近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

日常の<入力>と<出力>

決まった周期、決まったペースで、まとまった文章量で、何年も飽くことなくブログ記事を生成し続けてる人ってすげえなって思う。マジで尊敬するよ。いや、厭味なんか無しにしてさ。だって、コンスタントに記事をアウトプットできるってことは。頭ん中のバーチャルな世界と日常生活のリアルな物事がほぼ等価ってことなんだから。日常生活をつつがなく、よどみなく日々更新しながら、記事にする話題やらネタやらを日夜妄想し続ける。映画『容疑者Xの献身』で犯人・堤真一が一見するとカオスな浮浪者たちの行動様式・習性を「美しい」と形容したように、その絶妙なバランス感覚っていったらもう。押し寄せる前から波がどんなブレイクするのか悟りきった、白い歯が眩しい黒光りの老練サーファーみたいなもんだ。

容疑者Xの献身

容疑者Xの献身

 

 

なんにしたって極端すぎるくらい切り替えるってことが苦手な俺みたいな人種は。たとえばある程度まとまった日常の出来事を経験しないと記事にするだけの素材もなければ書く意欲さえ湧きゃしない。つまり普通の人間はだな。一定の入力がないと出力できないってことなのだ。吐き出しては蓄え、吐き出しては蓄えの繰り返し。出力を生産量に置き換えると、あたかも予定調和のごとく正規分布的な上下動を繰り返すお決まりの波線グラフになるってこと。人間ってのはどこかに偏るように出来てて、均衡点みたくすべてにバランスするってことはまずあり得ない。デジタルか現実世界かの二者択一を迫られたとすると、必ずどっちかに比重があって。そうでもなけりゃ、頭ん中か現実の生活のどちらかが破綻してることになる。

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そこへいくとコンスタントにアウトプットできる人ってのは、わずかな入力であってもある程度まとまった文章量で成果物に出力できる豊かな想像力があるってことだ。しかも妄想の世界に埋没するでもなく、普通に生活しながらそこはかとなく日課のようにこなしてしまえる器用さを兼ね備えている。その見事な平衡感覚たるや、御見逸れしやした!ってぐあいで。こーゆー人ってのはたぶん分裂症的傾向もなけりゃ適度な客観性をあわせ持ち、静かに日々の暮らしを全うしているのだ。なかば強制的に変化に富んだ想像界と現実界の間の忙しない行き来を強いられる現代にあって、よりデジタル世界に順応した(進化型としての)ニュータイプといえるのではないだろうか。

 

そう。普通の、といって差し支えないかどうかはわからんけれど。ごく一般的な人たちにとっての日常には必ず“波”がある。その波はときとして“ムラ”と呼ばれることもあるし、ときに“バイオリズム”と呼ばれたりもする。人生には好・不調のサイクルがあり、そのサイクルに合わせて生産量も、クオリティさえも変化するものだ。そうすると俺らのような“標準的人間”における最適な戦略ってのは、その波動に合わせて入力と出力を変えるってことにある。Aという入力に対してなにかしらの干渉をきたすのであればBという入力に切り替える。入力の切り替えとともにA’という従来の出力もB’という新たな出力に切り替えることで、直近とは異なる成果物をアウトプットしてその質と量を担保するということだ。ある意味では「割り切り」ともいえる気持ちの切り替えや息抜きってのは存外重要なことなのだ。

 

たとえば読書ということ一つとっても、小説みたいな物語形式がすーっと頭に入りやすいときもあれば、自分の関心ジャンルにフォーカスした教養書が身になる時期っていうのもある。読書自体にどうも熱が入らないってときは散漫になってる頭で無理して活字を追うよりも、本から離れて実生活や新たな習慣づくり、人脈形成なんかに集中した方がいい場合ってのもある。書を捨てよ町へ出よう、ってね。まじ名著。

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

書を捨てよ、町へ出よう (角川文庫)

 

 

かりにコンスタントにコンテンツを生産できる人を「ニューエコノミー」、生産性に波がある人を「オールドエコノミー」とすると。両者が生成したコンテンツの質に明確な“差”は存在するのだろうか。たとえば『雪国』『伊豆の踊子』など日本人ならではの精神性や霊性を美しくも重厚な文章で描いた川端康成は大変な多作で知られる。戦前から長編・中編小説だけでも毎年数冊の驚異的なペースで書き上げ、加えて評論や随筆、脚本なども数多く残している川端は紛れもなく「ニューエコノミー」な作家だった。日本芸術院賞、毎日出版文化賞など多数の受賞歴があり、けっして成功と同じ数だけの失敗作、駄作があったというわけでなく、あり余る才能の持ち主であったことがわかる。

 

一方、『洪水はわが魂に及び』、『同時代ゲーム』など強固な政治思想を下敷きに魔術的リアリズムに触発された独特の詩的世界を描き出し、今なお筆力が衰えぬ大江健三郎。寡筆というわけでもないけど概ね1~3年に一冊というペースで出版点数上は多少の波がみられる一冊入魂型の「オールドエコノミー」な作家だ。1958年の芥川龍之介賞を皮切りに谷崎潤一郎賞など、やはり多数の受賞歴があって入念な執筆活動の末に一作品一作品が評価された結果といえる。川端康成と大江健三郎。ここまで読んでお気づきの方もいらっしゃろうが、両者ともにノーベル文学賞の受賞者なのだ。

 

クリエイティブにおけるニューエコノミーとオールドエコノミー。両者を分ける経済統計なんかが存在しないように、その明暗はつけがたい。だが、しかし。「量は質を凌駕する」とよくいわれるように、ある瞬間から劇的にクオリティが増大する閾値というものが存在する。その閾値にいきつくには一定の習熟度が必要なように、質を求めるにもまずは量が重要になってくる。量が閾値を超えた瞬間からコンテンツは急速に価値へと転化し始めるのだ。そういう面では、一定のペースの中でアウトプットを生産できる能力というのはかぎりなく優位だろう。とくにデジタル世界においては入力が一定であるなら先行者は時間の経過とともに生産性が増す“収穫逓増の法則”が働くといわれる。

 

なればこそ多少のインプットの出来・不出来には目をつむり、痴態を衆目に晒すのを覚悟でアウトプットし続ける、そーゆー態度もまたネット社会においては「正」なのかもしれない。まずはアウトプットの量から順応する。その次に質。要は四の五の言ってないで「見るまえに跳べ」ってことだよ。

 

見るまえに跳べ (新潮文庫)

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