近未来航法

予測不能な現代社会を生き抜く知的サバイバル術

"かなしみ"から生まれた言葉のコレクター

先日、若松英輔さんという随筆家の講演を聴きに行った。若松さんはご自身の経験から新たな解釈による「死者論」を見出し、ライフワークである古今の文学批評に還元しておられる御仁で。その柔らかで透徹した明瞭な文体から静謐な思索を綴る人気エッセイストの一人なんだわ。普段あまりセミナーや講演会の類には行かないんだけど、この人の話は聞いてみたいなって前々から思ってた。

 

若松さんのエッセーをはじめて書籍化したのが、おそらく2014年に河出書房から刊行された『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』だったと思うんだけど。ちょうど俺もリアルタイムでこの本を手にしてて。独自の着眼点と美しい文章に惹かれて、早くからその動向に注目してた。それで、たまたま目にした今回のセミナー告知に応募したってゆう次第で。

涙のしずくに洗われて咲きいづるもの

涙のしずくに洗われて咲きいづるもの

 

 

正直なところ、この御仁が専門にしておられるテーマをどう講演として出力するのか懸念があって。「死者論」というテーマがテーマなだけに。話の入り方や展開によっては安っぽいお涙頂戴的な話に終止してしまうんじゃないかってゆー。でもまあ、そんな微塵の影響力もない小市民の心配を他所に軽妙な語り口ですんなりと雑談から入り、氏の著書でもおなじみの作家や詩人たちの言葉を紹介してその根源的なメッセージについて言及するというスタイルで講演は進んだ。

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とくに印象的だったのは穏やかな口調ながら詩や文章の朗読になると氏の語気が強まり、ダイレクトに身体の芯に言葉が響いてきたことだ。やっぱり普通の人が不可視なものを見つめ続けている人なだけあって言葉の重みが違う。言葉ひとつをとらえる視点や感性さえも違う。嗚呼なるほど、これが「詩学」なんだなって改めて思った。

 

この講演で若松さんが主張してたことは実にシンプルで。要は「言葉を紡ごう」って話。これはすべての著書でも一貫して主張しておられることで。人にとっての救いとなるものは「言葉」をおいてほかになく。死者と生者を繋ぐ唯ひとつの媒介も「言葉」でしかない。だから「書く」ことで死者と対話しよう。言葉にならない言葉こそが真に美しいものである、そーゆうことだ。なお、ここでいう死者とは特定の「ゴースト(霊)」のことではない。「死者」とは俺やあんた、あらゆる人を生かしている無数の魂のことを指しているのだ。

 

言葉の重要性をさして『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』の中にもたとえば次のような一節がある。

言葉は道具ではない。物事があって、それを呼ぶ道具とかではけっしてない。意味という不可視なるものが、存在の深みから立ち現れるとき、言葉が生まれる。言葉は世界を分節する。「分節」とは、あたかも何もないかに見える混沌とした場所から、忽然と、意味が浮かび上がる現象のことである。 
➖『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』 P.33より

 

こーゆうこというと、すぐにあいつは「あちら側」に行っちまった、なんて後ろ指指されることになるワケで。死者だ、霊性だっていうと、とかくスピリチュアルで妙な言説を避けてとおれないことになり、最終的に大乗仏教やチベット仏教あたりの話に着地することになるんだけど。若松さんのすごいところはご自身が敬虔なカトリック信者であるということ。それでいて平気で教義を飛び越え鈴木大拙や岡倉天心、井筒俊彦なんていう、ちょっときわどいラインにまで言及できる射程の広さを持っている。一見してナーバスになりがちな議論を縱橫に展開できる懐の広さこそが、この人ならではの説得力の凄みを醸成しているんだろう。

 

そんな若松さんの著作でもベストといえるのが冒頭から触れ続けている『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』だ。彼のエッセーにおける処女作といえる作品で、だからこそと言うべきか、その思想性が見事なまでに端的な美しい言葉で著されている。

生きるとは、旅を続けることである。この世での旅を終え、「新たな生への歩み」をはじめた死者もまた旅を続けている。死者にとって「旅」とは、旅する生者を守護する新たな生を生きることにほかならない。
➖『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』 P.26より

 

批評家とは本来、古今東西あらゆる言説から普遍を見出し新たな意味を紡ぎ出す人のことを言う。それはいうなれば「言葉のコレクター」であり、DJであり、セレクターであった。かつての批評家は縦横無尽に思考を展開させることのできる、まさに知性の象徴だった。しかしネットの普及で人類の膨大な知的財産にアクセスできるようになった現在、言葉をコレクトしセレクトすること自体は誰でも容易に出来るようになってしまった。

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そんな「批評家」の存在意義が薄れている今だからこそ、独自の視点から物事を参照し新たな意味を紡ぎ出すことのできる真の批評家が必要とされている。と同時に、批評家自身を貫く強靭な思想の重要性が求められていると思う。今の言論界で支配的なのはまさにポリシーの弱さ、一貫性の無さなのではないだろうか。そんな情況の中で往年のクラシカルな批評スタイルで論壇に挑む孤高の思想家としての姿を俺は若松さんに重ねて見ている。

 

人は言葉にならないことであっても、他者に伝えきれないことであっても、それを信じて生きることができる。
➖『涙のしずくに洗われて咲きいづるもの』 P.25より

 

もう年齢的にも人生の折り返し地点にさしかかり。残された時間を否が応でも視野の片隅にいれておかねばならなくなった今、改めて考えさせられる良い機会になったわ。

 

Adiós, amigo!