近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

人生は、運よりも実力よりも「自分を(!)勘違いさせる力」で決まっている

社会現象となった『進撃の巨人』作者の諫山創が、テレビで興味深いことを云っていたのを思い出した。曰く、

「(進撃の巨人は)ある結末に向かって進んでいく物語なんで、今は早く終わらせた方が。作品のためにも、全体の作品の質のためにも。できるだけ早く終わらせた方がいいと思います。」

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物語ることの本質を突きながらもなんて哀しい言葉なのだろう、と思った。はじまると同時に結末へと向かう儚さ。切なさ。空虚感。書くと同時に終わることが宿命づけられ、あたかも人生のようでもある。人は何故に「物語」をおもしろいと思うのか。それはあきらかにどこに向かおうとしているのか知らないからだ。これから起こるべくして起こることが解らないからだ。対象についての知識が欠如しているのだ。

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すべてを知ってしまっている、結末がわかっている物事ほどおもしろくないものはない。録画されたスポーツ中継になぜか臨場感を感じないのは、すでに決定された物事を繰り返しているに過ぎないからだ。

 

だから、無知であることは決して恥ずべきことではない。それはなにより幸せなことでもあり、物事を楽しむための態度のひとつなのだから。知っていることとの差分が大きければ大きいほど、これから楽しむことのできる余地は大きい。だから物事をよく知っているということは、ある意味では楽しむことのできる余地が少ないということでもあり、不幸なことでもあるのだ。知識を持てば持つほどにエリート意識が生まれ、枠組みやしがらみにとらわれてしまうのもまた事実で、斬新さや奇抜さといった自由を失うことにもなりかねない。

 

文章を書く、物語を紡ぐという営為においても同じことが云えると思う。実は俺の場合、いつも記事を書くときに結論を先に導くことなく書いている。だから書く前からどこに着地しようとして書いているのか俺でさえ知らない。意外に思われるかもしれないが、概ねなんとなく書いてみたいトピックと関連しそうなエピソードや知識だけを携えて、ほぼ見切り発車で書きはじめているのだ。書きながら考える。だからこそ、書き終えたと同時に自分が知らない自分としばしば向き合うことになる。俺にこんなことが書けるんだ、という新たな発見がいつもある。これは以前に知の「即興」について語った記事『improvisation ~思考の導火線~ - Jitz. LIFESTYLE』に深く通じている。

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まるで何かが降りてきたかのように不意に閃いたり、憑依されたように別の何かの力に導かれるが如く書くということもある。所謂、文学と娯楽作品を分けるものがあるとするならば、それはまさに筆者自身にとって未知なる物語を紡ぎ出すのか、はたまた既に決定された筋書きを繰り返しうるのかというスタンスにあるのではなかろうか。それを示すように作家・高橋源一郎は著書『一億三千万人のための小説教室』で、次のように書いている。

しかし、同時に、小説には非常に不思議なところがあります。それは、小説というものが、いちばん深いところで「未来」に属しているということです。

いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう。小説を書く、ということは、その向こうに行きたい、という人間の願いの中にその根拠を持っている、わたしはそう思っています。わたしは、人間という、この宇宙に偶然生まれた、不思議な、けれども取るに足らない存在にとりついている本能、その中でも、もしかしたらその点によってだけ、他の存在と区別されているかもしれない本能、「ここではないどこかへ行きたい」「目の前にあるその壁の向こうに行きたい」という本能が、小説を(広くいうなら、その母胎である「文字」を)産んだと思っています。ならば、それは、人間の存在と共に古いものです。

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

一億三千万人のための小説教室 (岩波新書 新赤版 (786))

 

 

高橋は小説という普遍的な事象をとおして熱っぽく遠大なテーマを導出しているわけだけど、そこで問題になるのが人間の運命は運命論的に既に決定されたものなのか、それとも未知なる道を切り拓く自由なものか、という古くからある命題だ。多くの哲学者や知識人によって今も議論が為されている人類最大の命題。物事の生起は必然か、はたまた偶然なのかということともリンクしてくる。

 

これに対して明確な答えを出すことは、当然のことながら今の俺にはできない。でも、できることなら人間は未来を自らの手で切り拓く自由な存在であると信じたい。だからこそ、人生という物語は楽しむ余地が大きいものだと思うこともできるし、まだまだ自分が知らない自分とも出会える。自分自身を更新することだってできるだろう。物事は起こるべくして起こり、出会うべくして出会うというのもまた事実なのだが。

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ビジネス界隈で自分の得になるような他人の勘違いを「錯覚資産」と定義し、他人の認知バイアスを利用して「錯覚資産」を増大させる人が得をしているとして、実力主義社会の欺瞞を暴いた『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている』という本が話題を呼んでいるようだが、ある意味では的を得た内容だと思う。というのも、このブログでも再三申し上げていることだが、自分が歩んできた人生や世の中の流れを「文脈」に置き換え、いかに自分の存在意義や役割を物語の中に位置づけるかという、云うなれば「文学力」とでも呼ぶべき物語構築力が、今後ますます重要になってきているからだ。俺が云う「文学力」とは、まさに自分自身を勘違いさせる力、「自己陶酔できる力」でもあるのだ。

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すべからく世の中にネットが張り巡らされた現代社会、あらゆる知識やノウハウといったものが断片化した結果、体系をなしていた筋ともいえる縦糸がことごとく分断されてしまった。たとえば何か気になる言葉があったとして、多くの人はまずネット検索にかけるだろう。そうしてヒットした断片的な言葉の集積によって、あんたのデータベースはつまみ食い的な継ぎ接ぎによって形成されることになる。従来は知識を得るために本を媒介し、理解を深めるのに注釈からまた別の本を参照することで体系が紡がれ、データベースが形成されていたのだ。

 

情報と情報を繋ぐハブとしての知の体系。世の中を貫くそうした縦糸が希薄化しつつある今、一本筋の通った「物語」を創り出す力が重要になる。人間というのは本質的に物語が好きなのだ。だからこそ、小説にも一定の需要がある。ここから先、なにをするにしても「文学性」が求められる時代であることを明記したいと思った。フィクション(物語)は「戦略」なのだ。

 

※この記事は云うまでもなく『人生は、運よりも実力よりも「勘違いさせる力」で決まっている - 第一章 - 分裂勘違い君劇場 by ふろむだ』に対するパロディであり、オマージュだ。先方さんに「あんたの本のタイトルとイラスト、パクられてるよ」なんて無粋な告げ口は、どうかご容赦願いたい。

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