近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

戦略考

おなじ1冊の本が、人生の転機でまったく違う読み方になるってことがある。それは多くの場合が“古典”といわれるもので、知識と経験の蓄積によって獲得した、ある種のフィルターをとおすことで、まるで立体かのように違った角度から読めてしまうのだ。

 

まさに最近そう感じることがあって、俺の場合はそれが『孫子』だった。過去に幾度も読んでいるはずなのに、今になって本当の孫子の姿が見えた気がする。それというのも第一に、俺自身がブラジリアン柔術という勝負の世界に身を置くようになった環境変化と経験、第二にデレク・ユアン著『真説 - 孫子』という学術書を読んで得た知識が大きく影響している。

 

「戦略学」の限界

おもに西洋で社会科学として扱われる戦略学も、その原点はプロイセンの軍人クラウゼヴィッツによる『戦争論』で、クラウゼヴィッツを継承するかたちでイギリスのリデル・ハートやコリン・グレイ、アメリカのエドワード・ルトワックなどの戦略思想家たちがアカデミズムとして発展させてきた。原因と結果にもとづく演繹によって戦争という事象にうごめく力学を捉え、合理的な組織運用を可能にしようとするのが『戦争論』のアプローチだが、社会科学であるがゆえにどうしても「マネジメント(管理・調整)」という発想が色濃い。

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だけど第一次世界大戦の発生メカニズムさえ既存の理論モデルからは説明できないように、アカデミズムとしての戦略学がはたして戦争における「原因」と「結果」といえるほど鮮やかに要素を分節し、明瞭に説明できるものなのか疑問は残る。西洋の戦略観はつまるところ因果律に支配されているのだ。だからこそ、物理的世界と心的世界におけるニ元論に話が終始してしまっている。とはいえ、クラウゼヴィッツの『戦争論』は組織運用(リーダーシップ)におけるマニュアル本として見れば一級の史料であることに間違いはない。

 

ビジョナリスト・孫子

それに対して古代中国の『孫子』は物理的世界、心的世界、そして知性的世界からなる3次元で立体的に戦争という事象をとらえていたフシがある。この「知性的世界」というのが孫子を読み解くうえでの“ミソ”になる部分で、前述のデレク・ユアンは孫子の世界観を老荘思想を背景にして読み解く必要があることを指摘している。その有力な導き手となるのが“道(タオ)”というコンセプトだ。

孫子曰わく、兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。ゆえにこれを経るに五事をもってし、これを校ぶるに計をもってして、その情を索む。一に曰わく道、二に曰わく天、三に曰わく地、四に曰わく将、五に曰わく法なり。

 

孫子の有名な出だしの一節だが、五事の中の「一に曰わく道」の「道」は従来、「道徳」だとか「国を治むる方法」として訳出されていた。ところが易経には「陰と陽があり、それは道である」という一文があり、従来の読み方では読み取れていないニュアンスが存在するとユアンは指摘する。中国特有の自然観であるタオイズムの観点では、道(タオ)の究極の目的は「一である根源」の把握を通じた絶対的な客観性の獲得なのだ、と。

 

ここらへんの感覚は道教の太極図を見てもらうとなんとなく理解できるかもしれない。相互関係にある対のものは一方から一方へと常に変化しつつあるという、中国ならではの有機的パラダイムがここには作用している。すべての事物は一つの道に通ず、そういうことだ。老子も道徳経で「学問をするときは、日ごとに増してゆく。"道"を行なうときには、日ごとに減らしてゆく」と書いていて、世界の本当の姿を把握するためには虚心坦懐であるべきということなのだ。

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また孫子には陰陽学の思想も強く流れているという。実際に「天」と「地」、「奇」と「正」、「虚」と「実」、「剛」と「柔」といった対語を使いながら、二律背反する位相を同一の根源として強く浮かび上がらせている。孫子に一気通貫して流れている基本原理は同一律なのだ。

 

