近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

人は吐いた言葉で出来ている! 〜旅とマーケティングと霊性と〜

言葉とは何だろうか。それこそ哲学の探求は言語の解明であることは、ウィトゲンシュタインにはじまり、デュルケム、フロイト、ソシュール、カッシーラーやランガー、マルセル・モースなどに受け継がれてきた。しかし、そんな西洋の言語論とは隔絶して、「言霊」として発展してきたのが我が国の言語というものだ。

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言霊…というと、どうしても霊的世界の産物として語られるのだが、思考によって脳の物理的な構造は変わりうるということが、科学的にわかってきている。この現象を神経可塑性という。つまり、思考やその思考の産物として吐き出される「言葉」によって、脳の構造、つまり人格や行動までもが変わりうるということなのだ。

 

日本語は古来より「草木語問ふ」というように、土着のアニミズムと結びついて独自の発展を遂げた。万葉集にはじまり、空海を経て出口王仁三郎に至るまで。その根底にあるのは、まぎれもなく「畏れの感覚」から生まれているのだ。見えないものを見つめ、見えないものを表現するために言葉が生まれた。つまり、そうした感受性とともに言葉が進化を遂げてきたわけだ。だから古代人が言葉を発するとき、そこにはいつも何か見えないものの姿を感じ取っていたのではないか。

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だからこそ、言葉には力があり活力がある。新たな知や発見があるときは、決まって言葉がともなう。あんたにもこんな感覚がないだろうか。人と話している中で自分の中から突然、非連続的なアイディアが浮かび上がる体験を。つまり人間は自分の感覚を言葉で掘っていくことで 、同時にその感覚でさらに言葉を紡ぎ出していくことが可能なのだ。ではそんな時、いったい何者が自らを喋らせているのだろうか。

 

脳科学者の茂木健一郎と俳人のまどかは書籍『言葉で世界を変えよう』のなかで次のように語っている。

発話における 「言葉の準備 」は意識以前に始まるのだと考えられています。根本的に言葉の生成に関わっているのは 、いわば 「無意識の領域 」だということです。(中略)言葉の海が 、無意識の中にあること。自分が発している言葉の一つひとつが 、自分の意識を超えていること。

 

つまり言葉とは、あらかじめ意識的、無意識的をとわず、脳内に生成された言語のデータベースの中で引き出され、合成され、そして最終的に発話される。つまりは、意識的に発話する言葉を変えれば、脳内におけるデータベースさえも塗り替えることが可能だということなのだ。それは新しい物語を宿したことであり 、新しい人生の文脈が始まることでもあるのだ。

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しかしながら、ここには大きな問題がひとつ潜んでいる。それは言葉は身の丈を超えることができないということ。よく言われる「大法螺吹き」や「口八丁」というのがこれに該当する。体験や知識を超えて、身の丈以上の言葉を使いすぎて、説得力を持たないということなのだ。つまり言葉を磨く過程で 、俺らは直感と論理を合致させることができるわけだが、この場合は直感を磨く感性と論理が一致していないということなのだ。言葉と感性は常に同じ言語野から生じていることがわかる。

 

では何が言葉に力を宿すものなのか。前述の書籍でまどかは云う。

俳諧の連歌から生まれた発句が俳句と呼ばれるようになりました。発句には、歌仙一巻を巻き上げるだけの牽引力がなくてはならない。またその世界観が凝縮されてなければならない。ですから 、 「俳句を詠む」とは、それだけのエネルギ ーを持った言葉を詠む行為でもあり、覚悟がいるわけです。

 

言葉を使うのに“覚悟”*1 が必要だったということを云っている。つまり人や人の感情を動かすのには、経験にもとづく説得力と情念が必要だ、ということなのだ。そう考えるとすべての符号が合致する。小規模事業者向けに独自の発展を遂げてきたダイレクトレスポンス・マーケティングといわれる分野が存在するのだが、この手法でもっとも重要視されているのがコピーライティングの能力だ。この手法では消費者の感情に焦点を当て、消費者心理から逆算して言葉を紡いでいく。

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しかし多くの事業者はこの本意を誤読し、この手法で使われるテクニックだけを駆使し、ネット上には無為に消費者の感情を煽ろうとする、無知で蒙昧なセールスコピーが溢れかえっているのだ。しかし、本当のマーケターというのは消費者になりきることで思いの丈を文字に乗せ、その障害となるトリガーをひとつひとつ見事に解除することに長けているのだ。擬似的であれ経験を言葉に置き換えて 、すばらしい体験が結実したことで発話される言葉の威力は他者をも動かすのだ。

 

では言葉を磨く感性を高めるためには、どんな行動が必要になってくるのだろうか。言葉が本来、見えないものを表現するための手段だったとすると、その答えもおのずと見えてくる。要は脳のなかでも通常使われない部分を刺激すればいいのだ。そのもっとも手っ取り早い手段が「旅」だ。人は旅をとおして未知の価値観や光景と出会う。そうした未知の体験を言語化しようとすると、従来使われていた言語野以外の脳が刺激され、新たな言葉が生成されていく。人生経験が豊富な人間の語る語彙が多いように、旅をする者は定住者よりも豊富な語彙を獲得できるのだ。松尾芭蕉が旅することで、『おくのほそ道 』を書いたことにも共通している。

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言葉の持つ力、磨き方について述べてきた。最終的に気をつけないといけないことを述べて筆を置こう。それは言葉には最終的に責任がともなう、ということだ。当然、“覚悟”の言葉の代償として、必ず自らが吐いた言葉には自ら責任とリスクを負う必要があり、また周囲からはその言葉を基準にして評価されるということなのだ。美しい言葉、力ある言葉を吐くことは誰にでもできる。しかし自らの人格と行動を一致させる必要が必ず生じる。

 

そういう意味でも、言葉は身の丈を超えることはできない。言葉は視線と注目を集める。それは人ではない、不可視な何者かであったりもするのだ。だからこそ言葉は大切にしなければならない。つまらぬ言葉を吐き出してはならない。

 

明日を生きるためにも、言葉を磨こう。

 

言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ

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言霊の思想

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