近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

モノトーンに彩られた水墨画の世界と血生臭さの詩情 〜映画『SHADOW/影武者』〜

チャン・イーモウ監督最新作『SHADOW/影武者』を公開初日に観てきた。チャン・イーモウというと色彩の魔術師として、VFXを駆使した絢爛豪華な独自の世界観と武侠アクションというのがお約束なのだけれど、今作は「自分が本当に撮りたい物語と巡り合った」と語る意欲作だ。


映画『SHADOW/影武者』9/6(金)公開/本予告90秒

 

というのも今回は鮮烈な色彩を封印し、白と黒のコントラストで描かれた水墨画の世界にインスパイアされたアートワークなのだという。誰も挑戦したことのなかった未知の領域を、チャン・イーモウはどう表現するのか、自ずと期待も高まっていたのだ。

 

前以て公開された斬新なポスタービジュアルからして、かなり独創性があるのだが、劇中でも象徴的に太極図が描き出されており、作品のテーマ自体を暗示している。また、きっちり老荘思想における陰陽五行説を踏襲した内容になっていて、たとえば敵の剣技を“火”になぞらえ、その対抗策として“水”の剣技で相克を図るなど、随所にタオイズムが顔を覗かせる。戦争の行方を亀の甲羅を使って易占で占うなど、古代中国ならではの趣向が随所に光る。

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内容はというと、三国志の<荊州争奪戦>に着想を得た脚本になっていて、しばしば三国志ならではのモチーフや改変的なギミックも飛び出したりする。「影武者」というと日本では黒澤明だが、中国では影武者を扱った映画は過去に例がないらしく、チャン・イーモウがとくに切望したテーマだったのだとか。とくに秀逸だったのがサウンドワークで、ほぼ全編で琴や笛などの古楽器による演奏で占められていて、現代音楽が飛び出してげんなりするということはなく、一貫した世界のなかに意識を埋没させることができる。

 

俺は彼の代表作『英雄 ~HERO~』の頃からのファンで、とくに武侠ものとして剣技にキャラクターの個性が反映されたアクションにも共感を覚えるのだが、今作ではどちらかというとアクションは抑えめだ。というよりも終始、雨が降り続く中で葛藤に身を悶える、登場人物たちの揺れ動く心を巧みに描写した濃密な人間ドラマになっている。

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白と黒とも割り切れぬ人間心理の不条理さを太極図の陰陽が象徴しており、その折衷としての鮮やかなグレースケールが作品の性格を大きく彩っているのだ。ファーストカットとラストカットが見事に繋がっているのも、人間の宿命の連環が見事に結びついてくる。

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隅から隅まで丹念に意識の行き届いた、完全無欠なアートワークにクリエイターとしてのチャン・イーモウの徹底したリアリズムを感じさせられる。ここまでの世界観を創り出せるのは、アジアではチャン・イーモウと押井守くらいのものではないだろうか。世界観へのこだわりと執着が過ぎて、キャラクターやストーリーの造型が多少おざなりになっている感じは特に共通している。

 

チャン・イーモウが描きたかったものは何か。それは彼の作品を見ていれば、自ずと見えてくるものなのだけれど、母国が忘れ去ろうとしている古代中国特有の美意識やアイデンティティだ。たんに古めかしさへの憧憬や懐古主義ということではなくして、新たな解釈と現代的な感覚で中国人的美意識を蘇らせることによって回帰を促し、新たなアイデンティティを浮かび上がらせようとしているのだと思う。

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そういう意味では紀里谷和明なんかに共通した問題意識に根付いた作品なのだけれど、今や日本が喪おうとしている映画の可能性やクリエーションを感じさせる壮大な実験作になっていると思う。是非ご興味のある方は劇場で観ていただき、ともに語らいたい次第だ。

 

チャン・イーモウの世界

チャン・イーモウの世界

 

成功者…それは価値を生み出す人のことである

よく云われる、「お金持ち脳」と「貧乏脳」というものがある。「成功脳」と「失敗脳」なんて云い方をしたりもする。俺の専門分野であるお金を増やす技術においても、技術を身に付ける以前に、思考の鋳型としてのマインドセットを先に脳にインストールした方が、圧倒的な成果を手にする人が多い。技術や身体的特性は短期間で変えることはできないが、思考の転換というのは即効性があるのだ。

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ところが巷で云われている「成功脳」の思考様式というのは、どうも抽象的すぎるし、どこか宗教的な臭いがする教訓ばかりだ。「貧乏脳は稼ぐことを卑しいと考える。金持ち脳は稼ぐことを尊いと考える」といった類いのものだ。そして、これだけ多様な人種がいる世の中で断定的すぎる印象さえ受ける。たとえば、曰くお金持ちはメモ好きだというもの。これなんかは、「そういう人もいる」というだけのこと。残念ながら、みんながみんな共通している特徴ではないのだ。

 

しかし俺の顧客や友人でもある富豪たちと長年付き合っていると、これぞ成功者といわんばかりの明確な行動的特性が見てとれるのである。それは何かというと、彼らはどこにいようとも、いつでも価値を生み出すことができる、ということなのだ。瞬間的に、まるで手をかざすとサラサラとあふれ出す錬金術師の砂金のように、ライブで価値を創出させるのである。事前に準備をするわけでも、先延ばしにするわけでもなく、即興的にやってしまえるのだ。

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かなり抽象的な話のように思えるだろうから、譬え話で説明しよう。たとえば今ここ日本の都市のど真ん中で、100円の飲料を売りつけようとしているセールスマンがいたとして、彼の飲料は売れるだろうか。答えはおのずと否だろう。どこにいっても飲み物は売っているし、季節的にも喉を潤す必要性をさほど感じない。ところが突如、ロケーションが誰もいない砂漠の真ん中に遷ったとしよう。カンカンに照りつける太陽に体温よりも高い気温で、茹だるような暑さ。そこへ颯爽と現れたセールスマンは、まるで天使のように見えることだろう。その手には魅惑の飲み物。もはや100円どころか1万円出してもその飲料が欲しいはずだ。

 

飛躍した譬えではあるが、これと同じことを彼らは平然とやってしまえる能力を備えている。必要とする人間さえいれば、瞬時にどんなものにでも価値を付与し、商品を創造することができる。それもなんの前触れも前提もなく、その場で。そういう光景を幾度となく見る中で、これこそが「成功脳」というものなのだと思い知らされた。彼らからすれば入念な下準備やヒアリング、打ち合わせ、物事を先延ばしにすることはサラリーマンがやる非効率なこと。必要なときに必要なだけ、悩みや願望にマッチしたソリューションをその場で提供することが手間要らずで、労働に縛られない最良の時間管理術なのだ。

