近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

もうすぐ絶滅するというネットの市民性について

最近、「Google検索がおもしろくなくなった」という声を聞く。実際に当ブログのアクセス解析を見るかぎりでも、検索エンジンからは記事の趣旨と大きく異なるキーワードによる流入が主で、とてもじゃないが俺が頑張って書いてきた内容にマッチした人種を確実に呼び込めているとは到底いえない。所詮、「無料」であるとはそういうことなのだ。

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World Wide Webが生まれた頃は“性善説”を前提にして、ネット検索は単純にテキスト量の多いもの、特定のキーワード含有率が高く、より多くのリンクが張られた専門性の高い、更新され続けているサイトという単純なロジックによって導き出された。

 

しかし、ネットの普及によって市場参加者が爆発的に広がった結果、作為的に検索上位に表示させるためだけの手法が横行し、意味のないコンテンツが検索画面のシェアを奪い、死屍累々の無価値なサイトが検索上位を占めるようになった。それらを選別する目的で検索エンジンは200項目にも及ぶ“アルゴリズム”によって、性悪的に、そして合目的的にサイトを選別するようになった。

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経済学的には市場参加者が増えれば増えるだけ利便性が増すという、「ネットワーク効果」が働くとされるが、今のネットの状況を鑑みるに本当にそうなのだろうか。思慮深い教養人はそのような“開かれた場”を嫌い、むしろ閉じられた空間に引きこもってしまったようにも思われる。「すべてはフリー(無料)であるべきだ」として誕生した、“フリーミアム”なる経済圏に今、信頼性と価値はあるのだろうか。あらためて考えさせられる。

 

これは資本主義社会におけるテーゼなのだが、そもそも世の中にタダというものはない。タダに見えても、実は思わぬところで代価を払わせられているのがネットであり、今の世の中だ。自分は巧妙に「タダ」の上澄み分だけを享受してやろう、と思ってる人もいるかもしれないが、お金を払わずとも、それより貴重な「時間」や「情報」をしっかりと支払わされていることに気づくべきだろう。

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そもそも検索エンジンが好む専門性の高いサイトは、本当に役に立ち、おもしろいのだろうか。俺はそこにこそ疑義を提示したい。人間的魅力を考えたとき、ただ一つの物事に精通した人間よりも、たくさんの様々な引き出しをこそ持った人間の方が面白くはないだろうか。根本的にそのような前提に最初から立っていないコンピュータが返す機械的なクエリに、もともとの面白みがあったのだろうか。

 

おもしろいと感じる人や情報には二種類のおもしろさが存在する。一つは特定の要素を徹底的に深堀りした結果、常人には計り知ることのできない、究極に専門的で微分化された深い知識。そしてもう一つが特定の既知の要素に対して、違った要素を掛け合わせることによって、邂逅した要素同士の融合によって新奇の解釈をもたらす、横断的な新しい知識だ。

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日本人はとくに「知の巨人」といったような、仰々しい大層な形容詞を好むと云われるが、これは立花隆や佐藤優、松岡正剛といった知識人を見れば明らかだが、後者のケースであることが多い。

 

にも関わらず、Webの世界では前者の深い知識のみを希求することによって、後者の新たな知識の可能性を阻害しているのだ。もっとも最近の検索エンジンのロジックには“Auther”の権威性という要素も加味し、執筆者のバックグラウンドやネームバリューによって著しく評価を高めるのだが、これはあきらかに「フラット」だといわれていたネットの世界に階級制を導入したことの証左で、もはやネットにおける市民性はすでに消失したといえる。

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またテキストという情報資産から考えると、たしかに量は質を凌駕するのが世の真理だ。だからこそ、ひとつの尺度として評価する対象であることは納得ができる。だがしかし、他方で「質」を担保するものが執筆者であるAutherや、バックリンクといわれる参照数、そして専門性から一概に導き出し得るものだろうか。

 

逆に多方面に話題が四散しているものは価値が薄いと、本当にいえるのだろうか。俺にはどのような方向によってトピックが四散しているのか、隠された関連性を探るほうがよっぽどおもしろいものが見つかるように思える。なぜなら、その関連性こそがAutherの個性であり、Autherの人生のテーマでもあるのだから。今のGoogleに統制された世界には、たしかに「面白さ」は存在しないのだ。

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おそらく、今後AIの発達によって緻密に解析され、改善されてくるであろう分野といえる。もしかしたら近い将来、それまでに累積されたテキストの残滓から、自動的にAIがテキストやトピックを生成していくことだって起きるかもしれない。はたまたサイト特有の個性、つまり文体などをAIに組み込むことで、サイト自体にバーチャルな人格が生まれる可能性すらある。『攻殻機動隊』の世界が現実に迫っている。

 

しかし、結局のところは使う側のリテラシーも、最大限に問われるようになってくるはずだ。なにがおもしろくて、なにがおもしろくないのかはあくまで主観の問題で、ネットの世界が今以上に資本主義的な“市場の論理”を強めると、脳天気で下劣なエンタメか、短絡的で浅はかな、情弱相手の劣悪ヘイトものしかコンテンツがフォーカスされなくなる。

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だからこそネットを使う側の情報の扱い方や選別眼、見識というものがより一層求められるのだ。そして、情報を制する者が世界を制す。情報を適切に扱うためにも、たしかなものを見定める眼と、確固とした自らの世界観を持っておく必要がある。

 

そうしないと逆に、情報に飲み込まれるよ。

 

GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊 & イノセンス 4K ULTRA HD Blu-ray セット

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Webの創成 ― World Wide Webはいかにして生まれどこに向かうのか

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「面白い」のつくりかた (新潮新書)

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人は「言葉」を獲得するために旅をする

人は旅をする。だが、その旅はどこかに在るものではない。旅は旅をする人が作るものだ。

 

紀行文学の金字塔『深夜特急』の誕生前夜からその後まで、生成変化の<旅>論を収めた『旅する力』の序章で沢木耕太郎が語っている言葉だ。沢木によると、だいたい26歳前後で一度、人は放浪欲に駆り立てられるのではないかとも語っている。しかし人は年齢を重ねるにつれ、旅への希求を深めていくのではないか、とも個人的には考えている。なぜかというと、人は新たな言葉を獲得するために「旅」をするからである。

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のっけから観念的になってしまっているが、そもそも「旅」とは何なのか。この問いに対する答えは、人の数に比例して無数に存在する。では、こう考えてみてはどうだろうか。「旅」と「観光」を隔てるものは何か、と。近年、サブカルチャー研究で知られる批評家の東浩紀は観光客の哲学を夢想し、観光を社会性と結びつけ、21世紀のあるべき生き方を模索しているが、「観光」というとなにやら受動的な印象を受けてしまう。旅行代理店によって移動手段や宿泊先をセッティングされ、お決まりの観光名所を巡る。必要以上に現地に干渉する必要もない…自分以外の第三者によって画策された旅程に便乗する旅。それが観光のように思える。

