近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

美食を巡る「職人」と「アーティスト」

いつからだろうか、驚くほど「食」に対する妥協を許さぬようになった。老後は自分で飲食店をやってみてえなと。そんな世間的にとてもありがちで、淡く浅はかな夢を抱くほど料理を食すことと提供することが好きになった。ちょっとでも気になる料理の噂を聞きつけると、1人ででもフラ〜っと店の暖簾をくぐるほどに美食探訪はライフワーク化しているし、旅先で気になった料理などは自宅で再現したりアレンジするようにもなった。

 

店で提供される料理には一つ一つに作り手の逸話があり哲学がある。コースとして供される料理には料理人のしたたかな戦略があってシナリオが存在する。店舗という演出と体験を絡めることで料理人の戦略はストーリーを紡ぎ出すのだ。味覚、嗅覚、視覚…あらゆる感覚器官と記憶を総動員することで、そこに込められた精神性を自らの身体を以て知覚するガストロノミーは至高の総合芸術だとさえ思っている。

 

昔から料理には五月蝿い方ではあったが、好きが高じてここまで食を追求するようになったきっかけは、意外だけど「焼き鳥」だった。なんてことのない平凡な住宅地である地元に、ミシュランで星を獲ったこともある隠れた名店がある。気安い大衆食であるはずの焼き鳥が、最高の素材と丹念な下処理、そして絶妙な職人技をかけあわせることで今まで食したことのないような極上の逸品料理となって舌の上でとろけ、それ以来、その焼き鳥の食感と香りが脳裏に焼き付くようになった。もはや病気の沙汰だ。

 

そんな趣向から、このほど気になっていた2本の映画を見た。

二郎は鮨の夢を見る [DVD]

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ノーマ、世界を変える料理 [DVD]

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一つは5年連続で「ミシュランガイド」三つ星を獲得し、オバマ元大統領をはじめ世界中の美食家をうならせてきた銀座の高級すし店「すきばやし次郎」の世界にアメリカ人監督が迫ったドキュメンタリー作品「二郎は鮨の夢を見る」。そしてもう一つは「世界のベストレストラン50」において、過去4度にわたり第1位を獲得し常に上位5位以内に名を連ねる革新的な北欧料理店「noma(ノーマ)」の天才シェフ、レネ・レゼピに密着した映画「ノーマ、世界を変える料理」。

 

この2作品、「食」のプロフェッショナルを追ったドキュメンタリーであることは同じなのだが、そこに描かれた料理人としての姿は驚くほど対照的だ。もちろん、ストイックに美食を追求する求道者としての姿は共通している。食材にとことんこだわり、徹底して料理に手間暇を惜しまないところも共通している。ところが、料理へのアプローチであったり考え方、あるいは演出の仕方に関しては真逆と言っていいくらいに違う。かたや創作料理でかたや伝統料理という性格の違いはあるにしろ、あきらかに両者の料理に対する振る舞いは異なっているのだ。この違いは何なのだろうと思案していたところに2つのキーワードが舞い降りた。そうか!これが「職人」と「アーティスト」の違いなのかもしれない。

 

優れた料理人への賛辞として多用される、この2つのキーワード。工業製品などの世界では明確に棲み分けられるこれらのキーワードも、こと「食」の世界ではほぼ同義に扱われることも少なくないだろう。だけど明確な規定がないにしろ、あきらかにその語意が指し示すものは違う。では、どこからどこまでが「職人」の範疇で、どこから先が「アーティスト」の領分になるというのだろうか。この2つを分かつ境界線は限りなく透明に近い。

 

一般的な理解では職人は連綿と続く伝統技法を極限まで磨き上げるコンサバティブなイメージがある。一方でアーティストは既成の概念を打ち破るような革新者としての姿は想像するに容易い。つまり職人は「直線的」な筋道を貫くものであるのに対して、アーティストは「非線形」とでも表現すべき複雑性が結節点として存在するのだ。それでは、この両者が1本に繋がることはあり得ないことなのだろうか。職人を経てアーティストになる、またはその逆にアーティストから職人へと変貌するということはないのだろうか。

 

実はこの疑問を解く鍵が日本の古武道や古典芸能の中にある。古くから芸事の世界での段階論として伝わる「守破離」がそれである。仏教用語の「習絶真」も「守破離」と同義と考えていい。雅楽における本格から破格へ、静から動へ、緩から急への漸時変化を表す三相の「序破急」もまた、同じ世界観に立脚した言葉で密接に結びついた思想といえるだろう。

