近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

写真鑑賞論⑥ ~GHOST DUBBING COMPLEX~

閑話休題、ひさびさの写真鑑賞論。前回は媒体論として展示の魅力について語った。

 

メディアはメッセージである(The Midium is the message.)」と、情報を伝達するメディア自体が情報であることを喝破したのは英文学者マーシャル・マクルーハンだが、写真というものの本質を考えたとき、このマクルーハンの主張は重要な示唆を含んでいる。

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写真という芸術は、写真家の視点コンテンツを写真集や展示、プリントといった特定の場所や時間、物理的に制約された様々な媒体コンテナーに乗せることで成立する。コンテンツは写真家の視点であると同時にメッセージであるわけだが、マクルーハンが指摘しているのはコンテナー自体もメッセージになり得るということだ。つまり、どのコンテナーを選ぶかでコンテンツに内在したメッセージの文脈を大きく塗り替えてしまう可能性がある、ということなのだ。

 

また、マクルーハンはこうも言っている。「メディアはマッサージだ」、と。彼の重要なコンセプトのひとつでもある『メディア=身体の拡張』を敷衍して前述の名言をもじった言葉なのだが、写真の魅力を真に理解された方にとっては実感がともなう感覚ではないだろうか。なぜなら写真を鑑賞するという営為は、本来的に見えないものを視ようとする、世界認識の新たな知覚といえるのだから。この論考についてご興味があれば、以下の記事を参照されたし。

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

メディアはマッサージである: 影響の目録 (河出文庫)

  • 作者: マーシャルマクルーハン,クエンティンフィオーレ,加藤賢策,Marshall McLuhan,Quentin Fiore,門林岳史
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  • 発売日: 2015/03/06
  • メディア: 文庫
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そして今回のメインテーマはデジタルメディアについて、だ。デジタルもまた、人類の身体性を大きく拡張したメディアであることは周知のとおりだ。なんてったって、サイバースペースという物理的スペースに制約されない新たな空間を人類は生み出してしまったのだから。Webは写真芸術において何を可能にして、俺らはこの新たなメディアとどう向き合っていくべきなのだろうか。

 

まずWebでの写真表現において先駆的な役割をはたしているのが、日本のニュートポグラフィクスを代表する写真家・小林のりおだ。多摩ニュータウンや京浜工業地帯を怜悧な視線でとらえ続け、都市周縁部のサバービア(郊外)の変貌を浮き彫りにした小林は逸早くデジタルカメラを導入。インターネット上での作品発表も積極的に行い、その表現の在り方を模索し続けている。

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そんな彼の代表的なWeb作品が「なぜヤフオク図鑑か *1 」である。しかし、そこにつながる伏線として、小林は日常の光景の中に溶け込んでしまった、日本各地に点在するブルーシートを撮った「Japanese Blue」というプロジェクトに1992年から取り組んでいる。ホームページ上に掲載されている、「物語の不在」と題されたJapanese Blueのステートメントには以下のように書かれている。

日本全国、様々な場所に出現するブルーシートは、ペラペラの表面があるばかりで、自らの中身を語ることはない。彼らの中心、本体、物語は不在なのだ。Japanese Blue...なんて、写真的光景なのだろう...。

小林のりお公式ホームページより)

 

そして2006年3月26日から4月2日にかけて突如、オークションサイト「ヤフオク」にブルーシートで自作したエプロンやショルダーバッグなどを実際に販売することで出品をスタートさせた。すると、どうだろう。出品されたものがサムネイルとよばれるアイキャッチ画像となって時系列で掲載されるオークションシステムの性質を利用して、不特定多数の利用者を対象にした即席の展示スペースをインターネット上に出現させてしまったのだ。もちろん目的は品物を販売することではなく写真を載せることにあったわけだが、見た目は普通のオークションに変わりない。

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「なぜヤフオク図鑑か」を終えて、小林は胸中をこう語っている。

「Japanese Blueはネットオークションの海を漂う漂流物のようだった。何千、何万といった数の写真たちと一緒に、様々な人々の視線にとまり、流され、弾かれながら旅をした。売却という目的の中にあって、Japanese Blueだけは、違う何処かへ向かっていた。その僅かな差異の中にあって、かろうじて表現として成立する何かを僕は目指していた。アノニマスな写真の群れは、ただモノをモノとして指し示す。目的が終われば消えていく。その即物的な有り様の中に、表現としての写真を投げ入れてみること…。」