 

対して「旅」は、主体的に旅先の人や自然に関わることで選択的に作っていくもの、という印象がある。もちろん最初から目的やテーマを決めて行く「旅」もあれば、無目的に彼の地を放浪し、行きあたりばったりのハプニングも楽しむロードトリップもまた、昔から人を惹き付けてやまない「旅」の形態のひとつだ。しかし、やはり旅には他人のお仕着せや作為などではなく、自らの意思で手にする自由の萌芽というべきものがたしかにあるのだ。それは何者にも束縛されない、通過者としての自由が。

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旅人は自国の論理に支配されない、バガボンド(漂流者)としての開放性を味わうために旅を繰り返す。資本主義社会に内在した矛盾と呪縛から逃れるために、一匹の漂流者として世界を徘徊するのだ。人は守るべきものができた時点で「旅」をやめる。そういう意味では旅は常にリスクと隣合わせの行為ともいえる。そもそも古代や中世における旅といえば、聖地巡礼が一般的だった。過酷な道程こそが神の与えた試練であり、苦難の先にこそ救いがあると信じられていたのだ。では、なぜ人は旅をし続けるのだろうか。

 

しばしば人生は「旅」に喩えられる。人との出会いと別れを繰り返し、絶えず居場所を変え、一定の場所に留まることをしらない。まさに人生そのものが旅といえなくもないが、同時に人間とは表現する生き物でもある。そういう意味では俺にとって人生は、小説を書くようなものだと感じることが多々あるのだ。もちろん小説には文学もあれば、エンターテイメントもある。誰もが表現することを求めていないにしても、自分だけの文体、自分だけの感覚を言語化するという意味ではその作業は人生にも通ずるところが多い。

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では、小説を書くとはどんな作業なのだろうか。キャラクターがいて、背景となる世界観があって、ストーリーがある。ただそれだけのものに、なぜ人は魅了され、読むという行為をやめようとはしないのだろうか。それは物語の向こう側に、揺さぶられる「感情」があるからではないだろうか。ハラハラドキドキのスリル、心温まるたしかな温もり、なんともいえない奇妙で懐かしい既視感、既成の価値観を覆す衝撃、違和感。このような心の動きを求めて、人は小説を読む。そして作家は文章でしかできないこと、文章でしか伝えることのできない感情を表現するために小説を書く。

 

と、ここまで読んでいただいたところで、勘のいい読者はお気づきではないだろうか。そう、これらはすべて「旅」にもあてはまる。つまり、揺さぶられる感情を求めて人は旅に出る。旅でしか表現できない「何か」に、旅でしか伝わらない感情を享受するために。

 

ではその「何か」とは何なのか。これこそが、まさに「言葉」なのだ。それまでの人生では出会うことのできない言葉、感情、心境…そういったものが、すべて旅のなかにある。既成の価値観では捉えることのでなかった言葉が、未知の国や人々、風景のなかにあるのだ。言葉と感情が交差する場所、それが旅なのだ。既成の価値観から離れるためには、地理的に異なる場所に身を置く必要がある。未知なる感覚を味わうためには、生活習慣の異なる文化に身を晒すことが重要なのだ。その結果、自身のなかには新たな言葉が、ボキャブラリーが生成されることになる。

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こんな経験はないだろうか。旅先で携帯電話をWi-Fiに繋ぎ、不意に検索をするとき、日本にいるときとは全く異なる検索ワードを打ち込んでいたということが。それは日本と異なる風土、環境のなかで、自然と異なる言語感覚が沸き起こっていることの証左ではないだろうか。だからこそ「検索」という同じ行為に対しても、普段とは異なる言語を入力し、日本では目にすることのなかった検索結果が出力されるのだ。

 

つまり、人は「言葉」を獲得するために旅をする。

なればこそ、新たな言葉を獲得するために旅に出てみてはいかがだろうか?

 

旅する力―深夜特急ノート (新潮文庫)

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ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

大成する人は「顔」が違う! ~成功者のファッションと人相学~

何かを成し遂げる人にはその相が顔に現れる。凡人とは違い、特徴的で印象的な何かがあるのだ。人相学もまた、古代中国では帝王学として、体系化されてきた学問のうちのひとつだ。史記に描かれている黄帝の人相は、いわゆる切れ長の目に盛り上がった額が特徴的だったとあり、中国でもとりわけ覇者の特長にあげられるのが鼻筋だ。

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大事を為す男子の鼻筋を龍鼻、虎鼻といい、龍鼻は鼻筋の通った長い鼻、虎鼻はやや団子形状ながら肉付きがよく横に張った鼻のことだ。日本でも鼻がでかい人間は出世するというが、その由縁はまさにここから来ている。これは一概に迷信ともいえない事情があって、其の人の生き様は顔に表れるものだ。

 

常に人を見下したり、斜に構える癖がある人は「三白眼」といって、黒目が上方に偏り、左右と下部の三方に白目の眼が出来上がる。簡単に云ってしまうと黒目が小さく、三角形をした目のことを云い、これは人相学上では凶相といわれている。実際に暴力事件や詐欺事件などでお縄になる人にはこの相が強いそうだ。このように其の人の思想や習性は、哀しいかな顔に出てしまうものなのだ。「人は見た目が9割」というのは、あながち間違いではない真実なのだ。

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卑屈な人生を歩んできた人はいびつな姿勢とそれなりの相が、大義を掲げ理想に燃える人にはそういう相が出るものである。長年生きてきたなかで身についた、人生と向き合う姿勢や態度というのが、どうしても表面化してしまうものなのだ。儒教を大成させた孔子もまた、異様な鷲鼻に釣り上がった目で、常人とは明らかに異なる貴顕の相が出ていたという。よく占い師が大器である人物に、「あんたは将来大きな人間になる」と言い当てる様が描写されるが、それもあながち謬説ではないのだろう。

 

そうはいっても、遺伝によって生まれ持ったものをなかなか変えることはできない。鬼臉の相など生来から備わってしまった人間は、運命に抗うことはできないのだろうか。そうではない。生得的なものだけではなく、人相というのは後天的にいくらでも修正できるものなのだ。それはなにかというと、服装や身だしなみである。服は着衣であると同時に常時身に付けている、あんた自身の思想や主張でもある。ここに気をつけない人間は、残念ながら人生の多くを損している。