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どのようにすれば、このような能力を身に付けることができるだろうか。一つにはその場にある悩みや願望、フラストレーションにフォーカスし、それらを解消できる価値を見極める力といえるだろう。簡単に「価値」と云ってしまえるほどに、日常で常用しているこの概念を定義するのは実は相当に難しい。たとえば『国富論』を著した近代経済学の父、アダム・スミスは価値をこう定義した。野原にリンゴの木が1本立っていて、リンゴが食べたいがために木に登り、実をもいで元のところへ帰ってきた、それまでに費やされたその人の労力こそが「価値」なのだ、と。

 

また、マルクスの資本論はこうはじまる。「資本主義的生産様式の社会の富は、商品の集積として現れる」。そして商品には使用価値と交換価値があり、この交換価値を測るために貨幣が生まれた。このように、資本論も価値論からはじまるのだ。

 

価値とは、受け取る側の喜びだ。その価値の本質を見誤ったがために、しばしば人とのあいだに齟齬が生じ、炎上したりもする。価値とは必ず受け手があってのもので、価値は受け手を選び、受け手によっても価値は変化する。直感的にこの力学と作用を駆使して、錬金術のように価値を生み出すことができるのは、稀有なマーケティング感覚を持ち合わせているからであろう。しかしその実、彼らは受け手の悩みや願望にフォーカスしているにすぎない。これらは以前の「ビジネスで大切な、たった3つのこと」で紹介した能力でもあるのだ。

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もう一つは、投資の思考様式を学ぶということだ。投資の本質は企業の価値を見抜き、上がるものを買うということ。しかし市場というのは必ずしも効率的に機能しているわけではなく、様々なバイアスがかかり、クラウゼヴィッツの云う“戦場の霧”のように価値を覆い隠してしまうものでもある。そこに価値と価格(株価)の乖離が生じ、投資家が莫大な利益を上げる隙が生まれる。価値を見極めるということ、瞬時に価値を生み出すという成功者特有の行動特性はこうした投資特有の考え方にも通じているのだ。

 

起業家よ、“価値”を生み出せ!

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国富論 ―まんがで読破─

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資本論 ─まんがで読破─

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焼き鳥巡礼 ~誰もがうなる店:横浜編~

このブログの中にあって、ひそかな人気企画となっている『焼き鳥』巡礼。ついに関西を飛び出し、横浜一の焼き鳥の名店と謳われる「里葉亭(りばてい)」に行ってきた。実は味わってみたい本命のお店が他にあったのだが、まずは当地でも随一といわれる由縁を探るべく、人気の高級店であることを泣く泣く承知で、1ヶ月以上も前から予約を入れてこの日を待っていたのだ。

 

ネットを見まわしてみても、そこかしこに「感動」の文字。某グルメサイトで全国2位なんてことも書いてあった。横浜には少なからぬ地縁があるのだが、関東在住時も活動範囲はほとんど都心だったので、焼き鳥マニアとしてはほぼ未開拓の地といえる。しかしながら、そんな横浜のディープゾーン福富町にあって、90年以上も地元民の寵愛を一心に集めるお店として名を馳せるこのお店に、行ってみないわけにはいかなかった。

 

実際にお店に伺ってみると、こじんまりとした佇まいながらどこかレトロで、そしてミニマルに焼き鳥屋のイメージを覆さない。それでいて、焼き台を主役にした劇舞台といった趣きもある。メニューは基本的におまかせのコースのみ。オーダーストップするまでは料理が出続けるというシステムらしい。そんな潔さはその日の仕入れの状況によって緻密に考えられたメニュー構成なのだろう。関西と関東とで焼き鳥の文化に違いがあると考えたことがなかったが、里葉亭の焼き台はあきらかに火力が強い。

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焼き手も繊細な手つき、というよりは豪放に火入れをしながら絶妙なタイミングで串を返している。あきらかに(鶏にかぎらず)肉の扱いに長けた職人技だ。おそらくお店側の意図としても、「肉を食らう」感覚を大事にしているのだろう。鶏・牛を巧みに織り交ぜて、こだわりの極上食材をうまく一つの協奏曲のようにまとめることに成功している。なるほど、がっつり好きな肉愛好家に大受けするわけだ。

 

技巧を凝らすというよりも全国の最高の食材を最高のタイミングで仕上げるべく、新鮮さを前面に押し出し、余計な味付けや仕事が一切ない。ねっとりとしたレア感を残しながらも、外は香ばしいまでにしっかり焼き上げられ、パリッとした外側の食感が奏功して、なんともいえぬ絶妙さがすべての串に存在しているのだ。ひとつひとつの串がメインと云われても納得できる、圧倒的な存在感とクオリティ。まさに王道の名に相応しい。

 

これ以上、語るのも無粋というものだろう。陳腐な言葉なんかよりも、是非その舌で味わってみるがよろし。


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ビジネスで大切な、たった3つのこと ~成功者のレシピ~

既にある1を10にする“投資”行動とは対照的に、0という何もないところから1を創り出す“ビジネス”には、様々な才能が必要なように思われる。しかし、1人で価値を生み出すビジネスと、100人を使って世に価値を問うビジネスでは求められる資質はまるで違う。それぞれ立脚しているステージにもよるが、ある程度までのビジネスならば特別な才能に頼らずとも、どんな人にも再現可能な鋳型があるのだ。

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もし起業を志すなら、もしくは閉塞した現状を打開するために、身に付けておいたほうがいい技術というものがある。それらの技術はお決まりのマニュアルを読んで、練習すれば身に付くというものではない。日常での実践をとおして、自らつかみ取っていかなければならないものだ。本当に意味のあることは一朝一夕に成し得るものではないし、答えが用意されたものではなく答えを見出していくべきものだ。だが、意識するかしないかで大きく結果を左右するものでもある。

 

俺が考えるビジネスに必要な技術、資質を開花させてもらうために、若き起業家にきまってオススメしている書籍が3冊ある。所謂、ビジネス書は人生をとおしてそんなに読み込んだ経験がないのだが、ここで紹介するものは例外的に、自分自身の経験のなかでスキルアップの必要性を実感したとき直感的に選び取って、実際に読んだものだ。どれも平易で理解しやすいものばかりで、千円札2枚に満たない金額で得られる知見や効果は計り知れない。この感覚こそがまさに“自己投資”なのだ。

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ここに挙げる3冊は、いわば成功者への道を示したレシピだ。成功を志す御仁や人生に行き詰まっている人たちには、嘘だと思って読んでみてほしい。そして、行動してほしい。行動なくして、人生は拓けないのだから。

 

ビジネスは“気配り”

ビジネスが商売である以上、人を介さないと生み出した価値は換金されない。そもそも人の心を動かさなければ、自分のサービスや商品は認知されないし、誰も自分のビジネスをサポートしてくれない。だからこそ、ビジネスの核心は、“人”を中心に組み立てないとダメだ。では、どうすれば人が動いてくれるのか。それは引き寄せの法則なんかでもよく云われる、「与える」ことでしか人は行動してくれないのだ。

 