 

これだけに留まらず、自身のホームページでは現在進行形のプロジェクトとして「Digital Kitchen」を掲載している。これは小林家の台所を舞台にして、なんでもない日常をただひたすら毎日撮り続けているだけの写真日記だ。小林の大きな特徴は徹底した客観による意味付けの阻害、つまりシニフィエの排除だ。写真が写真として機能する、ただモノをモノとして指し示すに過ぎない写真への憧れ。それをWebという仮想空間の即時性によって時系列で発表することで、終わりのない物語を紡いでいるのである。

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 (Digital Kitchenより)

 

さて、ここで大きな命題が浮上する。インターネットに繋がってさえいれば誰もが見ることができ、容易に複製が可能なデジタル社会において、写真の価値を決めるものは何かということだ。2014年にオーストラリア生まれの風景カメラマンPeter Lik(ピーター・リック)が米アリゾナ州のアンテロープ・キャニオンを撮った「Phantom」(幻)と名付けられたモノクロ写真が、写真としては史上最高額の650万ドル(約7億7千万円)で売却された。一部の好事家のあいだでは、この作品がデジタル写真ではないかという話がまことしやかに噂された。では、この作品の購入者はいったい何を購入したのだろうか。

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余談ながら、はっきり表明しておく。この写真鑑賞論①~④まで読んでもらうと解ることだから、断言しよう。この作品に芸術性とよべる要素は無い。にも関わらず歴史的な金額で売れたのは、欧米の美術マーケットに詳しい外国人キュレーターから聞いた話によると、この作品が売買されたのはオープンな市場ではなく個人的な取引だったようだ。なので、そもそもが売名を目的としたブラフではないかという憶測もできるし、購入者自体が愛好家などではなく、転売によるサヤ取りを狙ったアートに疎い投機筋だったという見方が美術商のあいだでも根強いようだ *2

 

話を戻す。かつて、写真がフィルムカメラによって撮られていたころ。フィルムから印画紙へとイメージを焼き付ける過程を「現像」といって、職人技術を要する作業が必要だった。その結果、現像を行うプリンター(職人)、気象条件や天候といった諸条件によって同じ写真であっても微妙に仕上がりが変わるということが起こりえた。現像の特性を逆手にとって、暗室操作の技巧により手間隙かけて焼きの質感を変化させ、味わいのあるオリジナルプリントに仕上げることができる写真家も存在した。フィルムによる写真は云うなれば美術工芸品としての、個体としての価値がきわめて高かったのだ。

 

翻って、デジタル写真はソフトによっていくらでも編集が可能な上、寸分違わず均質に複製できる。いくらプリントの枚数を制限したところで1枚1枚に個体差は存在せず、データが流出したが最後、クリックひとつで無限に増殖することにもなる。仮に「Phantom」がデジタルであったとするならば、購入者は7億円も支払って何を手に入れたのかということが問題だ。出力されたものに個体差は存在せず、データさえあれば誰もが改変可能で、作家の死後も変わることないクオリティで複製と出力が可能な代物。データそのものが、入手段階でオリジナルだという保障さえもどこにもないのだ。

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現在のところは多くの写真家が、いまだフィルムで撮り続けている。しかし技術の進歩によってデジタルカメラは飛躍的に性能を高めている。このまま技術革新が進んでいけば、フィルムカメラで撮られた写真はマイノリティになっていくだろう。そうなったとき、はたして写真の価値を決定づけるものは何なのか

 

俺はその問いに答えるすべを今は持てずにいる。

写真を愉しむ (岩波新書)

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デジグラフィ―デジタルは写真を殺すのか?

デジグラフィ―デジタルは写真を殺すのか?

 

*1:中平卓馬の傑作批評「なぜ植物図鑑か」のパロディであり、オマージュであることは云うまでもない

*2:購入者の正体が中東あたりの投資マネーだったとしても、あまりに見る目がなさすぎる。ほぼ確実に売却価格は元本割れするだろう