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よく一流のビジネスマンは相手の靴で判断すると云われる。これはなにもピカピカの新品のような靴を見て、其の人の経済事情を把握しているわけではないのだ。いわゆる革の紳士靴というのは正しい扱いをしていると、経年でも永く使用に耐えるものになっている。むしろ一流の人、とくに欧米人が判断しているのは、古い靴をいかに大事に、愛着を持って手入れしているかを見ているのだ。それこそ新品に近い靴など、お金を出せば誰にでも買えてしまうからだ。

 

スーツや普段着にしても同じで、いかに自分の足りない部分を奇麗に見せられるように、着衣でカバーをしているかが問われている。サイズ感やシルエット、素材感など、其の人を其の人足らしめる独自の風合いを身につけられているか、冷静に自分自身を見れているかが衣服には表れてしまうのだ。なんでもないプリントもののデザインにしても、それ自体が着ている以上、あなたの主張になってしまう。他人が気を使わない部分に、いかに気を使えるかがあんた自身のビジネススキルに直結してしまうのだ。

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昔の日本人で、武士と呼ばれた階級の人たちが、なぜ丁髷(ちょんまげ)のような難儀で奇特な髪型を、戦以外で一時も崩さなかったのか。月代を毎日奇麗に剃り、髪を結う。丁髷を切り落とすことは、武士としての地位を捨てるにも等しいことだったのだ。そこまでして彼らがこだわったのは、いつ死んでも最期まで武士としての身なりを崩さずに、己の威厳のなかで死んで逝けるようにとの思いがあった。翻ってあんたは、いつ死んでも恥ずかしくない身なりをしているだろうか。

 

レオナルド・ディカプリオ主演で大ヒットした映画『タイタニック』で、沈みゆくタイタニック号のなかで自分は死ぬまで英国紳士だからと、タキシード姿を崩さず船と運命をともにする壮年の男性がいたが、まさにそのような気概や誇りをあんたは着衣に込められているだろうか。さすがにここまでは極端にしても、服があんたの印象をつくる。それならば、せめてユニクロやH&Mといった大量生産の規格品なんかに身を包んでいる場合ではないだろう。

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このように印象というものはいくらでも操作できる。そのようにいうとあまりポジティブではないような響きがあるのだが、持って生まれたものをどう扱うかよりも、後天的に自分自身をどう見せるかに努力し、気を使える人間のほうがステキではないだろうか。しかしながら街行く人々を見ていても、なかなかここに気を使えていないのが世の事情である。

 

かつて古代中国の思想書『老子』は、苦しみをともなう人生やしんどい経験は、天があたえた試練だ。その経験自体が自分自身の弱点を克服するための契機であると説いた。人相もまた、自分自身でつくり出し表出させるものだ。

 

苦しいとき、しんどいときこそ、かすかな希望を胸に抱き、歯を食いしばって前のみを見ようではないか。

その経験もまた、あなたの顔に相として出るものなのだから。

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漫画版 人は見た目が9割

漫画版 人は見た目が9割

 

心身を開放し、あるがままの人生を歩む!禅の呼吸法

先日、縁あって成田山新勝寺で座禅体験をしてきた。座禅というのは所謂、禅宗と呼ばれる曹洞宗、臨済宗のもので、新勝寺は真言宗だ。真言宗の座禅を「密教座禅」といい、普段は臨済式の座禅を実践している俺もはじめての体験だった。

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どういう違いがあるのかというと、ずばり坐法に大きな違いはない。「数息観」という行法によって瞑想状態に入り、己の裡に分け入っていくのだが、ここからが密教座禅と臨済禅との違いが出てくる。臨済禅などでは通常、瞑想状態に入るとありのままを受け入れて「心を空っぽにしなさい」ということをいわれるのだが、この密教座禅では「自分の心の在り処を探しなさい」といわれるのだ。この座禅に対する態度が大きく異なるのだ。

 

新勝寺の本尊は不動明王であるだけに、座禅を組み心の在り処を探っていくと、次第に身体のうちから何やら熱を帯びてくる。ついには汗が吹き出すくらいに火照るのだが、こういった体験も臨済禅にはない特徴だ。坐法に違いがないのに、なぜこうまで身体の反応が違ってくるのか。それはその場を覆っている空気感(霊気)や自己との向き合い方の違いによるもので、これは宗派での神仏との向き合い方、距離感の違いに他ならない。

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あと瞑想を解く際にも、仏教でとくに厳格とされる真言宗ならではの作法があり、目からウロコの神秘体験となった。この日は護摩行も受けることができ、さすがは真言宗智山派の大本山だけあって、荘厳で壮麗な御護摩で祈祷することができ、平安時代から一日たりとも絶えることのなかったという火への信仰を目に焼き付けることができた。

 

さて、そんな貴重な体験によって改めて座禅の奥深さ、そして座禅の極意ともいえる呼吸法の真価をまざまざと味わった。禅と呼吸との関連については以前にも記事で取り上げたことがあるのだが、日常実践として禅の呼吸法をいかに生活のなかに取り込めばよいか。どのようにして活かせばいいかということについて、今回は考えていきたい。

 

www.nehanne.com

 

そもそも臨済宗の再興の祖として、臨済禅を大成させ、今も崇められているのが有名な白隠禅師である。「君看よ、双眼の色。語らざれば憂い無きに似たり」という有名な言葉にも非常に含蓄があるのだが、その白隠禅師もかつては大病を患い、結果、今でいう「うつ病」を発症していたらしいことが、名著「夜船閑話」のなかから読み取れる。

心下逆上し、肺金焦枯して、双脚氷雪の底に浸すが如く、両耳渓声の間を行くが如し。肝胆常に怯弱にして、挙措恐怖多く、心神困倦し、寐寤種々の境界を見る。両腋常に汗を生じ、両眼常に涙を帯ぶ。

 

そんな心身状態を克服するために座禅を活用し、独自の「内観」の秘法を編み出したのだが、その秘法が一般化して世間にも広まったものが、所謂「丹田呼吸法」だった。丹田とは東洋医学における関元穴に相当し、へその下3寸に位置する、気を集めて練るとされる体内の部位のこと。ここに意識を集中させて呼吸をしようというのが丹田呼吸法のことで、現代の声楽、つまりボイストレーニングなどでも活用されている呼吸法だ。

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ここで白隠禅師が秘法を編み出すための下地とした、古代中国における道家の原典『莊子』には「其の息するや深深たり。真人の息は踵を以ってし、衆人の息は喉を以ってす」と書かれており、そうすることで陰陽五行説にならい、上体で陽の気を取り入れ、そして足裏から陰の気を取り入れることが可能になるとされている。日頃から足裏に意識を向けて呼吸を行うことで、身体が妙に軽く、快調に感じられるようになるので、是非お試しあれ。

 

