人がこうしてなにかを書き、撮り、描くのは、いつか、どこかで誰かに届くことを前提にしているからだ。そして、その前提はインターネットの発展によって新たな空間が開かれた今、誰もが「知」にアクセスできる環境があってはじめて成立する。しかし、それ以前は主に紙という媒体でしか情報は流通していなかった。したがって、どれほど価値ある情報も然るべき手段によって、然るべき人へと届けられなければ、見出されず、ただ喪われ、そして忘れ去られてしまう無惨な運命を辿ることも往々にしてあったのだ。
弘法大師は生きている…鮮やかなレトリックによって修飾されたこの写真集を手にしたのも、GINZA SIXの蔦屋書店をブラブラと回遊していたときに、たまたま手にとったのがきっかけだった。いわゆるアートフォトの文脈では、それほど陽の当たることがなかった「知られざる名作」といっていいだろう。とくに有名な写真賞を受賞したわけでも、どこかの評論家が評価したわけでもなく、民俗学的な参考資料程度に人文系の棚に並べられていたり、親日家の外国人観光客向けにプッシュされているのが扱いとしてはせいぜいだろう。だが、しかし。この写真集には史料的価値以上に、日本人にしか撮りえない、日本人だからこその美学が凝縮されており、美術的な文脈からも評価されるべきものだと個人的に考えている。
高野山を題材にした写真集では近年、古賀絵里子が2015年に赤々舎から出版した『一山』が記憶に新しいが、どちらかというと古賀の個人的体験をとおして高野山を象徴的に捉えた、パーソナルな視点になっている。対して本書は、あくまで客観としてのドキュメンタリーに終始しており、個人的な解釈を持ち込んでいない。その点では現代アートとして成立しにくいのだが、日本固有の美を見出しているという意味では評価されるべき一冊だと思う。どの写真も劇的に美しい構図でフレーミングされており、宗教的な高揚感に包まれた、瑞々しい眼差しを感じさせられ、まさに日本人にしか撮りえないものを提示している。
高野山は密教の聖地として内外から神聖視されているのは公然の事実だが、その神秘性、固有性がどういった要素によって成り立っているのかを鮮やかに写し撮っている。密教自体が宇宙との繋がりをどう捉えるかという命題を秘めたものだが、宇宙を構成する5元素である、地・水・火・風・空からなる「五大」観が現代の高野山にも息づいているのだ。だからこそ、冒頭の「弘法大師は生きている」という一言の修辞によって見事に表現されているわけだが、まさに日本人にとって聖なるものとは何か、聖なるものに対する心のあり方とは何かが示されているように思う。
全編こってりと墨がのった上質なコート紙で、鮮やかさな高野山の四季の色合いが、より一層際立った仕上がりとなっている。表紙をあけた瞬間に、悠久の時に横たわる無限の宇宙へと引き込まれるのだ。
まだまだこんな凄い一冊が、日の目を見ることもなく書店の一角に埋もれていると考えると、人類の叡智、新たな知との出会いというのは麻薬のように甘美な芳香を放っている。とくに写真集は発行部数も限らた、閉ざされた市場でもあるので、いつ書店から消えようとも知れず、その存在の痕跡すら留めることがない。一期一会のセレンディピティに心ときめかせつつ、絶版になる前の刹那のこの一瞬、手に入りやすいうちに是非手に取って見ていただきたい。