛されない、通過者としての自由が。

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旅人は自国の論理に支配されない、バガボンド(漂流者)としての開放性を味わうために旅を繰り返す。資本主義社会に内在した矛盾と呪縛から逃れるために、一匹の漂流者として世界を徘徊するのだ。人は守るべきものができた時点で「旅」をやめる。そういう意味では旅は常にリスクと隣合わせの行為ともいえる。そもそも古代や中世における旅といえば、聖地巡礼が一般的だった。過酷な道程こそが神の与えた試練であり、苦難の先にこそ救いがあると信じられていたのだ。では、なぜ人は旅をし続けるのだろうか。

 

しばしば人生は「旅」に喩えられる。人との出会いと別れを繰り返し、絶えず居場所を変え、一定の場所に留まることをしらない。まさに人生そのものが旅といえなくもないが、同時に人間とは表現する生き物でもある。そういう意味では俺にとって人生は、小説を書くようなものだと感じることが多々あるのだ。もちろん小説には文学もあれば、エンターテイメントもある。誰もが表現することを求めていないにしても、自分だけの文体、自分だけの感覚を言語化するという意味ではその作業は人生にも通ずるところが多い。

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では、小説を書くとはどんな作業なのだろうか。キャラクターがいて、背景となる世界観があって、ストーリーがある。ただそれだけのものに、なぜ人は魅了され、読むという行為をやめようとはしないのだろうか。それは物語の向こう側に、揺さぶられる「感情」があるからではないだろうか。ハラハラドキドキのスリル、心温まるたしかな温もり、なんともいえない奇妙で懐かしい既視感、既成の価値観を覆す衝撃、違和感。このような心の動きを求めて、人は小説を読む。そして作家は文章でしかできないこと、文章でしか伝えることのできない感情を表現するために小説を書く。

 

と、ここまで読んでいただいたところで、勘のいい読者はお気づきではないだろうか。そう、これらはすべて「旅」にもあてはまる。つまり、揺さぶられる感情を求めて人は旅に出る。旅でしか表現できない「何か」に、旅でしか伝わらない感情を享受するために。

 

ではその「何か」とは何なのか。これこそが、まさに「言葉」なのだ。それまでの人生では出会うことのできない言葉、感情、心境…そういったものが、すべて旅のなかにある。既成の価値観では捉えることのでなかった言葉が、未知の国や人々、風景のなかにあるのだ。言葉と感情が交差する場所、それが旅なのだ。既成の価値観から離れるためには、地理的に異なる場所に身を置く必要がある。未知なる感覚を味わうためには、生活習慣の異なる文化に身を晒すことが重要なのだ。その結果、自身のなかには新たな言葉が、ボキャブラリーが生成されることになる。

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こんな経験はないだろうか。旅先で携帯電話をWi-Fiに繋ぎ、不意に検索をするとき、日本にいるときとは全く異なる検索ワードを打ち込んでいたということが。それは日本と異なる風土、環境のなかで、自然と異なる言語感覚が沸き起こっていることの証左ではないだろうか。だからこそ「検索」という同じ行為に対しても、普段とは異なる言語を入力し、日本では目にすることのなかった検索結果が出力されるのだ。

 

つまり、人は「言葉」を獲得するために旅をする。

なればこそ、新たな言葉を獲得するために旅に出てみてはいかがだろうか?

 

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

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