与えるためには、接している人が暗黙のうちに求めていること、困っていることを敏感に感じ取る能力が必要になる。相手の期待値を上回る想像力が必要になる。凝った演出やあざとい行動は、浅はかな思惑を見透かされるものだ。凝りすぎず、やり過ぎない自然な“気配り”が「おもてなし」という精神に凝縮されたものが、日本の伝統である茶道には宿っている。そんな茶道の精神を接客にどう活かすかを、裏千家茶道の師範である著者が徹底的に解りやすく指南した良書が『接客は利休に学べ』だ。サービス業でなくとも学ぶべきところが満載だ。

接客は利休に学べ

接客は利休に学べ

 

 

ビジネスは“答力”

上段の“気配り”に直接的に通ずる能力が、この“答力”だ。前述した「相手の期待値を上回る想像力」こそが、まさに答力なのだ。答力とは読んで字の如く、答える力ということだ。これは著者の五十棲剛史氏が名付けたネーミングなのだが、著者はコンサルティング会社で年間粗利1億円以上を稼ぎ、11年連続No.1コンサルタントとして活躍し続けた人だ。そんな五十棲氏がビジネスマンに必要な能力として、類書にないユニークな考え方やノウハウを示したものが本書だ。

 

聞かれたことを機械的に答えるだけであれば、お客様の期待値を上回ることはできない。そこでお客様の潜在的に抱える“願望”や“悩み”にフォーカスして、答えを組み立てようというのが大きな趣旨だ。お客様の期待を先回りして期待値を超える回答ができれば、商談であるにも関わらず言葉だけでお客様を感動させることもできる。俺自身も「超」が付く大富豪たちを相手に商売できているのは、相手の意図を正確に理解して、そこに直結、もしくは先回りした会話ができているからなのだ。すべてのビジネスマンにオススメできる1冊だ。

稼ぐ人の「答力」 頭ひとつ抜けるオンリーワン養成講座

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ビジネスは“キャラクター”

ビジネスが競争である以上、人と同じことをしていては他者を上回る成果を出すことはできない。認知のされ方と、それに合ったアプローチの仕方が重要だ。“キャラクター”によって認知のされ方が変わるのだとすると、マーケティングはキャラクターを取り巻く“世界観”を創り出すための装置なのだ。今でこそコンテンツマーケティングやインバウンドマーケティングなんていう手法がトレンドになっているが、いつの時代も情報発信と価値の提供がビジネスの中心で、何をどう伝えるかという本質が変わらぬ普遍の原則といえる。

 

1960~70年代に、アメリカでカルト的な人気を誇ったロックバンド「グレイトフル・デッド」。このバンドはとにかく破天荒ながら、時代を先取りしたマーケティングを展開していたのだ。なぜ現代の視点から革新的なことがビジネスとして出来ていたかというと、デッドにとってのファンは単なる消費者ではなく、自分たちと対等なパートナーと位置づけていたことにほかならない。マーケティングをしないマーケティングの、目から鱗が落ちるエッセンスがいくつも散りばめられたアイディアの宝箱みたいな珠玉の良書。いつ読んでもインスピレーションが刺激されること、請け合い。

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ

  • 作者: デイヴィッド・ミーアマン・スコット,ブライアン・ハリガン,糸井重里,渡辺由佳里
  • 出版社/メーカー: 日経BP
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作品集『Terayama(日本語版)』/森山大道

森山大道という日本を代表する写真家をご存知だろうか。ストリートフォトの大家であるウィリアム・クラインに触発され、極端に粒子の荒い「アレ・ブレ・ボケ」を強調した作風と独特の詩情によって、日本ならではの『私写真』という方向性を決定づけた現代写真の旗手であり、時代の寵児だ。それこそ他所で、この御仁に関する優れたバイオグラフィが数多紹介されているので、よもやここで多くは語るまい。

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このほど、彼の手による近作『Terayama』の日本語版を手に入れた。物質的所有欲を極限まで削ぎ落としたはずの俺の生活に、この1冊だけはどうしても手元に置かざるをえなかったのは、これが厳密に云えば森山氏による写真集ではなく、寺山修司の著作であるからだ。これは長らく絶版となっていた寺山の隠れた名エッセイ集『スポーツ版 裏町人生』から5篇を集成し、森山の写真118枚とともに新たに編んだ、紛れもない「書物」なのだ。しかも、この究極ともいえる企画を画策し造本したのが、敬愛するブックデザイナー町口覚氏の手によるものなのだから、のばしてしまった触手を引っ込めるわけにはいかなかった。

 

寺山と森山の邂逅はこれが初めてではない。そもそも昭和における稀代の才人、寺山修司にまだ駆け出しだった森山大道を引き合わせたのは、写真家に転向する前の故・中平卓馬の編集者としての仕事によるもので、森山のデビュー作『にっぽん劇場写真帖』にも詩を寄せるなど、共著といえるほどに大きく関わっている。さらには寺山唯一の長編小説『あゝ、荒野』の再編集版には森山が写真を提供している。森山のあの強烈な個性と作風へと誘った張本人こそが寺山だったのだ。だから森山の写真のどこを切っても寺山の香りがするし、寺山の手による文章は思わず森山のモノクロームなイメージを想起させる。

にっぽん劇場写真帖

にっぽん劇場写真帖

 
あゝ、荒野

あゝ、荒野

 

 

そんな切っても切れない関係の2人の作品を、『あゝ、荒野』も手がけた町口覚が新たに造本したのだ。なんてったって、この御仁。自らがデザインした本のために、使用する紙の原木を求めて北海道の雪深い山中にまで実際に足を運んでしまう狂気の持ち主だ。どんな仕上がりになっているのか気にならないわけがない。実は作家のテキストに森山のイメージを編む町口氏の企画には寺山以外に前例がある。太宰治の名作『ヴィヨンの妻』とともに森山の写真を収録した『Dazai』だ。

 

森山の写真は『Dazai』も『Terayama』もどちらも撮り下ろしではなく、森山の膨大なキャリアのなかで撮りためられた作品から選定され、集成されている。もちろん『Dazai』も出色の出来映えとなっているのだが、とくに『Terayama』は森山自身の人生に深く関わっているだけに、その広範なイメージ群のなかでもキャリアを代表する有名な作品が随所に織り込まれており、まさに森山アーカイブの集大成ともいえるセレクションになっているのだ。ちなみに2017年には坂口安吾の短編小説『桜の森の満開の下』に、森山大道が撮り下ろした桜の写真作品を収録した『Ango』が発売されている。

 

『Terayama』は「ボクシング」「競輪」「相撲」「競馬」「闘犬」をテーマとしているだけに、その文脈に沿ったイメージで構成されている。もちろん「裏町人生」の名に相応しく全編に汚物にまみれたような、エキセントリックな昭和の強烈な芳香を放っており、とくに前半はノイズミュージックみたいに、ただただ鮮烈なイメージがとめどなく眼前に迫ってくるようだ。やがて森山特有のフェティシズムに彩られた静けさを取り戻し、ブルースにも似た、なんともいえないポエジーを醸し出してくる。森山の写真は、そこに意味なんていう野暮ったいものを見出しても仕方がないものなのだ。