さて、現代人は深呼吸をする際に「吸って、吐く」ことが一般的と考えがちなのだが、東洋医学における呼吸とはその字面のとおり、実は「吐いて、吸う」ことが基本なのだ。そうしないと、悪い気を吐き出して体内を一時的に真空状態にすることでの浄化作用がなくなってしまう。だからこそ呼吸の順番や呼気の回数というのは非常に重要なのだが、いつしか忘れ去られてしまった古代人の知恵がここには秘められているのだ。

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ところで座禅というと、なにやら形式ばった堅苦しいものと思われがちなのだが、実は「休息万事 放下諸縁 一切不為」という言葉のとおり、万事を休息し、諸縁を放下し、一切為さずという意味のまま、実は心身ともに安らかで、リラックスした状態であることをいうのだ。無駄な思考を削ぎ落とし、正しい姿勢でただ座る。もちろん正しく座るためには訓練も必要ではあるが、人間本来のあるべき楽な姿を坐法のなかに発明した古代の禅宗の叡智にはいつも驚嘆させられる思いだ。

 

諸縁や因縁というしがらみのなかで生き、天・地・人からなる三界における天と地の恩寵を感じにくい現代の人間に、座禅は「中庸」であることを迫る。自然のリズムと同化し同調することで、人間をあるべき位置、しがらみから解き放たれた状態をつくり出すのだ。その自然のリズム、いわば地球の鼓動に呼吸を合わせ、自然界と一体になるからこそ見える大地の記憶。時間の果ての感覚。このような境地に立つには、なるべく日頃から自然に接し、声なき声に耳を澄ませる時間を持つことが重要だ。

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そのうえで意識的な呼吸を心がけると、きっと地球の記憶と同期し、見えない運命に導かれるように幸福な人生を歩めるようになるはずだ。

 

それでは、ご武運を。

 

白隠禅師夜船閑話

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荘子 全訳注 合本版 (講談社学術文庫)

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人生で大切なことは、すべてマンガが教えてくれた

今でこそ漫画を読まなくなったが、学生時代は漫画に没頭していた。そのせいか、わりと自分の中の価値観の軸になっているものが、漫画から吸収した知識だったりもするのだ。おそらく1980年代近辺で幼少期にバブルを過ごした同年代くらいの方は、そういう人も少なくないんじゃなかろうか。

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どの年代でどんな漫画を読んだかという体験は、人によっても異なる。それこそ少年ジャンプや少年マガジンといった雑誌が力を持っていた全盛の時代、トレンディだった漫画は同じ時代を過ごしたことを証明する、世代を経て記憶に刻まれた同時代性の産物だ。漫画でエポックとなったキャラクターやキーワードを肴に、場末の居酒屋で四方山話に花を咲かせるなんてことも往々にしてあるのだ。

 

他方で少し世代がずれていたり、それほど話題にならなかった傍流の(いわゆるマニアックな)作品のなかでも、妙に自分の感覚と深く結びつき、郷愁を誘う類いのものが存在する。ときにそんな作品のなかに、人生を変えるだけのインパクトをもった強烈なワンフレーズや台詞、名シーンというものが隠されていたりするのだ。

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今回はそんなアラフォー世代の俺の人生にとって、強烈な読書体験をもたらしてくれた作品たちを紹介する。ここに挙げた作品を読むことで、同年代の方たちは懐かしい思い出に浸ることができるし、俺らよりも下の世代はこれからの日本を背負おうことになる働きざかり世代の価値観や行動原理が理解できるだろう。

 

これらを読んで、俺と同様に人生の糧になれば幸いだ。

同年代の方はこれらを昔話の肴に、懐かしき日々をともに語ろうではないか。

 

センゴク外伝 桶狭間戦記

センゴク外伝 桶狭間戦記全5巻 セット (KCデラックス)

センゴク外伝 桶狭間戦記全5巻 セット (KCデラックス)

 

 

ちょうど駆け出しのサラリーマン時代、ビジネスという競争を支配する決定的な因子は何かと模索していた時期があった。そんなときに読んだのがこの漫画で、有名な桶狭間の戦いの前後を織田信長と今川義元、双方の視点で語られた新解釈の歴史活劇だ。愚鈍な公家かぶれと思われがちな今川義元だが、近年の研究ではきわめて戦略的で大局的な視座から領地経営を行っていたことが解ってきている。

 

戦国武将が下賤なものと蔑んでいた金の力を見抜き、“金”によって日本を支配しようとした織田信長と、法律による支配を最善とし、“法”の力に心酔した今川義元の運命的な邂逅と数奇な宿命を儚くドラマチックに描き出している。俺はここから自分ならではの武器を持つことの重要性、そしてビジョンや世界観の力の偉大さを学んだ。

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項羽と劉邦 

項羽と劉邦全12巻箱入 (潮漫画文庫)

項羽と劉邦全12巻箱入 (潮漫画文庫)

 

 

史記にも記された、秦王朝滅亡後の楚漢戦争を描いた古代中国の壮大な歴史群像劇。横山光輝といえば『三国志』を思い浮かべる人がほとんどだろうが、俺は断然、この『項羽と劉邦』が好きなのだ。様々なキャラクターも数多く登場するのだが、なんといっても好対照な2人の君主による覇権争いが魅力的。

 

個人的に好きなキャラクターは劉邦の将軍、韓信。貧民出身で「股くぐりの臆病者」とも揶揄され、項羽に士官するも重用されず、その天才的な才能を劉邦が認め、後に2万の軍勢で30万の趙軍を打ち破るなど大躍進をとげる。独創的な戦術で大胆な勝利を得る、軍師の鏡といえる傑物だ。

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ツルモク独身寮

ツルモク独身寮 文庫版 コミック 全7巻完結セット (小学館文庫)

ツルモク独身寮 文庫版 コミック 全7巻完結セット (小学館文庫)

 

 

ツルモク家具にインテリアデザイナーを志す新入社員として入社した宮川正太と、独身寮の住人たちとの人間模様を描いたラブコメ・ギャグ漫画だ。1991年に映画化もされているというのだが、その存在すら知らなかった…

 

リアルタイムではなく、ちょうど高校生のときに数年遅れで読んだ作品なのだが、将来を模索する思春期にこれと出会ったことで、社会とは、仕事とは、結婚とはなにかを考えさせられた。まだ現実を知らないがゆえの将来へのほのかな期待。焦燥感。憧れ。胸キュンのラストの展開にもすっかり感化され、甘酸っぱい青春の記憶として脳に刻まれている。濃いキャラクター描写も魅力的。

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ジパング

ジパング 文庫版 コミック 1-22巻セット (講談社漫画文庫)

ジパング 文庫版 コミック 1-22巻セット (講談社漫画文庫)

 

 

