近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

写真家よ、カメラを捨てろ

録り溜めていたNHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』を見た。いわゆる企業人や経済人のドキュメンタリーには興味がないのだが、この回はなんと左官職人の久住有生ではないか!

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もう10年以上も前にこの人が携わった建築を見たことがあって、深く感銘を受けたことを今でも憶えている。いつか自分が店舗ビジネスを手がけるなら、絶対にこの人に内装をデザインしてもらいたいと熱望し続けていたりもする。久住氏は20歳のときに京都御所の格式高い修繕作業を手がけたのを皮切りに、日本の伝統建築のみならず商業施設や個人邸で革新的な作品を生み出し続けている「土」のアーティストだ。しかも壁塗りを本職とした左官屋という立場から、芸術の域にまで高められた壁を創造しているのだ。

 

久住の凄みはなんといっても、寺社や茶室などの文化財に用いられている伝統技法にも造詣が深く、それらを再解釈することで日本の精神性を表現することができる稀有な感性にあると思う。「和」を取り入れることは誰にもできる。でもその本質が何なのかを突き詰め、再解釈するということはとても難しく、最高にクリエイティブな「編集」技術でもあるのだ。カメラの前で再三、逡巡している久住の姿はあたかも哲学者のようでもあった。

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さて、そんな番組中にとても重要な示唆があった。とある現場で逡巡に逡巡を重ね、迷いながら仕上げていた壁が思惑を超えて、次第に独特の風合いを醸すようになったのだ。そこで「計算外を楽しめ」というテロップとともに久住氏が発したのが、「全部コントロールできるものって、面白みがない」という言葉だった。要は偶然の要素が入り込む余地、ということを云っているのだが、これはあらゆることに通ずる真を突いた言葉だと思う。とくに俺が想起したのは写真を撮影するカメラについてだった。

 

写真を撮りはじめたばかりの人や写真を趣味にしている人なんかがきまって陥るのがカメラ機のハイスペック化だ。センサーサイズや画素数などが大きければ大きいほど、高精細で美しい写真が撮れるという幻想に取り憑かれてしまう。しかし実際のところ、カメラにある程度スペック上の制約が存在した方が写真に独特の味わいが生まれるのだ。カメラのスペックが高くなればなるほどにすべてが精密に写し撮られるので、生成される映像は特性を失いすべてが均質化する。対照的に低スペックであればあるほどに精緻さは失われ、像が抽象化すると同時に独特の変質を生むものなのだ。

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たとえばスマホのカメラアプリを思い起こしてほしい。高精細・高解像度のHDカメラで撮られた写真は、誰が何を撮っても同じような映像で簡単に再現できそうなものである。ところが、いわゆるトイカメラ風のフィルタを用いると精細さに欠ける反面、写真全体が明るくなり独特の味わいを醸すようになるはずだ。この独特の味わいを生み出す特性をちゃんと理解したうえで被写体や構図を決めて撮影をすれば、「ならでは」でオリジナルな写真が撮れるようになる。

 

そう、実はセンサーサイズが同じであるならば画素数が多くなるほど写真の表現力としての画質は落ちる。これはプロを名乗るカメラマンの多くも勘違いしている事実でもあるのだ。細かい原理の説明はここでは省くが、画素数が増えると細かく描写できるメリットと引き換えに一画素あたりの受光面積が小さくなる。感覚的に彩度は上がるが全体的な明度が落ちるような印象になるはずだ。センサーサイズもよほど大きく引き伸ばさないかぎり、それほど視覚的な違いは出にくいものなのだ。

 

だからこそ多くのカメラマンが愛用しているニコンやキャノンといった一眼レフの多くが3000万画素以上の高画素を売り物にして高価格・高機能機種を買わせようとする販売戦略なのに対して、名うての写真家たちを虜にする舶来カメラの代名詞であるライカは2400万画素程度に抑えられている(某社のトイカメラにいたってはわずか500万画素で独自の撮り味を表現しているのだ)。それはとりもなおさず、ライカならではの表現力を落とさないぎりぎりの「余白」なのだろう。

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日本の美学を追求していくと、必ず「余白の美」に行き着く。それは具象なるものを徹底して捨て去ることで情念という不可視なものを浮かび上がらせる、物語らせようという試みであり、虚像による現実への抗いでもある。日本の精神性は捨て去るという行為によってのみ正当化されるものであって、ライカの美学にも通奏低音する部分があるのだろう。

 

話がいささか脱線してしまったが、兎にも角にも最近のカメラ人は機材によって写真を物語ろうとする風潮が強い。「カメラの描写力が…」「この表現には、あのレンズのボケ味が…」云々、アマチュア写真家が集まればテクニカルな話に終始することも少なくない。しかし写真家としてもっとも理想的な機材を考えるならば、自らの瞳を撮像素子にしてそのままカメラとして像を定着させることではないだろうか。

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意味との決別によって現代写真を真っ向から解体し、自らがレンズとしての眼差しで在り続けるという、あまりにも過酷な人生を歩む森山大道という悲劇的な写真家も存在する。森山のスタイルは極端にしても、何時如何なる時もシャッターが切れて、被写体に撮られていることすら感じさせないカメラ。それが写真家にとって理想的な機材ではなかろうか(もし、この感覚が理解できないのなら写真家を名乗らないほうがいいだろう)

 

そう考えると、今もっとも理想に近しい機材といえば実はスマホなのである。それが解っている写真家はすでに実践しはじめている。スマホによって撮られた写真集、写真展などが世の中に出はじめているのだ。スマホカメラならではの表現とは何か、スマホカメラにしか出来ないことは何か。先進的な写真家は考えはじめている。それでもなお、従来のカメラに愛着を感じ、捨て去ることができないのはある種のノスタルジーに浸っている、あるいはヒロイズムに酔っているだけなのだ。もはやカメラがどうだとか、レンズがどうだという議論は過去のものでしかない。

 

写真の未来を考えるならば、写真家よカメラを捨てろ!

 

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森山大道、写真を語る (写真叢書)

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