 

シニフィアンを持たないシニフィエも、森山が撮ることによってシニフィアンが表出する。しかし、それはまた所詮シニフィエでしかない。そこに現代写真を鮮やかに解体した森山の写真家としての凄みがあるわけだが、まさにファッション的なものまでもアートに変えてしまえる「生ける伝説」の魔術を一望するのに、最適な一冊である。凝りに凝った町口氏による装丁とエディトリアルデザインで、寺山修司の文章を舐める快感も至上の愉悦として付け足しておく。

 

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世の中は紛いもので溢れている

世の中は紛いもので溢れている。真実ではない、真実の皮を被った贋作たち。残念ながら、あんたが信じているものの大半は紛いものだ。食品、ブランド、芸術、身に付けた教養、感動で涙を流した本の著者、趣味で教わった習い事、無垢な信仰心を求める宗教、拝金主義の成功者たち…

 

そうしたもので構成された社会では、常に何が本当で、何が本物なのかを疑心暗鬼になりながら問い続け、生きていかなければならない。または紛いものであることに目を閉ざし、逃避的な享楽に身を委ねて、紛いものに満足して生きていればいいのだから世話がない。実際、ほとんどの大衆はそうして生きている。もしもそれが息苦しいのなら、生き方を変えるのは簡単なことだ。「自分」という軸を持てさえすれば、真贋に惑わされずに生きることができるのだから。

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THA BLUE HERBというヒップホップ・ユニットがいる。もう20年もの間、日本のヒップホップシーンに異議を唱え続け、今なおインディペンデントに活躍している。このユニットが革新的だったのは、脳天気なパーティーチューンが席巻していたシーンに対して、アブストラクトでダウナーなベーストラックに、きわめて辛辣でありながらウィットに富んだ刺激的な言葉のギミックを、滔々と語りかける独自のスタイルで勝負を挑んだことだ。MCのILL-BOSSTINOが吐き出す言葉は、いつだってそうした欺瞞を暴き真実を描き出している。


THA BLUE HERB "ASTRAL WEEKS / THE BEST IS YET TO COME"【OFFICIAL MV】

 

さらに彼らが特異だったのは、出身地である北海道・札幌という地にこだわり続け、けっして体制側である東京に組み込まれることがなかったということだ。つまり商業的な成功を求めるなら東京へ、という既成の概念を覆し、アンダーグラウンド・レジスタンスとして地方からコンテンツを発信し続けている。よもや音楽的な嗜好を越えて、素直にその潔さと一貫性に敬意を表する。先日発売されたばかりの5枚目となる最新アルバムも音楽配信全盛の今にあって、CDフォーマットのみの流通で勝負しながら瞬く間に初回生産分は完売。もはや異端が「王道」になった、と言うべき事態だろう。 

THA BLUE HERB

THA BLUE HERB

 

 

尖るなら徹底的に。中途半端じゃダメだ。何事も和をもって尊しとなす日本の文化は、極端なほどに出る杭、異質なものを嫌う。その結果、大多数が好むもの、大多数が望むものがマーケットシェアを握り、フォーカスが当てられる。ときに黒いものでさえも白いと言わざるを得ない状況までつくり出す。しかし、たとえ大多数に阻害されようとも、不退転の覚悟で何度も何度も挑戦し続け、愚直に挑み続ける。それこそが異端であること、正論であることの証明であり、貫きとおすことでのみ、その言動が正義へと変貌する瞬間が訪れる。異端に焦がれる者の多くが自らに敗け、大勢に屈してしまうからこそ、やり続ける者だけが光り輝くのだ。

 

最近、NHKの番組で山本耀司というデザイナーを知った。もちろん、存在自体はもともと知ってはいたが、その人となりや思想に関してはまったくといっていいほどの無知だった。だけれども、たまたまテレビで目にした彼に対する共感の源は、今でこそモードの最先端として扱われている彼のクリエイションが「反モード」としてのアンチテーゼだったという異端の姿にある。人生の酸いも甘いも経験してなお、「苦しみながら服を作り続ける」と語り、「一日に何回も、ファストファッションで買い物するなんて、少しは疑問持てよ。一着の服を選ぶってことは1つの生活を選ぶってことだぞ」と喝破する、御年75歳の反骨の人生に学ぶべきものは多く、数少ない文献のなかでも以下の語り下ろし著書は、「超」が附くほど刺激を受けまくるマイベスト啓発書の一冊となった。

服を作る 増補新版-モードを超えて (単行本)

服を作る 増補新版-モードを超えて (単行本)

 

 

世の中は紛いもので溢れている。紛いものがもて囃され、真実が直視されない現実。そもそも愚鈍な大衆は、本物なんて端から求めちゃいない。だからこそ、能書きはいらない。異端であることを恐れるな。黒いものは容赦なく黒いと笑い飛ばせ。大勢が強要する馴れ合いや妥協に取り込まれるな。出る杭は徹底的に出てやればいい。本物を見抜く眼を養え。真実に耳を澄ませろ。凡人であることに自覚的になるな。自分だけの武器を磨け。生き様を表現しろ。何者にも侵されぬ世界観を創り出せ。自らの「勝ち」を定義する美学を持て。紛いものには決して満足するな。真実はいつだってシンプルだ。

 

俺がこのブログで書いている記事の真意を見抜く御仁は僅かだ。大多数の漂着民は表層的なトピックだけを貪り、ヒロイックに陶酔することで気持ちよく酔ってお帰りなさる。これは仕方のないことだ。だけどもささやかな反抗の意味を込めて、俺は一読すると扇情的な文章のなかに、それと解らぬ毒をいくつも忍ばせる。ただ消費されるだけの情報には成り下がらない。読み逃げするだけのヤツらにはそれと理解できぬ符丁(コード)を埋め込み、罠にハマればほくそ笑む性悪な俺がいるのだ。だからこそ、同志諸君よ。願わくば他者の文章と向き合うときは、それなりの覚悟を持ってお読みになられるように。

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己が信じたいという願望にではなく、自分が暗黙のうちに信じきっているものに疑いを向けるべきだ。世の多くの人たちは真実に目を背けたまま、自分の理解できる範囲内の世界にだけ触れることで人生を終える。人間という生き物は自分が経験したことのないことは理解しようがないのだ。さらには自分にとって都合がよく耳障りのいい情報は鵜呑みにするのだが、批判的で理解の及ばない情報には疑いの眼を向けるものだ。

 

こうした人たちで質(たち)が悪いのは、自分の理解の及ばぬことに対して、思考を停止させ、周囲の人たちの反応を見て判断を委ねてしまうことだ。判断を委ねる程度なら、まだ救いはある。一番の害悪は最初から様子見を決め込み、評論家のように他人を批判するだけで自分は何も行動しようとしない人間だ。一歩の歩みには人それぞれに要する時間と重みがある。だけれども、その一歩を踏み出そうとする姿勢、勇気にこそ意味がある。そんな人たちを冷ややかに黙視しつつ、傍観するだけの非干渉なヤツら。困難から逃げているだけの大多数の者たち。

 

せめて…これを読んでいるあんたは、そんな人間には成り下がるな。

何が本当で、何が本物なのかを見極め、自分で判断できる思考を身に付けろ!