『沈黙の艦隊』で有名な、かわぐちかいじによる仮想戦記SF。海外派遣に向かう海上自衛隊の最新鋭イージス艦みらいはミッドウェー沖合で嵐に巻き込まれ落雷を受ける。その直後、ミッドウェー海戦直前の1942年にタイムスリップし、歴史の流れに巻き込まれていく。こちらも2004年にTVアニメ化されている。

 

これもキャラクターが大変に魅力的な傑作なのだが、この物語のキーを握るのは、みらい副長の角松洋介が自ら救助した帝国海軍通信参謀、草加拓海だ。現代の艦艇に助けられたことで日本の未来を知ってしまった草加は、運命に抗い、日本の生き残る道を画策し歴史の闇へと消えていく。自らの運命を悟り、それでもなお歴史を知ろうとする草加のこの一言に、生きる意味を探していた俺は救われた。

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TOKYOブローカー

TOKYOブローカー(1) (ヤンマガKCスペシャル)

TOKYOブローカー(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

 

魔性の車を巡る人間たちを描いた青春群像劇『湾岸ミッドナイト』が有名な、楠みちはるによる全13話の未完の傑作。2004年の東京を舞台に、2人のブローカーの奇妙な関係とアウトローなビジネスの世界を描いた作品。主人公こそ大学生の若者だが登場人物の多くがけっして若くはない不良中年たちで、個性的すぎるキャラクターがいぶし銀の魅力と大人の色香を放っている。

 

車が好きなわけでもないのだが『湾岸ミッドナイト』も大好きだった。なんともノスタルジックな芳香をプンプンとさせながら、マニアックな愉悦にひたる大人の男たち。そんな男たちに寄り添う大人の女。なんとも妖艶で不思議な物語で、もっと続きが読みたかった。大人になるとはこういうことなんだな…そう考えさせられた思い出の1冊。

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人生を意のままに操る!“コントロール”の技法

数年前にドバイの王族とも親交を持つ、とある億万長者と知り合った。俺よりも幾分か年が上なのだが、パッと見た感じは実年齢よりも若めのあんちゃんみたいで、とてもじゃないが成功者には見えない。落ち合った場所も新宿駅近くのごく普通の喫茶店で、その人は普通にその風景のなかに溶け込んでいた。

 

しかしながら、どこか不思議なオーラをまとっているんだけど、あきらかに成功者特有の気配を消してるというか。なるべく都会の喧騒の渦に同化しているかのように思えた。お互いのビジネスについて情報交換し終わって、その人がおもむろに云った一言が、後の俺の人生に衝撃をあたえた。

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「いいか。男が人生で成功したいなら、絶対にハゲるんじゃないぞ!」

 

たしかに世界の億万長者たちのなかで決してハゲは多くない。いや、その無尽蔵の財力を駆使して最先端医療や薬の力によって新たな毛を再生させているのかもしれない。しかし、この人の云っていることは根本的にそういった次元の話ではないのだ。本来的に遺伝情報によって決まってしまう生理現象さえも、自らの力でコントロールせよ。つまりは、そう云っているのだ。

 

そういえば欧米型の教育システムは、いかに最小の労力で最大の成果を上げるかという「マネジメント」や「コントロール」の思想にもとづいている。対して日本の教育システムというのは端から他人に従属することを前提に被支配者の論理を徹底的に押し付けられる。この辺の思想の違いがビジネスや投資の世界では圧倒的な結果の差となって返ってくるのだ。それほどまでに「コントロール」という概念は強烈なのだ。

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俺が20代から30代前半にかけて学んだ地政学や国際関係論、経済学という学問も、冷徹なリアリズムの視点から組み上げられた支配者の学問だ。国家や政府が属人的な人格抜きにして政治空間や市場経済でどう合理的に振る舞うものか、過去の歴史を鑑みて人間社会のメカニズムを解き明かしたものがこれらの学問なのだ。中でも国際関係論は自国の利益のために、いかに他国をコントロールして覇権や優位を築き上げるかに主眼が置かれている。

 

目に目ない世界に原因や本質があって、目に見える世界に結果や現象として返ってくる。これを仏教では“因果”というのだが、ここ最近はスピリチュアル業界が活性化していることもあって、この見えない世界についてもある程度はコントロールする方法というのが解明されてきているのだ。

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スピリチュアルや自己啓発というと毛嫌いする人もおり、かつては俺もその一人だった。ところが、それをやることによって多少でも成果が変わるものだとすると、やらない手はないと思うのだがどうだろうか。いや、むしろ実社会の作法や慣習としてもやった方がいいものは少なくない。そのほとんどが労力を要することではないので、ポスト成功者は心に余裕を持ち、やらなくて損をするくらいなら目に見えない世界を徹底的に活用した方がいい。

 

少し話が脱線したのだが、俺がライフワークにしているグレイシー柔術でもコントロールということを大変に重視している。完全に相手を支配下に置いた状態。これができていれば、むやみに相手を殺傷する必要もないからだ。では“コントロール”することで、ビジネスや投資でどんなことが可能になるのだろうか。

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まずはその分野で1番になる。これは誰もが目指しているポジショニング戦略であるはずだ。しかし、かりにその分野ですでに自分をはるかに凌ぐ巨人が存在していて、どうやっても勝つことができない。そうしたときは2番手にあまんじてマイケル・ポーターよろしく、フォロアーやチャレンジャーになればいいのか。しかし、ここでコントロールすることの重要性を知っていると、一つのアイディアが出てくる。

 

同じ土俵で勝てないのなら、そもそものゲームを成立させているルールを変えてしまえないだろうか。もしくは新たな土俵を作り出して、そこで先駆者として君臨すればよいのではないか。こうした発想のもとに生み出されたのが、いわゆる『ブルー・オーシャン戦略』なのだ。要はビジネスが成立している価値基準を一新してしまえばいいわけなのだ。 

[新版]ブルー・オーシャン戦略―――競争のない世界を創造する (Harvard Business Review Press)

[新版]ブルー・オーシャン戦略―――競争のない世界を創造する (Harvard Business Review Press)

 

  

成功者といわれる人たちはこれらを徹底的に突き詰めていることが多いのは以前の記事のとおりだ。いかに誰かにコントロールされることなしに、自分の土俵で思いどおりに戦うことができるか。自分や自社が動くことなく、いかに他者や他社をコントロールすることで優位を築き上げることができるか。ここに気づけた人は強い。

www.sandinista.xyz

 

お金のエネルギーが『パワー』であるとするなら、人生の不可能性に抗う『コントロール』の力をぜひ身につけてほしい。そして自分の人生を自分の意のままにコントロールすることで得られる、より豊かで実りのある未来に日本人も目を向けてほしい。コントロールする能力は何も欧米人や成功者だけの特権ではないのだ。

 

では、どうすれば人生をコントロールできるようになるのだろうか。それはまず、今の土俵で動いているルールを徹底的に理解するということだ。そしてコントロールにはどんな形があるのか、そして市場のメカニズムを知ることだ。これについては戦っている土俵によっても形が異なってくるので、一概にはいえないが、世の中に出回っている“戦略”の指南書などをよく読み研究することだ。俺のように国際関係論を学んでみるのもいいことだと思う。そうすることで、どうすれば自分の分野に適用できるかが見えてくるはずだ。

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自らの人生をコントロールし、自由とを成功をつかめ!

