近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

卓越者が視る風景 〜主観を捨てよ!〜

過日、柔術道場の先輩から興味深い話を聴いた。曰く、かつて同じ道場に在籍していたブラジリアン柔術の達人ともいえるトップ選手の一人*1 が、試合やスパーリングなどで自分と相手の動きを俯瞰して見ることができるのだと言う。ん?自分と相手の動きを俯瞰?字面だけでは解りにくい話ではあるが、つまり、自分自身の試合映像をリアルタイムにテレビで観戦しているかの如く、第三者視点で見ることができるというのだ。凄い!それって、いわゆる幽体離脱じゃねえか…

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ちょうど読んでいた書籍のなかに、“体外離脱”の話が書かれていたので冒頭の先輩の話を思い出した。これがもうとんでもなく面白い本で、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて創始された、ある古武術の免許皆伝者の半生を克明に記述したものだ。数奇な運命をたどる武術家の不思議な霊性体験を、ユング学派の精神分析家である著者が解き明かしていくという迫真の書。神霊や異界との交感によって、非業の死を遂げた十八代前の先祖や、江戸時代初期の自身の流派の開祖と霊媒をとおして普通に会話したり、弟子が念写してみせたりと俄に信じがたい衝撃的な内容が含まれるのだが、「オカルト!」と一蹴してしまうには勿体ない叡智が詰まっている。件の文章を引用しよう。

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ときには、眼差しを向ける/向けられるという立場、見る/見られるという立場が逆転することもある。つまり意識が一時的にふだんの居場所を離れ、(いつもとても気になっている)彼方にあるはずの眼差しのほうに同一化してしまうのである。ふと気がつくと、一定の距離をおいて客体としての自分を眺めている、いわゆる体外離脱体験である。(中略)肉眼では見えないものが見え、耳では聞こえない音や声が聞こえる。そして、こうした五感を超えた五感のなかに、さまざまなメッセージや意味が感じられたり、読み取られたりするのである。武術的な面では、殺気や殺意の感知などにもつながる能力となりうるだろう。

武術家、身・心・霊を行ず──ユング心理学からみた極限体験・殺傷のなかの救済

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如何だろう。武術を嗜む御仁ならば、少なからず共感を覚える部分があるはずだ。この本によると、体外離脱体験は覚醒しているときにも生じるという。とくに、不意に何らかの危機的な状況に遭遇した場合などに生じやすいのだとか。件の武術家にはもともと、なぜか打撃の際に相手の首を執拗に制してしまう癖があった。その癖を精神分析によって紐解いていくと、武士であった十八代前の先祖のコンプレックスに行き当たることから霊性修行がスタートするのだが、かつての武術にとって霊的な修練や修行は、身体や心の稽占を積むことと同様に不可分なものだったはずだ。ある境地に立つと、自分や相手の身体のなかに起こっている感覚みたいなものがリアルにわかる、という状態になっていくのは、合理的に説明できることだけではないからだ。

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意外にも体外離脱は武術にかぎった話ではないらしい。サッカーの上手な人は試合中、ピッチの上空から自分のプレイが見えるという話もちらほら見受けられるし、そもそも能の大成者・世阿弥によって書かれた15世紀の能楽書『花鏡』には、「離見の見」という有名な言葉も登場する。曰く、見所(能を見る客席)から見る己の姿こそ「離見」である。さらにはこう続く。「心を後ろに置く」にてあらずや、と。自分が見ている風景、主観を捨て去り、自分を含んだ風景を俯瞰して客観視できるような視座に立て、というのだ。つまりは自らの技能がある閾値を超えた瞬間、人は自分の立ち位置を見下ろす「遠い眼差し」を手に入れることができるのだ。

 

スポーツや芸事だけではなく、将棋の世界でも同じような感覚は存在するらしい。あの羽生善治名人も全体を見渡す、上空から眺めて全体像がどうなっているか見ることを「大局観」と定義して、著書のなかで次のように語っている。