たとえば、勢篇の「凡そ戦いは、正を以って合い、奇を以って勝つ。故に善く奇を出だす者は、窮まり無きこと天地の如く、竭きざること江河の如し。」は、「攻めとは守るためのもの、守りとは攻めに転じるためのもの」、「柔らかなものが剛いものに、弱いものが強いものに勝つ」という孫子の要諦であり、重要なテーゼをよく表象している。つまり孫子は戦争を"波動"のような抑揚としてとらえていたのではないだろうか。

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タオイズムと陰陽学。この2つの視点を獲得することで、西洋人には容易に想像できない自然観が知性的世界として見えてくる。それはたとえば漫画『キングダム』など古代中国を扱った物語で武将が戦闘を“気(機)”や“勢”、“流れ”と表現している、第6感でしか感知し得ない、いわゆる“勘どころ”的なイマジネーショナルな世界観や摂理の話だ。つまり孫子にはクラウゼヴィッツも見ることができなかった、もう一つの世界を戦争の中に見ていた可能性があることを物語っている。

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このような世界観から孫子は、いわゆる「謀(はかりごと)」による非軍事的アプローチを最上位に置き、物理的・心理的のみならず、陰陽学の風水的な見地をも含んだ、ある種の直感的な知覚世界をもコントロールして戦争の"場"を支配しようとしていたのだ。ここが西洋の戦略観とは決定的に趣が異なる要素だろう。

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東洋・戦略思想の真髄

戦略家としても名高い毛沢東が孫子の熱烈な信奉者であったことは有名だけど、日中戦争時の蒋介石にも孫子の血脈は脈々と継承されていた。それを示す彼の発言が残っている。「日本の最大の弱点は国際関係にあり、中国の最大の利点も国際関係にある。今日、実力での対日抵抗の諸条件が整っていない中国は知力を以て日本の武力に抵抗し、国際的な大勢の利用から自国の活路を開くべきである」と。

 

このようなビジョンを実現させるべく、1938年に蒋介石が駐米国大使に据えた胡適もまた規格外の大局観を持ち合わせた卓越した天才だった。国民政府幹部・王世傑に宛てた書簡は凄まじく切れ味が鋭い。あまりにも鋭すぎて、読んだ瞬間に鳥肌がたってしまったくらいだ。以下に引用する。

我々は、第三国が先に世界大戦を起こしてくれることを夢見ることができない。開戦する条件を最も整えているのがソ連であろう。しかしソ連は組織的で準備のある国であるだけに、最も辛抱強いものである。ソ連の次は英米であるが、彼らはソ連以上に開戦を嫌がっている。そのため、残っているのは二つしかない。

 

一つは日本が先に戦争を起こすこと、もう一つは中国が先に戦争を起こすことである。日本はずっと前から挑発してきたが我が国が抵抗しなかったため、日本が再三挑発しても国際的な大波乱には至らなかった。日本の挑発を国際的な大災難に変えさせたいならば、中国は絶大な犠牲を決心しなければならない。この絶大な犠牲の限界を考えるにあたり、次の三つを覚悟しなければならない。

 

第一に、中国沿海の港湾や長江(揚子江)の下流地域がすべて占領される。そのためには、敵国は海軍を大動員しなければならない。

第二に、河北、山東、チャハル、綏遠、山西、河南といった諸省は陥落し、占領される。そのためには、敵国は陸軍を大動員しなければならない。

第三に、長江が封鎖され、財政が崩壊し、天津、上海も占領される。そのためには、日本は欧米と直接に衝突をしなければならない。

 

我々はこのような困難な状況下におかれても一切顧みないで苦戦を堅持していければ、二、三年以内に次の結果は期待できるだろう。

(1)日本では軍の大徴集により多数の国民が戦禍を実感するようになる。

(2)軍事費の圧迫により日本国民が財政的危機を実感するようになる。

(3)満州に駐在した日本軍が西方や南方へ移動しなければならなくなり、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。

(4)世界中の人が中国に同情する。

(5)英米および香港、フィリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるを得なくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。

 

以上のような状況に至ってからはじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。したがって我々は、三、四年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」という八文字にまとめられよう。