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“帝王学”を学べ!

冷酷な云い方だが、他人と同じことをしていては人並み以上の人生なんて手に入らない。慰めのように金のかからない趣味に没頭したり、自己欺瞞的な消費を繰り返して現実から逃げてるだけの人生。少なくない妥協と隣り合わせのクソみたいな生活から抜け出すには、突き抜けた行動が必要だ。多くの人は、この事実にちゃんと向き合っていない。必要なのは現実を直視すること、そして行動だ。足りない脳みそは補強しろ。エゴを捨てて現実と向き合え!

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多くの人が自己啓発の一環として読んでいるビジネススキルや処世術に関する読み物は、そのほとんどがより良く現代社会を生きることを目的に、あんたが企業や組織の「使用人」であることを前提にして書かれている。これからの時代にはこういう能力が必要だ、シンギュラリティ後に訪れる世界で求められる働き方はこうだ…等など、耳ざわりのいい美辞麗句がならべられるが、その実、いかに企業のなかで使用人として生き残っていくかを説いているにすぎない。

 

かりに起業や独立をうながす実用書であっても、流行り物のビジネスモデルに乗っかってしまうか、会社組織でつちかった経験や環境をどのようにして売り物にするかを扱っただけの、それまでの人生の延長線上としての発想しか持ち合わせてないものが多い。しかし自らの生き残りと人生を賭けて、他者とは違う独自のレールを敷くという作業は、云わば人生を“コントロール”するということに他ならない。どっぷりと使用人の発想に浸かったやり方では、他人はおろか自分の人生すらもコントロールすることはできない。“コントロール”とは、支配者の論理なのだ。

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使用人という呪縛から脱却し、自分の人生を手に入れるには、支配者、統治者の発想が必要だ。自分という存在をどのように社会のなかで位置づければよいのか。自分が世の中に提供できる価値とは何か。自らの運命をどう切り拓くべきか。それは企業の庇護のもとで生きる使用人には不要な知識であり、理解の及ばない叡智なので一般的に語られることも少ない。支配者のための体系的知識を必要とするのは、社会的にもほんのひと握りの層なので、大量消費を前提とするマスマーケティングでは需要がないのだ。だから、支配者のために語られる知恵が市場に出回ることはほぼない。

 

しかしながら、古代中国には王家や伝統ある家系・家柄など、特別な地位の跡継ぎに対する教育手法として確立された、“帝王学”とよばれる全人的教育が存在した。その存在は歴史書として名高い『十八史略』にも記されている。人を使い、人を統べるにはどのような技法が必要か、君主として国を経営するにはどのような心構えでいるべきかなどのマネジメント論に加え、自らの運命と国の行末を知るための秘術として「算命学」に代表される占術が学ばれていたのだ。占い好きの経営者は多いというが、それも素直に納得できる。

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 ※こちら(↑)は帝王…ではなく「聖帝」。帝王学を学んだからといって、このような御仁が出来上がるわけではない。

 

帝王教育の要諦は、あくまで幼少時から家督を継承するまでの段階で施されるものだ。つまり、統治者になってから勉強するのでは遅すぎるということ。だからこそ自らの人生をコントロールし、今よりも良い境遇を求め成功を望む者は、早い段階で「使用人」の論理から脱却し帝王学を学ばねばならない。使用人の思考のまま、人生の支配者にはなれぬのだ。

 

自らの人生を自らの手で切り拓き、自分の人生を謳歌するためにも帝王学を学ぼう。なにかに妥協しながら生きるよりも、人生を自分のものにするためのバイブルとなる名著を紹介する。理解できずとも、読んだか読んでないかで圧倒的な差になるだろう。

 

易経

『老子道徳経』・『荘子』と合わせて「三玄の書」と呼ばれ、儒教の基本思想となる五経の筆頭に挙げられる経典。“易”者というと占い師のことだとお解りになるあんたは博識だが、易占いの原典である本書には哲学・思想のバイブルとしての側面と、占術のテキストとしての側面があり、それらが入り混じっているために大変に難解な内容になっている。しかし学問や読書をしていれば、なぜか誰もがいつかは辿り着いてしまうという奇書として、不思議な魅力に溢れた古典中の古典。世界や人間の成り立ちに迫る、帝王学の中心を担った一冊。さらに占術としての役割を突き詰めたものが算命学で、後に四柱推命などと交わって運命学の体系が形成されることになる。

易経〈上〉 (岩波文庫)

易経〈上〉 (岩波文庫)

 
易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)

易経〈下〉 (岩波文庫 青 201-2)

 

 

韓非子

荀子の流れを汲む諸子百家のひとつ、法家の代表的人物による国家運営の教典。敵国であった秦の始皇帝が高く評価し、後に三国志で有名な諸葛亮が幼帝劉禅の教材として韓非子を献上したという逸話も残っている。「法」は君主による統治のための道具とした上で、法を至上とした法治国家の建設を説いた。性悪説に基づいた信賞必罰の徹底と、法と術(人心掌握術)による国家運営(法術思想)という徹底したリアリストの視点から、統治者のハウツーを示したものになっている。「引き寄せの法則」などに代表される無償の愛も大事だが、同時に支配者として冷酷な論理も持ち合わせておく必要があるのだ。

韓非子 (中国の思想)

韓非子 (中国の思想)

 

 

孫子

当ブログでも「ブラジリアン柔術に効く『孫子の兵法』」という記事をシリーズ化して、その思想がどう実際の生活や勝負ごとに役立つのか解説しているが、孫子は軍事的側面からいかに敵国を支配するか、自らの軍をどのように統率するべきかというノウハウが簡潔にまとめられた、“生き残り”のための実践書だ。その下敷きには易経や韓非子にも通底する老荘思想が埋め込まれており、リーダー、指導者がどのような世界観のなかで状況をコントロールしなければならないのか、人類普遍の叡智がつまっている。古今東西のビジネスリーダーは必ずといっていいほど読んでいる、勝負哲学のバイブル。

新訂 孫子 (岩波文庫)

新訂 孫子 (岩波文庫)

 

 