大局観」とは、具体的な手順を考えるのではなく、文字通り、大局に立って考えることだ。パッとその局面を見て、今の状況はどうか、どうするべきかを判断する。「ここは攻めるべきか」「守るべきか」「長い勝負にした方が得か」などの方針は、「大局観」で無駄な「読み」を省略でき、正確性が高まり思考が速くなる。

大局観  自分と闘って負けない心 (角川oneテーマ21)

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将棋というと、「読み」と呼ばれるロジックの組み立てがカギを握ると思われがちだが、羽生は大局観を使うと、「いかに読まないか」の心境になっていくのだと断言する。それは取りも直さず俯瞰しているがために、読まずとも感覚的に筋道立った解法を導き出せるというレベルにあるということではないか。あたかも、戦場で地雷を敷設する相手に対して、偵察衛星での赤外線探知によって敷設場所を事前に察知しているようなものだ。「木を見て森を見ず」という言葉があるが、将棋の世界にも「着手をする前に四つの香車を確認しなさい」という有用な格言が存在する。局地的な思考や判断以上に、全体を俯瞰することの重要性を説いたものとして記憶にとどめておくべきだろう。

 

それでは、どのようにすれば「神の視点」ともいえるこの俯瞰能力を身につけることができるのだろうか。右脳の頭頂葉と後頂葉の境界にある「角回」という部位、俗にいうミラーニューロンは電気的刺激を与えると、身体と意識が分離することが脳科学の世界で発見されている。つまり、驚くべきことに脳にはもともと体外離脱用のモジュールが埋め込まれているというのだ。この説を提唱する薬学者・池谷裕二によると、動物に「他者の存在」や「他者の意図」をモニターする脳回路が組み込まれていることは間違いなく、この回路が進化すると他者を真似るという行為へと発展するという。*2

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南米の呪術師(シャーマン)の儀式においても、体外離脱の事例は枚挙にいとまがない。幻覚植物の力を利用して脳内を活性化させることで、体外離脱などの現象を引き起こしているのだ。初心者が幻覚植物を利用した場合は、せいぜい自分の頭上までしか体外離脱できないが、訓練を積んだシャーマンであれば、世界中、宇宙の果て、さらには時間を越えて世界を飛行できるという。つまり意識は必ずしも身体と同じ場所にあるわけではなく、訓練次第で超自然的な俯瞰能力を備えることができるということだ。問題は、どのようにしてこの脳回路を発動させるかということだが、池谷氏の言説や過去の武術家の事例などから、ある程度は解明できる。*3

 

達人だけが持ち合わせるという超俯瞰能力は、云ってみればひとつの空間認識力にすぎない。物理的に自分自身を見つめているわけではなく、五感によって感じ取れる各種感覚の断片を全体像として脳のなかでバーチャルに組み上げて再現しているのだ。視覚情報以外の触感を視覚に転化させているという意味では、文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりするという共感覚にも近しい。つまり、様々な情報を視覚へと変換するための回路が必要なのだ。身体的な入力形式を変容させるには、他者とシンクロ(同調)することで、擬似的に自分のなかに他者の感覚を内在させるしかない。

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そのためのプロトコルといえるのが、自分のロールモデルを徹底的に、そして完璧にトレースするということだ。ロールモデルの行動、思考様式にいたるまでのすべてを微に入り細に入ったトレースによって、自分のものではない入力形式を身体化すること。その愚直なまでの繰り返し、反復によって新たな感覚器官が形成されてくるはずだ。ロールモデルを複数バージョン持つことで、感覚器官はより強化される。空手などでいくつも型があるのは、おそらくこのような効用もあるためであろう。

 

ただし重要なことは、完全な「コピー」といえるほどに完璧な、再現性なくしては成就しえないということ。結局のところ、中途半端に真似る程度なら自分の血肉にならないのだ。

 

いざ主観を捨てよ体外へ出よう!

「神の視点」を手に入れよ

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*1:俺の入門時にはすでに道場を移籍されていて、残念ながら知己を得ることはできなかった

*2:参考文献:脳には「幽体離脱」用の回路があった!

*3:参考文献:シャーマンと同化回路の関連性:同化回路を刺激すると幽体離脱する観測結果