近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

天翔“技”閃(あまかけるわざのひらめき) ~「技術」の考察~

撮りためていたテレビ番組を見て、驚愕した。*1

 

7月に放送された『情熱大陸』の魚店店主・前田尚毅氏の回だったのだが、なんと…テレビカメラの前で「脱水」がおこなわれているではないか。

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「脱水」とは鮮魚の水分量を調整することで食感を引き締め、旨味を前面に引き出すことができる技法だ。ながらく一部の鮨屋で実践されているとされながら、門外不出の伝統技として決して世間の目に触れることはなかった。しかし近年、この技法は鮮魚だけに留まらず肉類にも広く適用され、焼き鳥 *2 などの人気店は必ずといっていいほど、この「脱水」か、もしくは「熟成」のいずれかを取り入れて研究を進めているとされる調理技法なのだ。技術の詳細は秘匿されているとはいえ、よもや料理人垂涎の、幻の技法がテレビで放映されるとは…すごい。

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(写真掲載元:ONESTORY

 

しかも番組内では築地でも一部の職人しかできない神経抜きといった処置や、死後硬直が始まる前の、新鮮な近海ものの鰹のみが名乗りを許される“もち鰹”の繊細で徹底した温度管理の技法など、神業的ともいえる職人芸がこれでもかというほど惜しげもなく披露されている。あまりにも貴重で贅沢すぎる映像だ。日本が誇る職人技の伝統を知らしめる意味でも、たいへんに史料的価値の高い番組だったように思う。

 

この前田尚毅という男、冒頭から魚を触っただけでその胃の中身まで当ててしまうのだが、そんな芸当を目の当たりにして「なぜ判るのか?」という番組スタッフの問いに「なんでって、魚屋だから」と涼しい顔で平然と答えてしまう。弟子のミスに対してはべらんめえ口調で執拗に悪態をついたりするのだが、そんな口の悪さもご愛嬌。徹底して自身の技術を高めるがゆえの厳しさなのだろう。典型的な職人気質(かたぎ)というやつだが、彼の技が施された切り身の断面は造形的にも美しい。はたしてこの人間国宝ばりの前田氏の技術を、何故これほどまでに美しいと感じることができるのだろうか。

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(写真掲載元:ONESTORY ) 

 

そもそも“技”とは何か。武術などでも「技をかける」などという語を頻繁に使う。合気道の創始者である植芝盛平は「動けばそれが技になる」という言葉を残しているが、これをよくよく理解すると一般的な身体操作が脳で入力されたものを身体に出力することを指すのに対し、植芝の言葉は身体で入力したものを身体で出力することを指したものであることがわかる。そうすると術理というものが、“論理”や“ロジック”のような知性的世界の産物ではないことが理解できる。つまり術理とは本来、非線形の科学的アプローチとしての閃きから生まれるものではないということだ。

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これは武術や古典芸能を経験された方ならば体験的に理解できることだろう。ある分野で新しい技を生み出そうと思うと、まずはその分野の基礎的な動きを一から身体に叩き込まないことには新たな動きは生まれない。どんなに頭で理解していても身体が完全に従属するものではないし、身体にはその人固有の癖ともいえる属人的な動作が付着しているものだ。“習う”とはその分野独自の動きに順応して、そういった自らの癖を自覚することでもある。つまり技を習得するというのは、癖を超えて、動きによって別の誰か(師匠)になりきるということなのだ。それは“習う”ことの延長線上でしか為しえない。

 

自分ではない別の誰かになりきるということは、とりもなおさず自分以外の存在を受け入れることでもある。そして、それは自分の論理では説明できない、説明がつかない事態をも受け入れていくことへと繋がっていく。そうやって自分のなかの他者を育んでいく。すると次第に自分と他者との境界は渾然一体となって、すべてがないまぜになっていく。他者が自分に、偶然が必然に、思考が行動に。一見すると関係なさそうなものの相関性を発見する、それこそが「応用」することでもある。その相関性を見出すことで、どんなものでも有機的に繋ぐことができるようになるわけだ。それは属人的な体験をとおしてしか見出すことはできない。

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このような技術の生成プロセスがあるからこそ、職人や芸能の世界では丁稚奉公や付き人から修行をスタートさせることが一般的だったし、あらゆる芸事もまずは真似るということが尊重され、師匠の芸のみならず思考や生活まですべての様式をトレースすることが求められる。このように長い年月をかけて修行を積んだ術者は、修行の足りない人の目には知覚できないほど小さな時間の切片の中で、事物を知覚し機能させることができるようになる。あらゆる技は、技術は最終的に時間をいじることへと行き着いていくのだ。

 

この時点で、あんたの頭の中には今「?」の文字が明滅しているのではないだろうか。ある技を覚えるということは、その技を使って切り拓くことができるもう一つの未来をつくり出すということでもある。ふたたび武術からこの論点を語ろう。個人的に大好きな映画監督チャン・イーモウの傑作『英雄 ~HERO~』の中に、こんな場面がある。

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始皇帝の命を狙う刺客・長空を追いつめた主人公(ジェット・リー)が、剣撃によって起こるはずの現実を頭の中で精緻にシミュレーションする。そして、その意識の中で展開しているもう一つの現実とを隔てる次元を破り、双方の想像を超えた一撃によって決着するという象徴的なシーン。思考の中でシミュレーションによる戦いを繰り広げるというのは武術家であれば常に行っていることなのだが、この映画が描いたのは術者の技工が精緻化すればするほど思考は限りなく現実化するということだ。それはあるべきはずの未来を描き出し、と同時にいくつかの並行世界(パラレルワールド)を知性的に生成させ得る。

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どの技法を使うかという判断は結果として、いくつか並存する未来の中からひとつを選び出す作業でもある。それが武術であれ料理であれ伝統工芸であれ、技術には選択的に未来を紡ぎ出すという物語性が内包されているのだ。術者が技を施す瞬間というのは、それ自体が彼らにとっての「作品」でもある *3 。だからこそ、そのような「作品」を多く生成すればするほど、瞬時に特定の物事を判断できる根拠としての「識別眼」をも備えることになる。それが結果として常人と名人との時間感覚を隔てるものとなり、技が時間をいじることに行き着くと申し上げた所以なのだ。

 

熟達した名人の技術を我々が美しいと感じるのは、名人の手による技が現実には繰り返し得ないという非虚構性と、そこに込められる精神性が刹那的であるからではないだろうか。技というものは本来的にはただ一度きりと限定されたものであり、再現できないし、できるものでもない(現実にまったく同じ与件というものが存在しない)。しかも、その人固有の体験をとおして見出された「応用」が表出されているのだ。「応用」もまた時々刻々と変化し、時が経れば経るだけ磨きがかかるものでもある。

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今、その瞬間に「技」に遭遇し、目撃した奇跡。それは術者が見出し、選びだした唯ひとつの未来でもある。その技がどんな経緯をたどり、どこへ向かおうとしているのか。そんな果てのない探求に思いを馳せてみるのもまた、一興というもの。

 

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*1:テレビをリアルタイムで観ることはほとんどない。時間は有限なのだ。撮りためて、気になる番組だけ倍速で見るのが効率的だと思う

*2:俺は無類の“焼き鳥オタク”でもある

*3:だからこそ、MMAファイターの青木真也が「俺以上の『作品』を他の格闘家はつくれない」と語っていることは論理的に正しい