マキャベリの君主論

ギリシア・ローマ時代からの歴史上の実例を数多く挙げながら、その成功・失敗理由を挙げて実証的に「君主」としてのあるべき姿を説いた、イタリア政治学の聖典。フィレンツェ共和国の衰退に重ねるニコロ・マキャヴェッリ自身の焦燥、そして強靭な思想が絶対的な君主像を浮かび上がらせ、不可分だった政治と倫理の問題を見事に切り離すことに成功した。「権謀術数」の原典ともされるが、チェーザレ・ボルジアに触発され、軍事力に裏付けられた強力な君主による独裁的政治を提言している。後にルソーが社会契約論において、君主論は「共和主義者の教科書」と称賛している。

君主論 (岩波文庫)

君主論 (岩波文庫)

 

 

マッキンダーの地政学

地政学は国際政治学を形成する一学派で、本書はそんな国際関係における動態力学的な把握を示し、世界に衝撃をあたえたイギリスの地理学者による地政学の金字塔。不確定変数が無数に存在する国際政治の論理を分類し、モデル化しようとする地政学の試みは、社会科学の非主流に過ぎなかったが、この論文によってアカデミズムとも結びつき、為政者にとって必須の知識になった。「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する」の一文は有名だが、思考の抽象度を上げ、視野を高めるのに役立つ。大国の合理的な振る舞い、歴史のダイナミズムが理解できる名著。

マッキンダーの地政学ーデモクラシーの理想と現実

マッキンダーの地政学ーデモクラシーの理想と現実

  • 作者: ハルフォード・ジョンマッキンダー,Halford John Mackinder,曽村保信
  • 出版社/メーカー: 原書房
  • 発売日: 2008/09/27
  • メディア: 単行本
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柔術ビギナーが最初に取り組むべきことは何か? ~グレイシー的指導論~

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グレイシー柔術には体系化されているものだけで600以上の技術が存在し、現代ブラジリアン柔術には1000を超える技があるとされ、今なお日進月歩で新たな技が更新され続けており、その数は増える一方だという。

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柔術をはじめたばかりの初心者が最初に直面するのが、どういった技術から集中的に学んでいくべきか、どのポジションに注力するのが効率的なのかという問題だ。では、そもそも柔術にはどんなポジションが存在して、どのように分類することができるのかということが、技が無限に存在するだけに指導者によって千差万別で、明確に言語化されていないという共通課題が今の柔術界には横たわっている。柔術の知識体系が膨大すぎて、柔術ビギナーの前には厳然と壁が立ちはだかっているのだ。

 

日本においても長年うまく言語化されていなかった柔術の技術体系の全容を、理論的な指導に定評がある、ねわざワールド代表の大賀幹夫氏が『寝技の学校』という画期的な教則シリーズを上梓したことによって、「引き込み」、「抑え込み」、「絞め技」、「関節技」という高専柔道出身らしい解りやすい切り口が根付いたものと考えられる。だが、この分類でさえも万能ではなく、最近のモダン柔術の潮流においては上記の分類にうまく収まりきらない技術も出てきている。

頭とカラダで考える大賀幹夫の寝技の学校 関節技編 (晋遊舎ムック)

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そもそも柔術のルーツはエリオ派とカーロス派に大別されるが、この二派においても考え方や指導方針は極端に異なる。カーロス派の総本山であるグレイシーバッハの実質的指導者、マーシオ・フェイトーザは「優れた柔術家になりたいのなら、少しの技を完全に使いこなせるよりも、間違いなく数多くの技を学ぶことが大切だ」と語っている。これに対して、グレイシー柔術の現当主であるヒーロン・グレイシーは、柔術の本質を「サバイブ(生き残り)」であるとした上で、そのダイナミズムを「ディフェンス」、「エスケープ」、「コントロール」、「サブミッション」の4象限で説明する。

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エリオ派の真正グレイシー柔術を教えるアカデミーが希少な日本では馴染みのない、この4象限については少々説明が必要だろう。そもそも柔術における「ディフェンス」や「コントロール」という抽象的な概念が何を指すものなのか、具体的に理解している柔術家も少ないと思うので、個別に見ていこう。なお、ヒーロンはYouTubeで『Survival Seminar Series』と題して、これらの極意を説明した動画を公開しており、昨年の来日時にもこの4象限をもとにしたセミナーを開催していた。これらのコンセプトが、グレイシー柔術の中核をなす根源的なものであることが理解できる。

 

DEFEND(ディフェンス)

防御こそ最大の攻撃だ、ヒーロンはそう語る。なぜなら柔術における防御は、その危機を脱すると一転して決定的な攻勢のポジションへ移行することが常であるからだ。その上でディフェンスには「大きい(Big)」ポジションと「小さな(Small)」ポジションがあり、さらにはディフェンスの「深さ(Deep)」というものがあって、それらは区別されるべきだと云う。大きいポジションというのは、第一段階として押さえておかなくてはならない決定的な一手やポジションにおける約束ごと、間合い等のこと。そして小さなポジションは相手がサブミッションに移行する過程で生じる細かな攻防や布石のことだ。深さとはエスケープに至る前に施す次善策の段階を示している。エスケープへと至る前にやっておくべきディフェンスが存在する、そう解釈するべきだろう。


DEFEND (Survival Seminar Series - Part 1 of 4)

 

ESCAPE(エスケープ)

日常の脅威を想定した護身術としてのグレイシー柔術で、もっとも特長的なのがこのエスケープ技術といえる。ところが多くのブラジリアン柔術家が「エスケープ」と呼ぶ技術は、得てしてタイミング的に最終局面における逃げ方を指しており、この段階、つまりディフェンス深度0(つまり、詰んだ状態)からのエスケープという状況に陥るのは愚策であり、なるべくその状況にならないようにするべきだという。そのための段階論として「ディフェンス」を最初に示し、もっとも重要視しているのだ。ヒーロンによればエスケープとは本来「クリエイト」するものだという。自分が置かれている状況を正しく認識したうえで、相手に特定の行動を促すように餌を撒いておく。そうして自らの脱出の機会を創造(クリエイト)するのだ。


ESCAPE (Survival Seminar Series - Part 2 of 4)

 

CONTROL(コントロール)

最終的に関節技ないしは絞め技で極めるためには、相手の自由を奪い、しっかりと制御下に置いた状態で仕掛ける必要がある。しかし、やはりブラジリアン柔術家の多くがコントロールすることなしに、いきなりサブミッションに移行しようとしている場合が殆どだという。しっかりとコントロールすることなくサブミッションに移行するからこそ、ポジションを失い、相手に決定機を献上してしまうことにもなる。重力、体重移動、そして細かなディテールを駆使して、しっかり相手を制御したうえで仕上げにかかるからこそ、グレイシー柔術は手順が多く複雑なサブミッションを必要としない。状況を完全に自分の掌中に入れて、相手のミスを誘う。これがアタックにおける要。


CONTROL (Survival Seminar Series - Part 3)

 

SUBMIT(サブミッション)