ー「膨張する帝国 拡散する帝国―第二次大戦に向かう日英とアジア」より

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あまりにも透徹した先見性と大局的な視座、悲壮な覚悟を綴ったこの戦略的文章をドクトリンに、国民政府は日本軍の侵略をコントロールしていたことはその後の歴史が証明している。

 

今日の国際政治において主流とされる外交手法は「オフショア・バランシング」という間接アプローチによる戦略的枠組みなのだが、結局のところ直接的な働きかけではなく、いかに目的に従ってそう仕向けるかという"孫子"的な非軍事行動に古来より重きが置かれていたかがよくわかる。まさに合従連衡的な発想が大戦略として体現されているわけだ。

 

孫子ビギナーズ・マインド

中国の戦略思想というのは世界観までをも含み、不可視なるものも最大限にコントロールしようという超越的な抽象観念であり、まさにフィロソフィーそのものだ。だからこそ西洋の戦略論よりも視座が鳥瞰している。それが如実に現れているのが諜攻篇の「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」という一文なのだ。

 

そして、古代中国の戦略観がもっとも凝縮して語られるのが「」というエレメントだ。

「勝者の民を戦わしむるや、積水を千仭の谿に決するが若き者は、形なり。」(形篇)

「故に兵を形すの極は、無形に至る。」(虚実篇)

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夫れ兵の形は水に象る。水の形は高きを避けて下きに趨き、兵の形は実を避けて虚を撃つ」という老子の有名な言葉が示すとおり、古代中国において「水」は不変の順応、無形の概念そのものなのだ。道徳経にもわかりやすく記述されている。

天下において、水ほど柔らかくしなやかなものはない。しかし、それが堅く手ごわいものを攻撃すると、それに勝てるものはない。ほかにその代わりになるものがないからである。しなやかなものが手ごわいものを負かし、柔らかいものが堅いものを負かすことは、すべての人が知っていることであるが、これを実行できる人はいない。

また、こうも記されている。

とらえにくくておぼろげではあるが、そのなかには象がひそむ。おぼろげてあり、とらえにくいが、そのなかに物がある。影のようで薄暗いが、そのなかに精がある。その精は何よりも純粋で、そのなかに信がある。

 

孫子の「水」のとらえ方は、俺なんかは格闘技をやり始めてから強烈にシンパシーを感じるようになった。柔術をはじめとする格闘技全般は如何に力を行使するかではなく、如何に力を抜くかということに尽きる。

 

「柔よく剛を制す」という格言にすべてが集約されるように、最小限の力で相手をコントロールすることが武術の最終目標で、勝つためには成功確率を最大化する“陣地”を取りに行かないとダメだ。その形態のひとつが「マウント」であったり「バックテイク」などのポジショニングで、有利なポジションへ移行するためには水のような"しなやかさ"であらゆる変化に適応する。無形のしなやかさがときに濁流となり、抗うものを飲み込み、岩をも砕くパワーを宿す。ここに孫子でも特徴的な「後発制人」の思想が現れる。

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このように孫子には戦争だけではなく、様々な闘争形態に応用できる普遍性が内在している。だからこそ映画『ウォール街』で成功者、ゴードン・ゲッコーが孫子の一節を諳んじてみせたり、チャーリー・シーン演じる主人公に教訓として学ぶように促したりもする。闘争こそが人類の本質だという言説にしばしば出会うが、まさに孫子は生存闘争における生き方を説いた思想書なのだ。

 

古典を漫然と読んでしまうと至極当たり前すぎるようにも思える普遍的な事柄が、その世界観や背景を知ることでまた違った本質が浮かび上がったりもする。あらためて読み解いてみると、中国の戦略文化に根づいた叡智と洞察の深さは本当に驚かされるばかりだ。かつての文化人は漢文を読み下す素養こそがベストブライテストの証左であったというのも頷ける。

 

最後に孫子の戦略観がもっともよく表現された象徴的な一文で筆を置くわ。

「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。強弱は形なり。」(勢篇)

 

真説 - 孫子 (単行本)

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全文完全対照版 孫子コンプリート: 本質を捉える「一文超訳」+現代語訳・書き下し文・原文

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