近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

『文学的、あまりに文学的』な人生論 ~「言葉」が人生をつくる~

「文学は現実を模倣する。だったらその逆だって…」

 

攻殻機動隊のTVシリーズ、『Stand Alone Complex』の劇中で語られる言葉だ。J.D.サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を伏線にして次々に起こる事件、その真相に迫ろうとするトグサが吐いた言葉。そう、現実は文学だって模倣しうるのだ。なにせ人間心理をキーにして、世界の謎を解き明かそうとする文学という営みこそが、人生そのものなのだから。

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ここ最近、小説(文学)を書くという行為は、人生そのものだと感じるようになった。ある特定のルールに従うなかで、そのルールの枠内で出来ること、ルールがあるからこそ為せる業を追求し、磨き上げ、そして自らの存在意義や価値観を表現する。そして、できることなら次の世代へ伝えるべき“なにか”を残そうとする。これって、まさに生きるっていうことそのものではないか。では、つまりは小説を書く技術のなかに、人生を有意義に生きる術(すべ)があるのではないか。そう考えるようにもなった。

 

あたかも小説を書くように人生を生きる。もし、これが可能なのだとしたら、文学や芸術における創作論のなかに、生きるヒントというべきものがあるかもしれない。最近の俺の関心ごとはずばり、ここに集中しているといっても過言ではない。だからこそ、描くべき“世界観”や物語としての“文脈”、そして表現すべき“言語”に対して、試行錯誤を繰り返しているのが俺の人生であり、このブログであるということが云えるかもしれない。

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それを示すように、作家の保坂和志は著書『書きあぐねている人のための小説入門』のなかで、本来、小説とは新しい面白さをつくりだすことで、そのためには「面白い小説とは何か?」ということをつねに自分に問いかけながら書かれるべきものだとしながら、次のように書いている。

「小説とは人間に対する圧倒的な肯定である」

「ふつうの言葉では伝わらないものを伝えるのが小説」

「本当の小説とは、その小説を読むことでしか得られない何かを持っている。」

 

如何だろう、見事に人生のことを言い当ててはいないだろうか。これらの言葉における「小説」という語句を「人生」に置き換えて読んでみてほしい。人生とは人間に対する圧倒的な肯定である。ふむ。ふつうの言葉では伝わらないものを伝えるのが人生。ふむふむ。本当の人生とは、その人生を生きることでしか得られない何かを持っている。ふむふむふむ。まさに文学=人生ではないか。

 

そのうえで保坂は、このように言い放つ。ここでも「芸術(小説)」という箇所を「人生」にして読み換えてみてほしい。まさに秀逸な人生論として読むことができるのだ!

日常の言葉で説明できてしまえるような芸術(小説)は、もはや芸術(小説)ではない。日常の言葉で説明できないからこそ、芸術(小説)はその形をとっているのだ。 ~(中略)~ 日常と芸術の関係を端的に言えば、日常が芸術(小説)を説明するのではなく、芸術(小説)が日常を照らす。

 

人生は小説を書くという行為に近しいということを、うまく言語化した人はいないのかと思っていたら、『存在の耐えられない軽さ』や『不滅』などの名作で知られる、チェコ出身のフランスの亡命作家ミラン・クンデラがこんなことを云っていた。

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人間の限界とは言葉の限界であり、それは文学の限界そのものなのだ

 

この言葉からは、<言葉>の偉大な力を感じさせる。つまりはその人が口にする<言葉>こそが、その人の人生を表している。その言葉が流麗で冗長であればあるほど、その人の人生には「文学性」が内在している、ということが云えるのではないだろうか。おなじく作家であり、評論家の高橋源一郎も『一億三千万人のための小説教室』の中で、クンデラのこの言葉を引き、小説というものがいちばん深いところで「未来」に属しているとして次のように語っている。

「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうがわにいる人間を描くでしょう。」

 

そして、俺が考える「人生=文学」論を裏付けるように、このようにも云っている。

「小説は書くものじゃない、つかまえるものだ」

「それは、あなたが最後にたどり着くはずの、あなたひとりだけの道、その道の向こうにあるものです。」

 

それでは高橋が云うように「小説(人生)をつかまえる」ために、作家はどのような作業をとおして小説をつかまえているのであろうか。ここでもまたテキストから先行者の言葉を引こうと思うのだが、思想家の内田樹は、著書『街場の文体論』で村上春樹のインタビューを参照して、作家の創作における身体性を次のように語る。

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作家の仕事はこの「地下室の下の地下室」に入り込み、また戻ってくることです。少なくとも村上さんはそう書いている。この「地下室の下の地下室」に入るためには、それなりの技術が要る。それは「地面に穴を掘る」というタイプの肉体労働に近いものだと村上さんは書いています。 

 

「鑿(のみ)を手にこつこつと岩盤を割り、穴を深くうがっていかないと、創作の水源にたどり着くことができない。小説を書くためには、体力を酷使し、時間と手間をかけなくてはならない。作品を書こうとするたびに、いちいち新たに深い穴をあけていかなくてはならない。しかしそのような生活を長い歳月にわたって続けているうちに、新たな水脈を探り当て、固い岩盤に穴をあけていくことが、技術的にも体力的にもけっこう効率よくできるようになっていく。」

 

これは村上さんが自分の創作のスタイルについて、かなり率直に書いた部分だと思います。そのとき、「地面に穴を掘る」「水脈に達する」という比喩を使う。ほとんどつねにこの比喩を使うんです。 ~(中略)~ でも、村上春樹は小説を書くというときには「地面に穴を掘って水脈に突き当たる」という比喩しか使わない。これは非常にたいせつなポイントだと思います。それが作家の実感なんでしょう。穴を掘ると運がよければ水脈にぶつかる。そこから「何か」が湧出してくる。それをすくい上げる。それが書くことだ、という作家の実感を僕はそのままに受け取りたいと思います。

 

如何だろう、ここでも見事に人生の本質について言い当ててはいないだろうか。人生という受難の道を歩むとき、いくつもの困難に遭遇する。そのたびに人生における旅人は「地面に穴を掘」り、わずかな「水脈を探り当て」ようと試行錯誤を繰り返す。これこそが人生、これこそが表現するということの真因ではないか。そして、このように表現するためには言語が、「言葉」が必要だ。もし俺らが、人生という小説に記すべき「言葉」を見つけることができたとき、言葉を作ることによって、新たな現実をつくることも可能になってくるのではないか。

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おそらく、ここらへんのキー概念になってくるのが、折口信夫や井筒俊彦、鈴木大拙あたりのテキストになるのだろうなと考えているのだが、俺の「言葉」「言語」への探求はまだまだ続きそうだ。

 

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