ヒーロンは云う。コントロール自体が勝利であり、サブミッションは相手から与えられる贈り物(ギフト)だと。しっかりと相手をコントロールしたうえで、エスケープと同様に餌を撒くことで最終的に極めの機会を「クリエイト」する。あとはエスケープの可能性を考慮しながら、相手が無条件に極めのチャンスを差し出すように仕向けるのだ。だからこそ、ロールやスパーリングの最終目的は主体的なサブミッションなどではなく、相手を完全にコントロールできるポジションへと追いやること。このような考え方に立脚しているからこそ、グレイシー柔術は実践的な護身術といえるのだ。


SUBMIT (Survival Seminar Series - Part 4 of 4)

 

以上が、ヒーロンの提唱するグレイシー柔術の基本的枠組みになる。ちょうど先日、経験豊富なグレイシー柔術家と話す機会があり、やはり「初心者は何の技術から身につけるべきか」という議論になった。当然、この御仁は最初にまず「ディフェンス」ありきであるべきだろうと答えたのだが、こうして見ると「生き残り」を至上目的とする護身術ならではの論理がよく理解できる。競技ではない「武術」としての柔術に必要なのは、脅威を「排除」することではなく、まずは脅威を「回避」する能力であり、最終的には「制御」することなのだ。

 

同じ問題への回答として、“柔術スーパーコンピュータ”の異名を持つヒクソン・グレイシー柔術の体現者ヘンリー・エイキンス*1 がつい最近、「Why It’s A Smart Idea to Develop Your Defenses and Escapes FIRST(なぜ、まず最初にディフェンスとエスケープ能力を磨くことが賢いアイディアなのか)?」と題する動画を公開し、興味深い持論を展開している。


Why You Should Develop Your Defenses And Escapes FIRST

 

ここで語られているのは、ディフェンスとエスケープ技術の熟達によって得られる心理的優位性、それによる支配的(コントローラブル)なポジションを維持する機会や可能性の向上などだが、ディフェンスやエスケープ技術は体力の消耗を可能なかぎり抑え、長い時間をリラックスした状態で動けることが最大の効用として、柔術レジェンドであるヒクソン・グレイシーの最大の武器もまた、これらの技術に精通していたことだと語られている。基本的にはエリオの思想を踏襲しながらも、よりトップポジションのキープを重視するヒクソンの真髄もまたディフェンスとエスケープ技術だった、というのは興味深い話だ。

 

ここでまとめるべき結論は、すでに示されている。まず何の技術から教えるべきか。これは各アカデミーや指導者としての思想や哲学、特色が如実に反映する部分だ。だからこそ迷う部分でもあり、人によっては答えが異なる。だが柔術の格闘技としての実用性、護身性は、そのDNAに宿っている。なればこそ、おのずと答えは見えてこよう。

 

サバイブせよ、柔術家たち!

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*1:ヘンリーについては以前に『ヘンリー・エイキンスから読み解く、インビジブル柔術【入門篇】』で詳しく取り上げているので参照のこと。

焼き鳥巡礼 ~誰にも教えたくない店:関西編②~

意外にも、以前に焼き鳥の俺的名店について書いた記事が好評だった。 あきらかにこのブログに訪れる客層とは異なる趣向ながら、驚くべき精読率を誇る記事となった。やはり「食」というのは、人類普遍の関心事なんだろうな。そんなわけで性懲りもなく、「焼き鳥」名店論の続編を書いてみた。

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この店のことを書くべきかどうか、迷った。なんせ、閑静な住宅街だけが存在するローカルな町で、神戸の焼き鳥の頂点に君臨すると云っても過言ではない、あの伝説的名店から徒歩10分圏内という立地に位置しているからだ。否応なく、かの名店と比較されてしまう。それでもなお書かずにいられなかったのは、どう吟味してみても名店の味に引けを取らないばかりか、ある基準に照らすとむしろパフォーマンスに優れていると判断したからだ。

 

では、その「基準」とはなにか。ずばり云ってしまうと…価格である。美味いものはそれなりの金額がする。これは世の中に通底する真理だ。翻って云うと、それなりの金額を出せば美味いのは当たり前で、そこに期待値以上の感動は生まれにくいのではないか。最近とくにそう思うようになって、外食するときのひとつの「指標」として値段を重要視するようになった。

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一方で、そこそこの値段と素材でも期待値以上の味を提供できる店や料理が存在する。ときにB級グルメなどと揶揄されかねない危うさを孕みながらも、想定外の安価によって期待値以上の味に遭遇すると人は否応なしの感動と出会うことができる。そして、安価であるがゆえにより多くの人とその感動を分かち合うことができる。それはなにより、料理の理想を体現しているのではないかと思えるのだ。

 

そういう視点で見ると、件の名店はこだわりにこだわった最高の素材を、最高の状態、最高のタイミングで供するために少なからぬ出費をともなう。もちろん素晴らしい技術と素晴らしい接客によって、お値段以上の満足と感動が得られることは保証する。なんてったって、俺にとっての焼き鳥道を拓く端緒となったのは、その名店と出会ったが為なのだ。そんな初恋の相手を前にしても、世の中に伝えるべき必然性を感じさせられたのが今回の店なのだ。店の名を「TORI(トリック)」という。

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(写真: [食べログ]より転載)

 

ここまで云うからには、どれほど安いのか気になるところであろう。両者を正当に比較するにはメニューや品数も違うので難しいところだが、おそらく5,000円もあれば満足いく飲み食いができる。この値段で出せるのにはやはり理由があって、高級な地鶏を素材として使っているわけではないのだ。しかし、地鶏に勝るとも劣らない地元のブランド鶏を朝引きで使っているため、なにより新鮮で繊細な味わいを楽しめる。そして、この店の最大の特徴は「焼き」の技術にある。

 

お店のホームページからそのこだわりポイントを拝借すると、「備長炭で店主が一本一本手作業で焼き、同じ部位の素材であっても 串の場所、季節によっても焼き方を微妙に変えており、そのため一本一本、素材によって焼き方が違う」のだという。どこにでも書いてそうなことだが、過度に盛った表現を一切使うことなく、こだわりの製法について表現した殊勝な文章に、TORI喰という店の本質がよく現れている。つまり、いっさい奇をてらうことなく、ただひたすらに「王道」の焼き鳥なのだ。まるで製作時期ごとに異なる味わいを漂わせながら、モダンジャズという未開の地を切り拓きつづけた巨人、マイルス・デイヴィスのように。

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店舗を現在の設えに改装するまで立呑スタイルの焼き鳥屋だった、という経緯もあってか親しみやすい昔ながらのメニュー構成となっている。使われている鶏の産地、淡路島は玉ねぎなどの名産地でもある。そんな淡路島の食材を中心に、多大な地元へのレペゼン(敬意)を感じさせる。基本的に串焼きは塩焼き、素焼きを基調にしつつ、臓物など随所でタレ焼きも楽しめ、どれもシンプルでいて奥が深い。昔、「何も足さない 何も引かない」というキャッチコピーのCMがあったけど、この店の串焼きを食すとまさにそんな境地を実感させられる。