 

※参考図書。上段は国際関係論の標準的テキスト。国際関係論にはいろいろな学派が存在するが、これはリアリズムについて多く紙面が割かれている。下段は入門編としての読み物に最適!

国際関係理論 第2版 (勁草テキスト・セレクション)

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ゾンビ襲来: 国際政治理論で、その日に備える

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運命学の運命 ~古の記憶と暦に生きよ~

古代中国では「運命学」という体系だった占術を学問の一つとして扱い、帝王学としても重用していた。『予知』とは五感、五知、四時を用いて、三界に現われる有形、の事象を知る力をいう。『予測』とは五知、四時を用いて、三界に現われる有形の現象を計る技をいう。『予言』とは五感を用いて、三界に現われる有形、無形の現象を感じる力をいう。

東洋の予知学 (東洋史観)

東洋の予知学 (東洋史観)

 

 

予知とは『五感』、つまり「見る」「聞く」「さわる」「味わう」「嗅ぐ」という五つの能力と、『五知』つまり「読む」「書く」「覚える」「算じる」「まとめる」という五つの知識、さらに『四時』とは時間観念(朝・昼・夕・夜)のことで、この二つの要素を駆使していたのだ。また「三界」とは「天」と「地」と「人間界」という意味。

 

一つの地に定着した民族にとっては日月星辰の運行、季節の変化、海流の動き、風の方向などを知ることが死活問題であったことから、占術は予知のためというよりは生活の生命線として存在していたのだ。

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ここ日本ではそこから陰陽学、五行説思考、暦術、天文学などを取り出して、陰陽道として独自の発展を遂げた。さらに中国から算命学が輸入され、日本独自の解釈を取り入れて「気学」へと昇華されたのだ。しかし近年、五知と四時を用いて形ある現象を計る、あるいはとらえる力のことを「予測」といい、ここには五感が働いてはいないのだ。再三このブログでもお伝えしているとおり、現代人の五感は退化しつつある。そんな現代人がかつての運命学を、はたして使いこなせるものなのだろうか。

 

現代の占い師といわれる職種の人たちの多くが都会人である。しかし、そもそもの運命学の起源こそは自然の摂理を読み取る力だったことを考えると、コンクリートジャングルたる現代社会という結界のなかで、自然界の営みや、変化する星の位置、風の流れなど諸々のものを入力し、正しく三界に現われる有形、の事象を知ることができるだろうか。

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そもそもが現代は、古代の太陰暦ではなく太陽暦の一種であるグレゴリオ暦をもとに動いている。そうなると古代とは異なる時間感覚、空間のなかで、古代の知恵を駆使して正確に予知することは可能なのだろうか。運命学はかつて、時間と空間という2つの世界が渾然一体となって相互に作用しあっているものと考えた。これこそが陰陽説である。この陰陽説の思想が宗教と結びついて、道教がいう「空なり」、儒教の「虚なり」、仏教の「無なり」など、時間と空間を区分したところに精神の究極を求めたのは、その出発点において時間の観念を脱したところに結実しているからだ。

 

とくに現代は、空間的認識が希薄化し、時間的認識に偏重した西洋的思考法にもとづいている。いつも時間に追われ、時間をお金で買うことで効率を重視することをベストプラクティスとする。しかし運命学的見地にたてば、時間にも陰と陽の時間が存在するのだ。それを空間的に区切ったものが十二支の発祥といわれている。この十二支に方位を表す符号の十干を結合させたものを六十干支といい、時間的概念を大切にする易占や四柱推命の根拠となっているのだ。つまり、そうした古代の時間の流れをもとにした予知学が、現代の異なる時間と空間のなかで本領を発揮できるのかという疑問が残る。

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では、古代人はどのように世界を認識し、そして生活を送っていたのだろうか。最近読んだ本にアボリジニの人々がどのように歴史認識しているかをフィールドワークで徹底的に読み解いたものがある。ここにおもしろい記述があった。

「時間が空間に従属している」世界にあって、歴史は景観・場所になる。

ある人物との出会いの最初に確認しあうのは、互いの位置と方角なのである。

だから、あらゆる歴史は、特定の場所と特定の身体とのあいだに一回限りで生じるということもできる。

歴史実践は、生ける世界と「人間・主体」との相互関係の中でのみ可能となるのであり、その意味において、歴史は、身体の記憶とモノの記憶と場所の記憶が接触するその瞬間にその場で生じるのである。

 

この本についてはじっくり味わい尽くして改めて記事にしたいが、あらゆるものごとが時間ではなく場所に紐付けられて、記憶されているわけだ。方位・方角を大切にする易占にも通ずる世界観を彼らが太古から有していたことは非常に興味深い。おそらく古代中国人もまた、アボリジニのような世界観のなかに生きていたに違いない。

 

そう考えると、はたして本当に古代発祥の運命学は、場所/空間の記憶を喪失した現代では生かされないのだろうか。そうではない。しっかりと空間を認識することが重要なのだ。しかも古代、中世における祭祀跡や神社仏閣、つまり所謂パワースポットだが、これらを中心に、失われし方位感を自分の中にインストールすることだ。そしてグレゴリオ暦と旧暦の2つの暦を行き来しながら生活をすること。そうすると古の記憶のなかでも生きることができ、現代とは異なる時間と空間が記憶に紐付いてくるはずだ。

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つまり運命学を現代に生かすには、古代の感覚(五感)によって生きる必要があるということだ。

感覚を研ぎ澄まし、古の記憶に生きよ!