 

そもそも守破離とはなにか。「」とは初学者が師匠の型を忠実に守り再現する段階。師匠の行動、基本の技を確実に身につけることを指す。教えられたことをそのまま寸分の狂いなく忠実に実行するということが肝要になる。「」は師匠から教わった型の上に自分なりの改良を加えること。他の流派や別のやり方も参考にしつつ、良いものを取り入れながら自分のスタイルを確立していく段階を指す。そして「」は師匠の教えや型から離れ独自の方法を編み出すことを言い、学んだことを自分で発展させる段階のことを指す。

 

「自分を客観的に見る目が観客の目と一致することが重要」であることを説いた能楽の大成者、世阿弥による「離見の見」という概念もまた「離」だからこそ為せる業といえる。つまり常に冷静に、冷徹なまでに客観的に自分の技量のほどを鑑みて、己が抱く自負や矜持と世間の評価とが一致する瞬間こそ「離」の境地ではないか。

 

翻って、何が言いたいのかというと。いわゆる「守」「破」の段階こそが職人の世界であり、「離」がアーティストの領域といえるのではないかということである。「守」と「破」は戦略的にはあくまで基本となるセオリーの上に依って立つ創造的模倣であるのに対して、「離」は創造的破壊。つまり陳腐化した既存のセオリーや概念を断絶し、新たな価値を付加する破壊的イノベーションの創出が前提となってくる。もちろん自身のバックグラウンドとなる技術や手法、ライセンシングはあってしかるべきで、それらがなければ新たな価値を付加し得るイノベーションなど生まれようもない。「守」と「破」を経てのみ「離」の境地が開けるのだから。

 

なればこそ、そういった過去の蓄積である自らの資産をどう扱うか。リファレンス(参照物)としてのリスペクトに留めるか、踏襲し正統化するのか。どうも情報資産の扱い方・態度によって「職人」と「アーティスト」を分ける大きな分水嶺が存在するようである。と、ここまで書いてきて何なのだけれど、これはブランディング論にも繋がる、なかなかに深いテーマだなってことに改めて気づく。

 

そんな観点から2作品を比較すると、やはり両者には明らかな違いがある。カウンターメイン10席程度の小さな店で酒類などは出さず鮨のみを提供して単価3万円以上をとる伝説的な寿司職人である店主・小野二郎。一切の妥協はせず、余計な仕事も創作もしない。そんな彼の握る鮨はあくまでクラシック・スタイルであり、まさに「引き算の美学」によってすべてが結実している。かぎりなくシンプルで奇を衒ったものがないのだ。

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一方、ノーマのシェフ長であるレネ・レゼピはかつてスペインの伝説的なレストラン、エル・ブジでも働いた経験を持つ。提供するのは北欧、スカンディナビア料理をベースにしたものだが、かなりの部分をレネ自身による独自の解釈による創作料理だ。地産地消をモットーに食材に徹底的にこだわり、生きた蟻や苔を素材に用いることもある。独創的で、奇抜で、盛り付け方にもこだわり抜いた彼の料理はまさに芸術作品であり、北欧という既成のジャンルでは捉えきれぬ複合的なアイデンティティを秘めている。自身もデンマーク人でありながらマケドニア系イスラム人のルーツを持つレネの溢れんばかりの才覚は、あきらかに「積算の美学」によって衝き動かされている。

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職人かアーティストかという議論は、一概にどちらがどうだといった評価を下せるものではない。それぞれにおそらく正解があり、また難しさや葛藤もある。その人の生き方やライフスタイルの問題でもある。また多くのアーティストが職人を経ていることは確かだが、必ずしもアーティストが上位概念であるわけでもない。

 

どちらにとっても重要なことは。自らの作品の背景に強固な哲学や一本筋の通った考え方が見え隠れする仕事は、多かれ少なかれ受け手や買い手の心に届く。そういう個々のレベルの共感が波紋となり、やがては共鳴になり、大きな畝理をつくりだすことになる。そうして出来上がったものがいわゆる流派や新たな潮流であったり、社会的なコミュニティだったりして一時代を築いていくことになる。すべてが正解であり間違いでもない様々な多様性こそが文化を創発し、より豊かな土壌となっていくことを俺らは過去の経験から知っている。願わくば、そのような作り手の哲学や思いみたいなものが希薄化するような風潮だけは生み出してはならないと思う。

 

また機会をみて、それぞれの作品については批評してみたい。それでは、師走に愛を込めて。

 

Adiós, amigo!