 

焼き鳥は鶏を仕入れ、捌いて、仕込んで、焼くというだけの極めてミニマルな料理なだけに、その美味さの決め手となるのは、素材4:仕込み2:調理4くらいの割合だろうと個人的に考えている。そこへいくとTORI喰さんでは元気鶏というブランド鶏とはいえ、とりわけ値の張る地鶏を使っているわけではなく、けっして超一流の高級食材というわけでもない。ただ確かな食材を地の利を活かして、新鮮なまま最低限の下処理だけを施して最高の状態に焼き上げている。やっていることもまた極端なまでにシンプルなのだ。

 

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言葉少なで癖の強い店主ではあるが、おそらく焼きの技術は関西随一といっていいだろう。多くを語らず謎めいた人物ではあるが、想像を絶する下積みを積んだことがその味から窺い知れる。おそらく彼の手にかかれば、凡庸な食材であっても驚くべき味わいに変貌させることができるのではないだろうか。よもや一地方都市のしがない街で、このような技量を持った職人がひっそりと店を構えているとは思いもよらなかった。まさに“備長炭の魔術師”と云えそうな技巧は圧巻だ。

 

店の焼き台、炭の組み方には店主の思想と哲学が現れる。備長炭は備長炭でも、どの産地のものを使っているか、どれほどの直径の、どんな大きさの炭を使っているのか、炭はゆったり組むのか、それとも詰めて組むのか。一つ一つの要素にはそれぞれ理由があって、理想とする焼き上がりを具現化するために、店主は模索の果てに自らの焼き台を組み上げる。けっして大きくはない、TORI喰さんの焼き台の中は一体どうなっているのだろうか。興味と追求の念が尽きぬ。

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(写真:ヒトサラより転載)
 

昨今はとくに、焼き鳥の世界でも熟成などの手法で加工を施す店が増えた。人気店の多くはそうした処理を少なからず行っている。しかし特殊な手間を一切かけることなく、新鮮な食材を最良の技術とタイミングでシンプルに食べさせる。そういった、飾り気も駆け引きもなく、当たり前のことを当たり前に追求した、自然な味わいこそが一番美味いことに気付かされた。

 

それに対して華美な表現や凝った賛辞は必要ない。云うべきことはひとつ、ただ「美味い!」ということ。自らの裡から湧きおこる、その感嘆のたった一言を求めて。俺は今日もまた焼き鳥屋を彷徨う。

 

やきとりと日本人 屋台から星付きまで (光文社新書)

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dancyu2017年5月号

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おとな旅プレミアム 神戸 (おとな旅PREMIUM)

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折り返し地点の「迷い」と「決断」、その先にあるもの

「はてなブログ」というWebサービスを利用して日々このブログを書いているのだが、毎週更新の「お題」というネタの共有機能があって、誰でも乗っかることができる。そんな企画に、はじめて乗っかってみた。

 

お題は「迷い」と「決断」。人生の本質を突いた、いいお題ではないか。自分自身も30代は本当に色々あって、様々な迷いと決断に迫られた。だからこそ、今見えている景色を書いておこうと思った。おなじように、人生も折り返しに差し掛かった人たちに捧ぐ人生応援挽歌。

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なんてったって、人は“考える葦”だから。どんな境遇の人にも等しく「迷い」と「決断」の積み重ねの果てに今があるし、これから先も少なからず「迷い」と「決断」は存在し続ける。そして、多くの人にとっての迷いの根源となるのが「仕事」にまつわることだろう。おそらく、このお題について書かれた他のブログの多くもまた、仕事と自分の人生のかかわりについて言及されたものだと推測できる。人間にとって「仕事」とは何なのだろうか。

 

生きるための手段、人生の目的、自己実現の方法、社会貢献など…それこそ、人それぞれの「仕事」に対する考え方や矜持が存在する。それを一様に定義することなど不可能だ。若者はいつの時代だって自分の存在意義について悩むものだし、とくに昨今では社会との接点を断った中高年による引きこもりが深刻化している。こんな時代だからこそ、自分にとっての仕事というものを、今一度考えてみることが重要なのだ。

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この問題を突き詰めていくと、必ずと云っていい命題にブチ当たる。人は何のために生きるのか、と。ネガティブに考え出すと悲観することしか出来ず、社会はとにかくポジティブであることを強要する。そして多くの成功哲学や自己啓発は、自分に崇高なミッション(使命)を掲げることを求める。しかし迷える名も無き者にとっての「ミッション」とは、いくら思考は現実化すると言われても、実感に乏しい遠いものでしかない。

 

誰かのために人生を捧げたい、誰かの役に立ちたいという思いは、誰もが潜在的に共通して持つ願いみたいなものだ。自分を取り巻く人々を幸福にしたい、自分が生きた証として何かを残したい。心の底のどっかでは必ずそうした思いを持ち続けている。しかし自分自身が生きていくことに精一杯になり、自らの無力さを知ると、そうした思いを次第に忘れてしまう。社会に出て様々なストレスに晒されると、人との関わりまで希薄化して、人間は歳を重ねるごとに自分の価値観の外から出ようとしなくなる。

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ところがある瞬間に、人の意識は鮮やかに変化する。それはいつ訪れるとも知れない、夜と霧のように。起点になるのは、自分のことではない誰かの人生を想うとき。守るべきもの、大切にすべきものが自分の外に見つかったとき。不意にかつて抱いていた気持ちを思い出し、利己心を捨て、自分ではない他者のために生きる決断をしたとき、はじめて見える景色がある。その景色によって、それまで持っていたその人にとっての「仕事」の意味合いが大きく変わる。生きる意味、働く目的がほんのちょっと自分に歩みよる瞬間。

 

人の意識が変わる、または変わろうと決断するときというのは、いつだって新たな出会いに導かれたときだ。自分ではない他者との出会いが、自分を変えるべき必然性を運んでくる。翻って云うと、人と出会わなければ成長も失敗もない。人との関わりがなければ、人生に前進も後退もない。お決まりの場所で、いつものメンツ。そういう関係性も素敵なことだけど、やはり新たな出会いに勝る刺激はない。人が新たなことに挑戦するのは、新たな人と出会うということでもあるのだ。

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最近こう思うようになった。取り返しのつかない決断なんてものはない。何かをはじめるのに年齢的に遅すぎた、なんてこともない。人間、いつでもなりたい自分になれるものだ、とね。過去を悔いることには意味がない。何かを悔いるのなら、今からやり直せばいい。失ったものは取り戻せばいい。人は過去に戻ることはできないけれど、回数無制限で未来を上書きすることができる。何度、失敗したっていいじゃないか。重要なのは、決断すること。自分の人生は決断し、行動することでしか未来を切り拓けない。

 

立ちどまることなく、迷いの霧を

犀の角のようにただ独り歩め。

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