近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

禅と武術の果て ~呼吸を巡る身体的考察~

仏教の思想は徹底してパンクだ。なんたって真理が「空(くう)」であるとするなら、その原理論に内在する「空」性は帰納的に証明することはできない。真理は知性的に「無い」のだ。まるで、公理可能な理論に矛盾性がなければ証明も反証もできない命題が存在していて、無矛盾であれば自身の無矛盾性を証明できないとしたゲーデルの不完全性定理のようだ。最初から破綻しているようなもんだ。支離滅裂だ。

 

でも。だからこそ、その不可能性を永遠に疎外し続ける四色問題みたく美しくもあり、侘び、寂びという日本ならではの観念の礎となってもいるわけで。公案や問答によって朧げながらに意味が姿を現すのだけれど「不立文字」の一言によって、最終的にはそれすらも蹴っとばしてしまうことを強いる。これほどまでにラディカルな思想がほかにあるだろうか。

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そもそも俺の実家は敬虔なクリスチャン家系で、幼少の頃から身近に教会があってよく通っていた。幼いながらに教徒である大人たちと接するうち、教義と実生活の行動の乖離を頻繁に目の当たりにしたことで宗教的関心が徐々に薄れていった。ところが自分自身がある程度の社会経験を積み、人生というものを考えるようになった時に大いに迷い悩んだ時期があった。そんな時にビート・ジェネレーションを、そしてニューエイジを経由して出会った1冊の本によって禅の存在を知り、生きる意味、その本質を対外的にではなく自らの内に見出す仏教の懐の深さに強烈なシンパシーを感じた。

 

それ以来、禅の思想性を学び、日々の生活で実践する術(すべ)を模索し続けるようになった。自らのライフスタイルを形成する上で重要な示唆を受け、指針となったのは前述の1冊で、スティーブ・ジョブズの愛読書としても知られる鈴木俊隆師の『禅マインド ビギナーズ・マインド』だった。思想としての禅のエッセンスを凝縮した最良の入門書として、俺の書架に外すことのできない座右の1冊になっている。 

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

禅マインド ビギナーズ・マインド (サンガ新書)

 

  

そして、今。少なからず武術を嗜むようになって、青年期に禅と出会ったことは必然的な導きだったと確信している。すべては因果で、あらゆることは繋がってるってことだ。もともと身体の知性化、身体性の拡張ということを考えて始めた柔術なのだが、昔から試行し続けていた禅思想の実践に深く結びついていたのだ。どーゆーことかというと、ここではカール・ポパーという哲学者の「多元的世界観」を拝借して論述してみよう。ポパーは、二〇世紀初頭にウィーンで科学的知識の発見に至る真なる論理的プロセスの研究をしていて、新しい世界観の発見に行き着いた。曰く、人間がアクセスできる(知覚している)世界には3つの諸相があるというのが彼の説だ。

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

 

 

ポパーが提唱した世界観というのは、以下のようになっている。

  1. 物理的世界
  2. 心理的世界
  3. 知性的世界

 

 ①の物理的世界については説明不要だろう、要は目に見えている物の世界である。②の心理的世界というのも字のごとく、人間の欲望やら妄想やら心の葛藤が創り上げる心的な精神世界。③の知性的世界は人間の知性によってのみ知覚できる、物理的スペースがともなわない法律や知識、理論的世界のこと。現代人にとって最も卑近な例だと、インターネットなんかは知性的世界の象徴的な産物だ。ここまで読んでいただいてお気づきになられたかわからんが、現代社会は心理的世界と知性的世界が肥大化しすぎている。

 

武術に取り組むということは、とりもなおさず物理的世界における活動領域を拡張するということだ。そして禅もまた、心理的世界や知性的世界と決別して実体としての物理的世界を生きようという思想に他ならない。とくに禅の根幹的なライフワークとなるのが坐禅なのだが、坐禅が心理的、知性的世界を隔絶し物理的世界へと自らを揺り戻すチャネリングとして機能する。そして、坐禅を坐禅たらしめる極意が「呼吸」だ。呼吸によって「時の流れ」に波動を合わせることで物理的世界とシンクロし、自らの座標を同定し調整する。これが坐禅の本義といっていいだろう。

 

呼吸を操るということは、「時間の流れ」を操作することと同義だ。同じ一呼吸でも人によってその体内時計は感覚的に異なる。呼吸の長さが異なれば、その人にとっての相対的な時間の長さが変わる。極端な話が同じスペックの人間が2人いたとして、片や2倍の呼吸数を消化していたとすると。彼はもう1人の彼よりも細胞レベルでは2倍速の未来を生きていることになる。呼吸は時間と密接に結びついているのである。

 

そして実は武術もまた、最終的には自在に時間をいじる技術に行き着く。いずれ詳論を展開していくけど、たとえばカンフー映画などでよく描写される目にも留まらぬ速さで繰り出される鮮やかなカウンターパンチ。仕掛けられる方からすれば、気づけば目の前に拳が突き出されている状態で、あきらかに両者の時間感覚が異なる。とくに剣や相撲の世界では「先の先」もしくは「後の先」と呼ばれる境地が存在するのだが、この時間感覚の操作こそが武道と禅の邂逅として「剣禅一致」と語られる所以なのだろう。

 

以上を序として、自分自身の体験を踏まえた身体論をこれから展開していくことになるだろう。

 

年の暮れに、愛を込めて。Adiós, amigo!