人は吐いた言葉で出来ている! 〜旅とマーケティングと霊性と〜

言葉とは何だろうか。それこそ哲学の探求は言語の解明であることは、ウィトゲンシュタインにはじまり、デュルケム、フロイト、ソシュール、カッシーラーやランガー、マルセル・モースなどに受け継がれてきた。しかし、そんな西洋の言語論とは隔絶して、「言霊」として発展してきたのが我が国の言語というものだ。

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言霊…というと、どうしても霊的世界の産物として語られるのだが、思考によって脳の物理的な構造は変わりうるということが、科学的にわかってきている。この現象を神経可塑性という。つまり、思考やその思考の産物として吐き出される「言葉」によって、脳の構造、つまり人格や行動までもが変わりうるということなのだ。

 

日本語は古来より「草木語問ふ」というように、土着のアニミズムと結びついて独自の発展を遂げた。万葉集にはじまり、空海を経て出口王仁三郎に至るまで。その根底にあるのは、まぎれもなく「畏れの感覚」から生まれているのだ。見えないものを見つめ、見えないものを表現するために言葉が生まれた。つまり、そうした感受性とともに言葉が進化を遂げてきたわけだ。だから古代人が言葉を発するとき、そこにはいつも何か見えないものの姿を感じ取っていたのではないか。

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だからこそ、言葉には力があり活力がある。新たな知や発見があるときは、決まって言葉がともなう。あんたにもこんな感覚がないだろうか。人と話している中で自分の中から突然、非連続的なアイディアが浮かび上がる体験を。つまり人間は自分の感覚を言葉で掘っていくことで 、同時にその感覚でさらに言葉を紡ぎ出していくことが可能なのだ。ではそんな時、いったい何者が自らを喋らせているのだろうか。

 

脳科学者の茂木健一郎と俳人のまどかは書籍『言葉で世界を変えよう』のなかで次のように語っている。

発話における 「言葉の準備 」は意識以前に始まるのだと考えられています。根本的に言葉の生成に関わっているのは 、いわば 「無意識の領域 」だということです。(中略)言葉の海が 、無意識の中にあること。自分が発している言葉の一つひとつが 、自分の意識を超えていること。

 

つまり言葉とは、あらかじめ意識的、無意識的をとわず、脳内に生成された言語のデータベースの中で引き出され、合成され、そして最終的に発話される。つまりは、意識的に発話する言葉を変えれば、脳内におけるデータベースさえも塗り替えることが可能だということなのだ。それは新しい物語を宿したことであり 、新しい人生の文脈が始まることでもあるのだ。

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しかしながら、ここには大きな問題がひとつ潜んでいる。それは言葉は身の丈を超えることができないということ。よく言われる「大法螺吹き」や「口八丁」というのがこれに該当する。体験や知識を超えて、身の丈以上の言葉を使いすぎて、説得力を持たないということなのだ。つまり言葉を磨く過程で 、俺らは直感と論理を合致させることができるわけだが、この場合は直感を磨く感性と論理が一致していないということなのだ。言葉と感性は常に同じ言語野から生じていることがわかる。

 

では何が言葉に力を宿すものなのか。前述の書籍でまどかは云う。

俳諧の連歌から生まれた発句が俳句と呼ばれるようになりました。発句には、歌仙一巻を巻き上げるだけの牽引力がなくてはならない。またその世界観が凝縮されてなければならない。ですから 、 「俳句を詠む」とは、それだけのエネルギ ーを持った言葉を詠む行為でもあり、覚悟がいるわけです。

 

言葉を使うのに“覚悟”*1 が必要だったということを云っている。つまり人や人の感情を動かすのには、経験にもとづく説得力と情念が必要だ、ということなのだ。そう考えるとすべての符号が合致する。小規模事業者向けに独自の発展を遂げてきたダイレクトレスポンス・マーケティングといわれる分野が存在するのだが、この手法でもっとも重要視されているのがコピーライティングの能力だ。この手法では消費者の感情に焦点を当て、消費者心理から逆算して言葉を紡いでいく。

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しかし多くの事業者はこの本意を誤読し、この手法で使われるテクニックだけを駆使し、ネット上には無為に消費者の感情を煽ろうとする、無知で蒙昧なセールスコピーが溢れかえっているのだ。しかし、本当のマーケターというのは消費者になりきることで思いの丈を文字に乗せ、その障害となるトリガーをひとつひとつ見事に解除することに長けているのだ。擬似的であれ経験を言葉に置き換えて 、すばらしい体験が結実したことで発話される言葉の威力は他者をも動かすのだ。

 

では言葉を磨く感性を高めるためには、どんな行動が必要になってくるのだろうか。言葉が本来、見えないものを表現するための手段だったとすると、その答えもおのずと見えてくる。要は脳のなかでも通常使われない部分を刺激すればいいのだ。そのもっとも手っ取り早い手段が「旅」だ。人は旅をとおして未知の価値観や光景と出会う。そうした未知の体験を言語化しようとすると、従来使われていた言語野以外の脳が刺激され、新たな言葉が生成されていく。人生経験が豊富な人間の語る語彙が多いように、旅をする者は定住者よりも豊富な語彙を獲得できるのだ。松尾芭蕉が旅することで、『おくのほそ道 』を書いたことにも共通している。

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言葉の持つ力、磨き方について述べてきた。最終的に気をつけないといけないことを述べて筆を置こう。それは言葉には最終的に責任がともなう、ということだ。当然、“覚悟”の言葉の代償として、必ず自らが吐いた言葉には自ら責任とリスクを負う必要があり、また周囲からはその言葉を基準にして評価されるということなのだ。美しい言葉、力ある言葉を吐くことは誰にでもできる。しかし自らの人格と行動を一致させる必要が必ず生じる。

 

そういう意味でも、言葉は身の丈を超えることはできない。言葉は視線と注目を集める。それは人ではない、不可視な何者かであったりもするのだ。だからこそ言葉は大切にしなければならない。つまらぬ言葉を吐き出してはならない。

 

明日を生きるためにも、言葉を磨こう。

 

言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ

言葉で世界を変えよう 万葉集から現代俳句へ

 
言霊の思想

言霊の思想

 

“余白”の詩学 〜ゲーリー・スナイダー『終わりなき山河』〜

某所にもとめられて書いた、約500文字の書評。 俺が単一の書籍について語ることは少なく、公開するのもまた乙なものだと思った。この詩集は俺の人生においてもマスターピースといえる重要なものなので、ひとりでも手にとってみてくださる方がいることを願う。以下、原文ママ。

 

終わりなき山河

終わりなき山河

 

 

人生を歩むなかで、それぞれの節目に必要に迫られて取り組んできたライフワークや様々な問題意識が、実は1本の線で繋がっていると感じることがよくあります。私の場合、古代中国の自然観や老荘思想、陰陽五行を生活実践の場で活用しているので、生起する物事ひとつひとつに必然性があって、起こるべくして起きているような感覚をよく体感します。

 

そうした自分のなかの心象風景が、『終わりなき山河』の詩の世界観と重なるのは当然のこととして、スナイダーのヴィジョンにもあきらかに生きとし生けるもの、地球がつくりだしたすべてのものは有機的に結びついていて、地球というフィールド自体が悠久の時間の流れから生まれた、一つの叙事詩であるという観念を強く感じさせられます。

