このブログも足掛け2年(半年ほどの中抜けがある)が過ぎ、3年目に突入する。よくもまあ、三日坊主な俺がここまでコンスタントに書き続けてるよなって印象だ。年末年始を前にして早くも総括かよってとこはあるのだが、ひとつの節目なのは確かな話で。執筆者としての考え方と今の実感を述べておきたいと思った。
現時点で書いた文字数は約24万文字で、単行本にして2.5冊分ほどの文章量にもなる。こんな文字、文字、文字だらけで、あらゆる方面にテーマがとっちらかったブログを読むヤツいるのかと思ってもいたが、最近になり仕事関係や柔術の同門の方なんかで「読んでるよ」って御仁もポツポツと現れはじめている。皆さん、筆者の想像以上によく読んでくださっていて、ありがたいかぎり。
実は15年ほど前にもビジネス系のブログを書いていたことがあり、ちょっとした名物ブロガーでもあったんだが、当時の状況から考えてもブログを巡る環境が大きく変わったなというのが大きな実感だ。自分自身が一度ビジネスから身を引いたことで、一からのスタートになったのも影響してか、圧倒的にプレイヤー数が増えたことで過去のようには注目もされない、まさに場末のブログの如くひっそりと書かせていただいている。否、これは僻みや嫌味なんかではなくて、まさに俺自身が望んでいた環境なのだ。もはや多くの人の目に触れることよりも、少数でもちゃんと理解して精読してくれる読者の存在。それが一番の救いであり、最大の幸福ですわ。
これだけとっちらかったように見える思考の残骸も、毎年、隠しコマンド的にテーマ設定をしたうえで書いている。初年度は物事を一義的に捉えるのではなしに複眼的な視点を持つことの重要性を、そして2年目は一見してバラバラのように見える事象も人間を媒介にすることで実は根は同じもので、すべてはひとつに繋がっているんだということ。簡単な話が例えば「読む」と「書く」、さらに「翻訳する」ということは、出力の仕方は三様に違えど同じ中枢を共有しているのではないか、という問題提起だったのだ。
このブログは今、大きく2つの方向に舵を切っているように見える。短絡的に物事を捉える御仁は「武術」と「芸術」という、一見相反しそうなトピックを扱ったブログだとお考えになるだろう。表面的には正しい。でも、俺にとってこの2つの物事は「生きる」という生存活動において言語化こそ容易でないにしても、明確につながった一連の事象なのだ。さらに最近また新たな視点を獲得しつつあるので、大きなトピックとして3つ、4つの方向性から文章を書いていくことになるだろう。それでもなお、問題意識として「生きる」うえでの術(すべ)という、根は同じものを扱っているのだ。それを延々と説明することが、この雑文ブログの使命ともいえる。
そーゆー意味では、俺自身が今もっとも関心を注ぐ「グレイシー柔術」について大きく紙面を割いてはいるが、執筆者として読者に想定しているのは「柔術に興味のない」未経験者や「柔術の思想的背景や歴史を知らない」初心者だ。違うトピックで流入した非格闘クラスタの人が、このブログに書いている俺自身の気づきや知識に触れてもらうことで、一人でも多くの人が柔術の世界により深く足を踏み入れてくれることが望外の喜びなのだ。その逆もまた然りで、柔術関連の記事で流入した人が柔術以外のトピックに興味をもってくれること。それこそがこのブログが標榜する「生きる術」を手に入れる、ということそのものなのだ。一芸の道にしか通じていない人は、厳しい言い方だが生存術を持ち合わせていないに等しい。
そこで数少ないとはいえ、親愛なる読者諸氏に期待するのは、ぜひ「想像力」を働かせてほしいということだ。ずばりイマジネーションである。アーティストと云える職業ならばそれこそ必須といえる能力だが、これからの時代をより良く、より豊かに生きるためには、芸術家のみならず、実務家、格闘家を問わず、あらゆる生業に必要な要素が想像力だと云える。写真や小説、料理、柔術も然りだが、自らを構成する経験や技術というデータベースから出力される活動の産物は、それはどんなものであれ「表現」なのだ。
意外かもしれないが、格闘家も基本的に自分が最強であることを試合で表現している。だからこそ、プロレスラーの武藤敬司が自らの試合を「作品」と称し、MMAファイターである青木真也は「オレ以上の作品は他の格闘家には作れない」*1 とも豪語するわけだ。とくに青木にいたっては、プロ格闘家が原石を発掘し代理選手を競わせる人気番組『格闘代理戦争』での自身の役割について、「小説を書いてるイメージ」とも語っている。この心境はよく理解できる。
勝つことを目的に白黒しかない世界観。それはそれで存在するけどつまんないな。オレは小説書いてるイメージでやってるから。 #peing #質問箱 https://t.co/p1qWFhkQEK
— shinya aoki 青木真也 GO!! (@a_ok_i) October 15, 2018
おこがましいことを承知で申し上げるならば、例えばの話、自分を表現するストーリー(独自の思想や美学、こだわり等)を持ち合わせていない、またはストーリーの弱い御仁と柔術でスパーリングしても存外面白くないものだ。その人ならでは、といえる技やシチュエーションがあってこそ駆け引きの応酬となり、如何に攻略するかという戦略性も増す。格闘技はまさに身体をとおした会話であり、身体性の「文学」と云えるのだ。誰であれ、格闘は人生の一部なわけで。
“武器”と云い換えてもいいが、自らを語れるストーリーがないと入力が機能しなくなるような事態をも招く。ストーリーを持っていればこその蓋然性や新たな発見、刺激が生成されなくなるのだ。翻って想像力を駆使すれば、ならではの美学を発見することができるし、トレーニング・パートナーと新たなストーリーを創発できるようにもなる。単純に強い・弱いの話じゃない、表現しているか・していないかの問題なのだ。自分自身をストーリーの中に位置付けるには、柔術の大まかな出自や流れを知らなければならない。俺が書いてることは、そーゆーことだ。
想像力を働かせることで、こんな思考実験もできる。もしその人をその人たらしめるものが記憶だとするならば、こんな駄文を掻き集めたブログでも書けば書くほどに、思考と記憶の集積としての価値が増すことになる。文字数が増せば増すほどに近い将来、発達したAIがブログに搭載される日が来たならば、このブログもサイバースペース上にアバターとして人格を宿すようになるのではないか。あたかも押井守的な発想ではあるが、今の技術力から鑑みるとそう遠くない未来に、現実のものとなる様を想像するに難しくないはずだ。
想像力の重要性をつらつら書いてきたのだが、想像力はあらゆる分野に適用できる。この能力をビジネスで発揮すれば、それは立派なビジネスプランになるし、ダイナミックなマーケティング戦略を描くこともできる。言い方をかえれば想像力とはフィクション力でもある。どういう物語を紡ぐかで、その分野における可能性を最大化してもくれる。想像力を要さない分野にこそ想像力を、そしてフィクションを持ち込むこと、それこそが想像力の威力を極限化し、加速度的に事業スピードを増幅させるのだ。そこらへんの話は以下の記事にも詳しい。
これからの1年のキーワードのひとつが「想像力」になることは間違いない。俺もそんな想像力を駆使して、あんたの想像力をより掻き立てるような記事を書いてくつもりだ。年末までにいくつかの大型論考も用意している。
そんなわけで、3年目もどうかよろしく。