 

自然の厳しさ、雄大さを前にした人間の営みのちっぽけさ。飽くなき欲望に突き動かされ付加し続けることで発展する人間社会に対して、引くことで見えてくる豊かな精神と自然の姿。簡素な言葉で大きな世界を視覚化する、見事な詩のダイナミズムに気付かされた1冊です。

 

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“覚悟”のすゝめ 〜直感と決断で現状を打破せよ!〜

人は惰性で生きる。変化を嫌うものだ。しかし、時に焦燥感に駆られ、冒険に繰り出そうとする。または不意に今の環境から抜け出し、まったく違う土俵の上に立ちたいと願うことさえある。しかし、多くの人が何も捨てることのないまま、今そのままの状態で、人生の「あちら」側への冒険へ繰り出そうとするのである。

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人というのは不思議なもので、「得る」ことよりも「失う」ことに対して過敏になる。目の前に得られるものが見えていても、なかなか自分の持っているものを手放せないものだ。しかし、よく考えてほしい。たとえば1,000万円の売上を作りたいのであれば、少なくとも100万円程度の販促などの費用は必ずかかるものだ。実業ですら10倍のレバレッジが必要になるというのに、多くの人はそれが「投資」ではなく、「経費」として考えてしまう。つまり、100万円の決断ができない者に1,000万円以上のお金など生み出せるはずがないのだ。

 

俺はよく仕事柄、「どうしたら成功できますか?」と質問を受ける。そんな時決まって云うのが、「決断すること」なのである。簡単な話である。成功と位置づけるものに見合った原資や時間、労力を用意するだけでいい。あとはその分野のプロフェッショナルに教えを請うなり、多少の費用を負担して任せてしまえばいいのだ。誰でも分かるロジックなのだが、自分が持てるものを失う恐怖に苛まれ、多くの人が決断する勇気を持てないでいるのだ。生きていくために失くてはならないものなど、そう多くはないというのに…

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だからこそ成功者の資質を問われれば、真っ先に答えるものが「覚悟」だ。飛び込む覚悟、手放す覚悟…。自分が何も差し出すことなしに、望むものが手に入るほど都合のいい世の中ではない。にも関わらず、多くの人は無償の施しを求めるものだ。

 

たとえば「キャリアアップのために転職を考えています」という人の多くが、キャリアアップといいながら現状よりも高待遇を求めていることが多い。しかし、よくよく考えてみれば仕事を学ばせてほしい、もっと成長させてほしいと言っておきながら、今よりももっと給料をくれと要求していることの不条理さ。そんなマインドでは成功はおろか転職さえできないのだ。

 

では、なぜ多くの人は「覚悟」を持てずにいるのか。それは見えている世界にとらわれすぎて、見えない世界を感知する能力が低いからなのだ。つまり、想像力が欠如しているのだ。または自分自身を高く見積もりすぎて、エゴを捨て去ることができないのだ。近年、「覚悟」というと書籍の影響で吉田松陰を想起される方も少なくないだろう。「士は過なきを貴しとせず 過を改むるを貴しと為す」と詠んだ松蔭が理想としたのは、武士の生き方だったのではないだろうか。

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)

覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰 (Sanctuary books)

 

 

士農工商という制度に守られていた武士は、なにも生み出さずとも禄があったが、その代わり、四六時中「生きる手本」であり続けなければいけなかった。武士は日常から無駄なものを削り、精神を研ぎ澄ました。俗に通ずる欲を捨て、生活は規則正しく、できるだけ簡素にした。万人に対して公平な心を持ち、敵にすら「介錯」という情けをかけた。自分の美学のために、自分の身を惜しみなく削った。目の前にある安心よりも、正しいと思う困難を取った。赤穂浪士をとっても、そうした武士の姿を見つけることができよう。つまり、彼らにとっては士道=死道といっても差し支えなかったのだ。

 

そうした松蔭の武士道は、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とした山本常朝の『葉隠』の思想にも見ることが出来る。実際には武士としての生き様を説いた書なのであるが、侍がなぜあのような好奇な丁髷(ちょんまげ)というスタイルを重用したかといえば、いつ死んでも恥ずかしくないように、毎日月代(さかやき)を剃り、一片の悔いもない美しい死に顔を公然とさらせるように整えられた、一種の死装束だったからではないか。

 

そう考えると、弟子たちに学ばせるための教科書を夜なべしてしたため、ときに授業で声を震わせ涙ながらに教えを説いた松蔭の姿に私心というものはなかったからこそ、多くの門下生が感化され、維新の日本を背負うことになったのではないだろうか。彼らにはたして守るべきものがあったろうか。

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また、現代人の想像力を考えてみたとき、あきらかに「直感」が鈍っているようにも思えるのだ。直感が働かないから、迷い、自信をなくす。直感とは感覚器官に基づくものなので、身体的な入力があってはじめて発動するものだ。しかし、ただ与えられたものを食べ、決まりきった身体操作に慣れ親しんだ身体は、もはや生命の危機であろうと、不意に訪れるインスピレーションだろうと察知できなくなっているのである。

 

仏教では高僧になるために千日回峰行という過酷な儀礼を経て、はじめて付与される階級が大阿闍梨なのだが、もっとも熾烈をきわめるのが足かけ9日間にわたる、断食・断水・断眠・断臥の4無行をこなす堂入りだ。9日間、一切の食べ物はおろか水や嗜好品のすべてを断つ。そうまでしてこの儀礼をこなすのは、神仏の声なき声に耳を傾けるためだ。食べ物という入力を断つことで本能が研ぎ澄まされ、やがて薄れゆく意識は神仏や自然とリンクしはじめるのだ。つまり、ここから云えるのは飽食の習慣性は理性ばかりを働かせてしまい、本能的な直感を低下させているということなのだ。

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手前味噌な話で恐縮だが、俺自身も覚悟と向かい合ってきた。サラリーマン時代にはじめて年俸が大台に乗った年、年会費30万円もするブラックカードを手にした。いくら大台といってもやはりこの年会費は大きいし、かりに年俸が下がったり失職すればそもそも支払いさえ難しくなる。しかし、ここでひとつの覚悟をしたことで今の俺があるし、世の中の最上のサービスやもてなしを知ることができた。決断によって環境をつくったのだ。「覚悟」が持つ力は偉大なのである。

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本能が呼び覚ます内なる声に耳を傾ける。想像力を駆使して、魂が喜ぶ方向性を見定める。迷うくらいなら、突き進む。そうした覚悟なくしては、環境も変わらなければ、望む成功を手中にすることはできない。

 

現代人よ、覚悟を磨け!

 

吉田松陰 留魂録 (全訳注) (講談社学術文庫)

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